(※人工呼吸器には、自発呼吸できる患者さんに対するマスクタイプのもの(いらすとやさんの図)や、気管切開した患者さんに対して、あるいは気管内挿管した自発呼吸できない患者さんに対するものがあると思うのですが、文章内に引用させていただいた箇所は、手術後の、気管内挿管した患者さんの描写……ということでよろしくお願いしますm(_ _)m)
>>じっと耐えるのは、しゃにむに突き進むより、勇気がいる。
めげずに不運に立ち向かい、困難をものともせず、他の者が落胆するときにも、勇気を失わない。
それこそ、真の勇気ではないだろうか?
――ウィリアム・メークピース・サッカレー(1811~1863)
(『勇気のことば』偕成社より)
今、世界中で本当に多くの方が、あらゆる意味で、あらゆる場面で、じっと身を屈めて耐えているような状態だと思います。
医療従事者の方などは、とっくにその限界線を超えたところで働いておられると思うのですが、この「じっと我慢する」、「じっと耐える」ことほど、この世界でつらいことはないと思うんですよね。。。
たとえば、わたしが腹痛の極みにある時、その痛みの中の10分間というのは、1時間にも匹敵するようなものだと思います。アインシュタインの相対性理論のことではなく、そんなふうにわたしたちの間では時間というのは感覚として容易に伸び縮みします。
あるいは、わたしの住んでいる北海道は、日本の中でも特に寒い地方として知られているわけですが……冬のこの時期、北海道の中でも特に寒い地域に住んでいる方は、マイナス10度とか20度とかいうのが結構普通で、そうした寒い日の合間に、「マイナス2度」とか「マイナス4度」の日があったりすると――「今日、なんかあったかいね!」といったような、クレイジーな会話をしたりします(笑)
何を言いたいかというと、医療従事者の方も、たとえて言うならそんな感じなのではないだろうか……と、時々思ったりするんですよね。マイナス20度の酷寒に耐えるのに慣れてきてしまい、時々マイナス4度の日があると、それだって十分大変なのに、「今日は比較的異常事態でないな」と思ったりするという、何かそうしたおかしさが存在するのではないか、と。
当たり前のことですが、もちろん患者さんも大変と思います。わたしも同じようにコロナによって倒れない限りは、その気持ちやつらさはわからない……と思うのですが、人工呼吸器に繋がれてしまうくらい症状が重篤な場合、人工呼吸器ってそもそも、強制的に酸素が送られてきたり、また吸い出されたりするので、「仮に痛みはなかったとしても、あまりいい感じのするものではない」と、昔病院で聞いたことがありました。
>>私は自分で呼吸ができず、人工呼吸器のために話が出来ないのが辛かった。といってもそれをはずしてもらうにはまだ準備ができていなかった。その晩常に私が感じていたのは、機械が強制的に肺に送り込んでいた空気と乾きであった。乾きはきわめて冷たく感じられ、冷たいしたたりが私の喉を溶け出した氷のように下りていった。何かが失われたという感覚が支配していた。
(『空よりも高く~エミリー・ディキンスンの詩に癒された人々~』シンディ・マッケンジー、バーバラ・ダナさん編・大西直樹さん訳/彩流社より)
これは、わたしが最近再読した本に出てきた描写なのですが、こうした状態で高熱にうなされていた場合、相当おつらいだろうなと想像します。また、ある程度症状が落ち着いてきても、患者さん自身もまた、ただ「じっと耐える」、「我慢する」という状況が、さらに長く続くのだと思いますから……毎日、このあたりのことを祈るようにしています。
もちろん、新型コロナウイルスによる死亡者は増えていく一方なので、「おまえの祈りというやつも、大して聞かれてないようだな」ということになるのかもしれませんが、とにかくお祈りしています
その他、飲食店を経営されている方や、接客業をしている方々にとっても、「これ以上我慢できない」、「耐え切れない」という状況と思いますし、どこに行くことも出来ないので、気晴らしができず、鬱屈とした思いが澱のように溜まっていく……といった精神状態も、相当つらいことだと思うんですよね。。。
ここはキリスト教について何か書く――といった主旨のブログで、マーリン・キャロザース先生の「(すべてのことを)神さまに感謝し、讃美する」ということについては、新型コロナウイルスに関しても、まったく同じだったりします(^^;)。
そして、実をいうとクリスチャンの方というわけではなく、また、マーリン先生のこうした教えをご存知ない方でも……意味としては、大体同じことをおっしゃってる方って、新型コロナウイルスに関しては本当に多い気がするんですよね。
ライブとか、何かの舞台とか、無観客配信だったり、感染対策をよく行なってから実施する――といったように、正直、「めえんどくせえええっ!!」って叫びたいことが、ほんと、主催者さん側にはいっぱいあると思います。でも、そうした苦労が多い分、成功した時の嬉しさとか、来てくださった方の「ありがとう!」の、このありがとうという言葉の重みがずっしりと重く、体の隅々にまで染み渡ったり……そのですね、個人的にはそうしたことを見聞きする時、「嗚呼、人間っていいなあ!」と思います
新型コロナウイルスがなくても、北海道などは特に、2月って一番寒くて、「本当に春なんて来るの?」とたまに思うくらいですが(笑)、春は必ずやって来ます。そして大体その頃くらいには一般の方の間でもワクチン接種がはじまって……みたいな感じなのかなと思うのですが、「ここが踏ん張りどころ!」と言われ続けて、「これで何度目だよ?」といったようになっている昨今――本当に、身の回りの小さなことに感謝しつつ、新型コロナウイルスのことに関しては神さまにお祈りしながら、毎日を丁寧に過ごしていきたいと思っています。。。
それではまた~!!
