神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

1万1回目の成功。

2022年05月12日 | キリスト教
(アンナ・ポリトコフスカヤさんが「私はプーチンが嫌いだ」と書いていたのは確か、わたしのおぼろな記憶によれば『プーチ二ズム~報道されないロシアの現実~』のほうだったと思いますm(_ _)m)


 ドリカムの名曲に、「♪1万回だめでへとへとになっても、1万1回目には何か変わるかもしれない」という歌詞の素晴らしい名曲がありますよね

 ええと、以降の文章はですね、特段ドリカムの名曲「何度でも」に対するディスりということとはまったく関係ない……ということで、よろしくお願いします

 わたし的に、何かのことでもし「がんばれ!」と言われ、人間的な肉の努力によって頑張り続けられるのは――せいぜいがまあ、100回が限度かなと思うわけです。そしてここで、「101回目は成功するかもしれないから、もう1回だけ頑張れ!」と言われたとしたら、まあなんとかもう1回だけ頑張ろうとか思えるかもしれない。でも、そのように努力を積み重ねて、今度は1000回何かのことで努力を続け、忍耐に次ぐ忍耐を続け、「あともう1回だけがんばれ!」と言われたら、それもまたもしかしたら頑張れるかもしれない。でも流石に――1万回がんばり続けて、あともう1回だけと言われたら……「いいかげんにせんかい、わしを殺す気か、おんどれは!!」みたいになると思う、というか(^^;)

 あと、これが何か自分の夢に関することで、女優さんのオーディションでも歌手のオーディションでも声優さんのオーディションでもなんでも……1万回まで行く前に、その半分の5千回の努力で、どこにも何ひとつとして引っかからなかったとしたら――「自分には才能がない」とか「そのような運命にない」として、とっくに諦めてそうですよね。。。

 ところが、これが戦争とかになると、上官が「1万回失敗しても、1万1回目には成功するから、がんばれ!!」と言ったら、兵士たちはどんなに嫌なことでも強制的にやらなければならない。前に、ヨーロッパの中世くらいの時代の城攻めがどんなものだったか……みたいな再現を見たことあったのですが、まあ、当然下っ端の兵が一生懸命城の壁を登って、待ち受ける敵兵の攻撃を受けるわけですよね。まずは弓矢などでグサリとやられ、これも急所などに一発で刺さって死ねればまだしも……片目を射抜かれたもののまだ生きてるとか、その手当ての光景というのがまた痛々しかったり。。。

 城を守ってる側は当然、戦争が長引いて兵糧攻めに合うのが一番恐い。だからもうなりふり構わず、とにかくなんでもするわけです。大きな石を上ってきた兵士に投げつけ、ゴスリと落としてみたり、沸騰した油をぶっかけるなどなど……「どうせ死ぬならもっと楽な方法にしてくれえ!」という、ひとたび戦争がはじまると、そんなことのオンパレードなわけです。

 あとは、捕虜として捕えた敵兵の口を割らせるための、身の毛もよだつ残虐行為の数々ときたら――「この世に神など存在しない」としか思えないほどのものですよね。。。

 でも、そうした中で、誰かが1万1回目くらいに勝機を掴むことで、戦局が変わる……ということがあったのだろうと思うわけです。『三国志』(漫画のほうです・笑)なども読んでいてそうだった気がしますが、城攻めの時には名もなき兵士の中にどうにか高い壁を登って中へ入り込み、城内の敵を斬り殺したり、あるいはようやく侵入は果たせたものの、そこで無念の死を遂げたり――小説でも漫画でも映画でもなんでもそうですが、本当に「戦争って無意味だな」って、毎回そのように思わされます。