>>じっと耐えるのは、しゃにむに突き進むより、勇気がいる。
めげずに不運に立ち向かい、困難をものともせず、他の者が落胆するときにも、勇気を失わない。
それこそ、真の勇気ではないだろうか?
――ウィリアム・メークピース・サッカレー(1811~1863)
(『勇気のことば』偕成社より)
今、世界中で本当に多くの方が、あらゆる意味で、あらゆる場面で、じっと身を屈めて耐えているような状態だと思います。
医療従事者の方などは、とっくにその限界線を超えたところで働いておられると思うのですが、この「じっと我慢する」、「じっと耐える」ことほど、この世界でつらいことはないと思うんですよね。。。
たとえば、わたしが腹痛の極みにある時、その痛みの中の10分間というのは、1時間にも匹敵するようなものだと思います。アインシュタインの相対性理論のことではなく、そんなふうにわたしたちの間では時間というのは感覚として容易に伸び縮みします。
あるいは、わたしの住んでいる北海道は、日本の中でも特に寒い地方として知られているわけですが……冬のこの時期、北海道の中でも特に寒い地域に住んでいる方は、マイナス10度とか20度とかいうのが結構普通で、そうした寒い日の合間に、「マイナス2度」とか「マイナス4度」の日があったりすると――「今日、なんかあったかいね!」といったような、クレイジーな会話をしたりします(笑)
何を言いたいかというと、医療従事者の方も、たとえて言うならそんな感じなのではないだろうか……と、時々思ったりするんですよね。マイナス20度の酷寒に耐えるのに慣れてきてしまい、時々マイナス4度の日があると、それだって十分大変なのに、「今日は比較的異常事態でないな」と思ったりするという、何かそうしたおかしさが存在するのではないか、と。
当たり前のことですが、もちろん患者さんも大変と思います。わたしも同じようにコロナによって倒れない限りは、その気持ちやつらさはわからない……と思うのですが、人工呼吸器に繋がれてしまうくらい症状が重篤な場合、人工呼吸器ってそもそも、強制的に酸素が送られてきたり、また吸い出されたりするので、「仮に痛みはなかったとしても、あまりいい感じのするものではない」と、昔病院で聞いたことがありました。
>>私は自分で呼吸ができず、人工呼吸器のために話が出来ないのが辛かった。といってもそれをはずしてもらうにはまだ準備ができていなかった。その晩常に私が感じていたのは、機械が強制的に肺に送り込んでいた空気と乾きであった。乾きはきわめて冷たく感じられ、冷たいしたたりが私の喉を溶け出した氷のように下りていった。何かが失われたという感覚が支配していた。
(『空よりも高く~エミリー・ディキンスンの詩に癒された人々~』シンディ・マッケンジー、バーバラ・ダナさん編・大西直樹さん訳/彩流社より)
これは、わたしが最近再読した本に出てきた描写なのですが、こうした状態で高熱にうなされていた場合、相当おつらいだろうなと想像します。また、ある程度症状が落ち着いてきても、患者さん自身もまた、ただ「じっと耐える」、「我慢する」という状況が、さらに長く続くのだと思いますから……毎日、このあたりのことを祈るようにしています。
もちろん、新型コロナウイルスによる死亡者は増えていく一方なので、「おまえの祈りというやつも、大して聞かれてないようだな」ということになるのかもしれませんが、とにかくお祈りしています
その他、飲食店を経営されている方や、接客業をしている方々にとっても、「これ以上我慢できない」、「耐え切れない」という状況と思いますし、どこに行くことも出来ないので、気晴らしができず、鬱屈とした思いが澱のように溜まっていく……といった精神状態も、相当つらいことだと思うんですよね。。。
ここはキリスト教について何か書く――といった主旨のブログで、マーリン・キャロザース先生の「(すべてのことを)神さまに感謝し、讃美する」ということについては、新型コロナウイルスに関しても、まったく同じだったりします(^^;)。
そして、実をいうとクリスチャンの方というわけではなく、また、マーリン先生のこうした教えをご存知ない方でも……意味としては、大体同じことをおっしゃってる方って、新型コロナウイルスに関しては本当に多い気がするんですよね。
ライブとか、何かの舞台とか、無観客配信だったり、感染対策をよく行なってから実施する――といったように、正直、「めえんどくせえええっ!!」って叫びたいことが、ほんと、主催者さん側にはいっぱいあると思います。でも、そうした苦労が多い分、成功した時の嬉しさとか、来てくださった方の「ありがとう!」の、このありがとうという言葉の重みがずっしりと重く、体の隅々にまで染み渡ったり……そのですね、個人的にはそうしたことを見聞きする時、「嗚呼、人間っていいなあ!」と思います
新型コロナウイルスがなくても、北海道などは特に、2月って一番寒くて、「本当に春なんて来るの?」とたまに思うくらいですが(笑)、春は必ずやって来ます。そして大体その頃くらいには一般の方の間でもワクチン接種がはじまって……みたいな感じなのかなと思うのですが、「ここが踏ん張りどころ!」と言われ続けて、「これで何度目だよ?」といったようになっている昨今――本当に、身の回りの小さなことに感謝しつつ、新型コロナウイルスのことに関しては神さまにお祈りしながら、毎日を丁寧に過ごしていきたいと思っています。。。
それではまた~!!
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