 前に、とあるドラマ(笑)の中で、「男が何故戦争をしたがるか」ということについて、こんなふうに語られていたように記憶してます。女性っていうのは毎月月経があって、まったく痛みを感じない人もいるけれど、まずはそこで血を流すし、体の調子が悪くなったり、ひどい場合は毎月立ち上がれないくらいの痛みを経験する。また、何故そんなものが存在するかといえば、将来赤ちゃんを産むために毎月生理というのがやって来るわけで、最初の性交から物凄くいいとかいう女性はまず滅多に存在せず、そこでも痛みや恥かしさや男性に対する屈服感を経験したりする(ましてやレイプということになれば、強制的に屈辱感を味わわされる)。その結果妊娠した場合、そこでも経験するのは痛みである……「男が何故戦争したがるか」だって?あいつらにはようするに痛みが足りない。あいつらは痛みを感じることで「生きてる」と実感したいと無意識のうちにも思っているところがあるのだろう。あいつらにも女性のように毎月血を流す機会があれば――そんなにまで外で血を求めることはなくなるのではないか……と、わたしの記憶に残ってる部分+意訳といった形ですが、大体そうしたことだったと思います。

 いえ、わたしは何もプーチンにも毎月生理があれば、今こんなことになってないとか、ヒトラーにも毎月生理があったら、アウシュビッツのような悲劇は避けられた……と言いたいわけではないのです。ただ、そのドラマの中の登場人物の女性の分析がとても鋭く素晴らしいものだったので、そのセリフが記憶に残っていたというか。

 それで、戦争ということになれば、1万1回目の成功のために、数多くの人々が死ななければならない……人間はこれまでの歴史の中で大体同じようなことを繰り返してきて、その違いはといえば、手に持ってる武器や使用する兵器の違いくらいなものだったりするわけです

 そして、戦争が起きるたびに「神がいるなら何故こんな悲惨なことが」と人間は苦しみ悩むことになるわけですけど――この場合、その理由というのは「戦争を起こした人間が悪い」というのと同時に、神が全知全能であるならば、そのようなことが起きる前に止める力が神にはあったはずなのに、というその点で神さまは非難やそしりを受けるという、そうしたことなのではないでしょうか。

 けれど、わたし自身は戦争を起こしているのはやはり人間という気がします。その中で罪のない多くの人々が死んだり、無意味にすら思える苦痛を経験したり、さらには死ぬより悪いことが数多く起きる……「そうした人々を天国で救うというのではなく、今地上で救うことの出来る神こそ本当の神だ」、「そして、そのような神がいるのであれば、私も神というやつを信じてもいい」という、そうしたことだと思うんですよね。


 >>主は言われる。
「彼らの神々は、どこにいるのか。
 彼らが頼みとした岩はどこにあるのか。
 彼らのいけにえの脂肪を食らい、
 彼らの注ぎのぶどう酒を飲んだ者は
 どこにいるのか。
 彼らを立たせて、あなたがたを助けさせ、
 あなたがたの盾とならせよ。

 今、見よ。わたしこそ、それなのだ。
 わたしのほかに神はいない。
 わたしは殺し、また生かす。
 わたしは傷つけ、またやす。
 わたしの手から救い出せる者はいない。

 まことに、わたしは誓って言う。
『わたしは永遠に生きる。
 わたしがきらめく剣をとぎ、
 手にさばきを握るとき、
 わたしは仇に復讐をし、
 わたしを憎む者たちに報いよう。

 わたしの矢を血に酔わせ、
 わたしの剣に肉を食わせよう。
 刺し殺された者や捕われた者の血を飲ませ、
 髪を乱している敵の頭を食わせよう』」

 諸国の民よ。
 御民のために喜び歌え。
 主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、
 ご自分の仇に復讐をなし、
 ご自分の民の地の贖いをされるから。

(申命記、第32章37~43節)


 戦争とは、本当におぞましいものです。人が地上で悪をなすとき、人間というのはおぞましく触れたくもないような存在以外の何者でもないと思う。

 異論はあるでしょうが、神さまはそのおぞましく触れたくもないような存在である人間を愛し、抱きしめ慈しんでくださる唯一の存在です。3つくらい下の『カラマーゾフの兄弟』という記事との関連で言うと、ウクライナで虐殺された人々と虐殺した側のロシア兵と、亡くなられた方の親族とが、今後何十年も過ぎて全員天国へ行った時――この三者が調和できる天国などありえないとイワンは言っていると思うんですよね。もちろん、ロシア兵の中には上官の命令で嫌々ながら仕方なく、酷い行為にも加わらなくてはならなかった……という、そうした部分もあるかもしれません。また、今後戦争が終わった時、ロシアへ帰還してから、そうしたトラウマを癒すのにアルコール中毒になるといった兵士も間違いなくいるだろうと思います。

 けれど、心から悔い改めていたら赦されるというのがキリスト教の教えですが、『カラマーゾフの兄弟』のイワンの話との関連でいうと、「正当にその相手を裁けるのは、亡くなられた本人」、あるいは神だけである……というのは、本当に苦しく厳しい現実と思います。

 ボルゾイに噛み殺された少年の話がそうですが、天国へ行ってから「神さま、オレは自分を虐殺したあいつを赦せないし赦さない。あいつを同じ目に合わせて百度でも千度でも苦しめてよ!!」と叫び、実際そのような裁きの行われるのが天国だというのも――何か天国らしからぬ光景という気がしますし、そこで<永遠の地獄>というものが登場するのだとしても、何かこう……地上にいる身としては納得できないわけです。

 結局のところ、天国ではすべてが平等に分配される、でも地上ではありとあらゆる酷いことが起きる可能性がある、イエスさまに抱きしめてもらえる日まで、そのことを思ってどんなことも耐え忍ぼう……と言うのは、わたしが平和な国、日本で暮らしているから言えることであって、実際のところ、ニュースの幾つかを聞いていると、起きていることはほとんどチェチェン紛争で起きたことと同じではないかと思いました。

 正直、チェチェンと聞いてあまり良い印象を持っている方はいないかもしれません。チェチェン=テロリストという図式があまりに一般化してしまったため、そこの国に住む方全員が恐ろしいテロリストでもあるかのように感じている方すらいるかもしれない。けれど、チェチェン紛争の時は今ウクライナで起きているのとまったく同じか、むしろもっと酷い拷問や虐殺行為が日常的に行われていたと言います。

 チェチェン=山岳地帯のイスラム教徒で、文化的にも遅れている国の人たち……と、こうしたこともあくまで一般的なイメージでしかなく、そこに住む人々の文化的水準は素晴らしいもので、ウクライナの人々となんら変わるところはないと思います。チェチェン紛争も今ウクライナで起きている戦争も、ともにプーチン政権下で起きた戦争でした。わたしも最初、チェチェン紛争というものにそんなに興味とか持ってませんでしたし(無知ですみません)、わたしがチェチェン紛争に興味を持ったのは、アンナ・ポリトコフスカヤさんが書かれた『チェチェン~やめられない戦争~』という本によってでした。その時、アンナ・ポリトコフスカヤさんはすでに亡くなられていましたが、何より、その亡くなられ方が衝撃的であったがゆえに――もしかしたら恥かしいことかもしれませんが、初めてチェチェン紛争というものに興味を持ちました。

 アンナ・ポリトコフスカヤさんはプーチンに暗殺されたのではないかと言われている人ですが、残念ながら証拠のようなものはありません。けれど、実際のところ、当時チェチェン紛争について真実を語ろうとしたジャーナリストのうち、何人もの方が不審な死を遂げています。にも関わらず、アンナ・ポリトコフスカヤさんは真実を伝えようとすること、国際社会を動かそうとすることを決して諦めませんでした。何故、そこまでのことが出来たのか……それは、チェチェンで起きていることがあまりに凄惨であるにも関わらず、今毎日のようにウクライナの戦争が報道されているようには、そうした虐殺行為が報道されることもなくすべてが封じ込められていたからでした。けれど、結局のところ国連も国際社会も動かなかった結果、本来ならばテロ行為など自分の人生で考えたことすらなかった一般の、本当に普通の生活を送ってきた素朴な人々でさえ――もう他に方法はないとしてテロリスト化してしまったということなんですよね。これは今のウクライナの戦争で言うならば、ウクライナの残虐行為を受けて亡くなられた方の親族が、ロシア兵に恨みを抱き、その後ロシアへ乗り込んでいき、テロ活動を行って神の名を称えるというのと同質のことです。

 チェチェンといえば、残虐部隊カデロフツィのことが大きく取り上げられていて、「チェチェン=悪い奴、敵」のように感じた方のほうがもしかしたら多いかもしれません。でもこれはあくまでラムザン・カディロフ首長の率いる民兵組織ということでしたし、彼につかない多くのチェチェン人はウクライナ側について共にロシアと戦っているそうです(本当は同じ痛みを持つ国同士なはずなのに、こうした誤解が生まれてしまうのは本当に悲しいことだと思います)。まだ戦争は続いていますので、軽々しいことは言えませんが、アンナ・ポリトコフスカヤさんが今も生きていたら、今のロシアの状況をどう思ったかな、とふと思ったりします。何故かというと、アンナ・ポリトコフスカヤさんはその著作の中ではっきり「わたしはプーチンが嫌いだ」と書いてるんですよね(^^;)その頃、プーチン政権の人気はとても高くて、わたしもニュースで支持率が80%を超えてるとかいうのを見てましたし、正直「そんなことってあるかななあ?」とはわたしも思いましたが、これは昔のソ連のKGBのやり口と、情報統制の手法がまったく同じだったりするわけです。

 アンナ・ポリトコフスカヤさんは何より、「自分をチェーカーと名乗り、チェーカーは生涯チェーカーだと言っているような男に祖国を任せることは出来ない」と最初から直感的にわかってらっしゃったのではないか……と、そんな気がしますが、とにかく今の状況はアンナさんが暴きたかったプーチンの化けの皮が剥がれた状態なわけで、「とうとうその日がやって来た」というのと同時に、ウクライナにロシアが攻め込み、チェチェン紛争と同じことが繰り返されてしまったことについては――絶望、あるいは絶望以上の絶望という言葉以外、ないとも思うわけです。

 もしチェチェン紛争が起きた時、今のウクライナでの戦争のように、世界の全メディアが動いてくれて、そこでどんなに酷いことが日常的に行われているかを知っていたとしたら……その時、国際社会が「まるで戦争など起きていないかの如く」冷淡に無視するのではなく、温かく優しい救いの手を差し伸べてくれていたとしたら――実際のところ、今ウクライナで起きている戦争は起きてなかった可能性というのは、高かったのではないでしょうか。

 今回のタイトルは「1万1回目の成功」というものですが、アンナ・ポリトコフスカヤさんの一ジャーナリストとしての努力こそ、それに相応するものだったのではないか、そんな気がします。アンナさんのチェチェン戦争に関しての本は、当時も今もロシアにおいて発禁本となっているのではないかと思いますが、日本の一地方に住むわたしのような人間にでさえ、彼女の著作に懸けた熱い想いは伝わったわけですから――ということは、アンナ・ポリトコフスカヤさんの「真実を伝えたい」という想いは、全世界的に見た場合、物凄く多くの人々に伝播したことは間違いないと思うわけです。

「1万1回目の成功」の尊いところは、それまで1万回失敗していても、最後の最後、その次で成功したその瞬間……はっきり、歴史の流れですらも変わることだと思います。そして、天国というところではおそらく、自分自身は死して斃れても、十分な報いの受け取れるところなのでしょう。何故そんな、自分の子供が1万回も失敗して転んで泣いているのを神が放置しておくのかとか、そのことはわかりません。神さまには神さまの、深いお考えと御心があるのでしょう、ともわたし自身は言うつもりはありませんし、そんなことは口が裂けても言えません。

 ただ、アンナ・ポリトコフスカヤさんへの感謝をこめて、とりあえずこの記事の終わりにしたいと思います。アンナさんの死が衝撃的なものだったから、わたしはそれほど興味のなかったチェチェン紛争ということに興味を持ち(それはその後、911といったイスラム教のテロリストについて学ぶ際にも役立ちました)、ロシアという国に興味を持つことにも繋がったと思います。それで、結局のところわたしこの時、プーチンが選挙前に出版したというプーチンの自伝本まで読んだくらいだったのです(笑)。ですから、こうしたすべてに繋がる大元はアンナ・ポリトコフスカヤさんでしたから、本当に、ロシア全土で彼女の書いた本が当たり前のように人々の間で読まれるようになり、アンナさんが「わたしはプーチンが嫌いだ」と本の中に書いたように、誰でも大統領やその政権を批判できる平和の時が、ロシアにもウクライナにも早くやって来て欲しいと、そのことを切に願います

 それではまた~!!






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