神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

Not live in vine.~むなしく生きない~。

2021年02月15日 | キリスト教

 一休さんの有名なお話に、「この橋渡るべからず」と書いてあったので――端を渡らず、真ん中を歩いた……みたいなすごい屁理屈話がありますよね(笑)。

 そのこととは少し違うかもしれませんが、人生の橋の右端が「生きる意味はある」とうもので、左端が「生きていることの意味などない」というものであったとしたら……このちょうどど真ん中くらいを歩くのが、バランスが取れている人の人生、ということになるのではないでしょうか。

 もちろん、人生でつらいことや苦しいこと、悲しいことがあった時、左端寄りに歩くということもあるでしょうし、逆に楽しいことや嬉しいことがあった時には――右端欄干の上を歌を歌いながら歩きたいくらいかもしれません。

 ところが、ですね。「いやあ~、生きてるってまったく素晴らしいね!つらい状況というのはいつまでも続くってものじゃないよ。雨が降らなければ虹はでないってよく言うだろ?夜明け前が一番暗いといったようにもね!がんばろう!みんな、がんばろう!!」みたいに言われると、言ってること自体はとても素晴らしいわけですけど――実をいうとこれ、今死のうと考えてる人や、鬱病の人などには、あんまり効果なかったりするんですよ(^^;)

 もちろん、軽~中度な鬱状態とか、それほど深刻にそう思ってるわけじゃないんだけど、「なんか、いいことなんか何もないや。死んじゃいたいよ、もう」くらいの時だったら、こうした言葉が救いになることもあると思います。でも、わたしが死にたいと思ってたり、人生ですんごく困ったことが生じた時は……「雨が降らなければ虹は出ないだって?聞き飽きたよ、もうそんな言葉!」といった精神状態でしたし、「夜明け前が一番暗いだって?夜明けが来ようが来まいが、こちとらそんなこと、関係ありゃしないね!何分、この暗闇の中でもう死ぬ覚悟をこちとら決めちまってるもんでね」といった感じだったような気がします。。。

 つまり、これが人生という端の左端の際、もうそこから下の川へ落ちてしまおう――くらいの人の心理状態ということです。そして、こうした心理状態の時に、周囲の方の誘いで教会へ行き、イエスさまを信じて救われた……という方も結構いらっしゃると思います。

 これは、ノンクリスチャンの方にとっては「つまらん☆」という話の展開とは思いますが(笑)、でも本当に自殺するとか、死のうと考えてばかりいる……という思考の段階のどこかで、『神』ということについては、大体みんな頭のどこかで考えると思うんですよ。

「神がいるのなら何故……」、「神の奴は何故オレをこんな目に遭わせるんだ!オレが一体何をしたというんだ」といったことにはじまり、結局のところいくら考えたところで、神から答えはないわけですよね。わたしの場合は「そもそも神がいようといまいと関係ない。もしいたにしても、わたしを今すぐこの状況から助けないのであれば、そんな神など神ではない」として、その頃はまだクリスチャンではなかったので、『神』という存在のことをまず切り捨てました。

 あと、「もう死のう」、「自殺しよう」と考えていた時、まず真っ先に頭に思い浮かんだのは親のことでした。それで、親や友人の顔などが思い浮かび、彼らが悲しむことを思い、ボロボロと泣きながら自殺することを思い留まれるなら、その方はきっと大丈夫と思います。

 でも、わたしの場合は最終的に、神を捨て、親を捨て、友人のことを捨て……というように、自分が生きていなければならない理由について、どんどん捨てていくという心理的過程を辿りました。実際のところ、人が自殺する理由も、自殺を思い留まる理由も――外側から見てわからないことのほうが多いと思います。

 ですから、馬鹿馬鹿しいと思うかもしれませんが、「自殺を思い留まる」、「あと一歩のところ、ギリギリ危ないところで思い留まった」ことの理由が案外、「進撃の巨人の最終回が終わるまで死ねない!」みたいなことって、実際あったりするのです。

「え?自分の大好き漫画が最終回を迎えるまで死ねないだって?そんな奴の自殺したい理由なんて、そもそも大して深刻なものじゃなかったのでは……」そうお思いになる方もいらっしゃると思います。まあ、わたしが自殺しようみたいに深刻に考えていた時は、進撃の巨人自体連載がはじまってませんけれど(笑)、とりあえず『スラムダンク』の最終回が読めなくても構わない……くらいまでには、精神的に追い詰められていたわけです(^^;)

 こうして、神を否定し、親を捨て、友人を捨て、スラムダンク(巻き込むな!笑)を捨て、自殺未遂っぽいことをしたものの――結局その時わかったのは、「人って、なかなかそう簡単には死ねないものなんだな」ということだったかもしれません。そして、死ねない以上は生きるしかない、働くしかないといったように思考のほうが切り換わり、一応人の目から見れば「立ち直った」ような生活を送るようになっていったと思います。

 そのですね、『鬼滅の刃』はすでに最終巻が発売され、もし「『鬼滅の刃』のラストを見ない限りは自殺しない!死ねない!!」と思っていた方がいらっしゃったとしたら――その方は今ごろ、自殺を思い留まっておられるのではないでしょうか。そうなんですよね。人生の一番暗い暗闇の中を人が歩いているように感じる時……鬼と戦う炭治郎たちのように、夜明けなんか一生こないといったようにしか思えないと思います。ラスボスである鬼舞辻無惨(=わたしたちの人生上の困難)は絶対死なない!!といったようにしか。けれど、漫画のラストの素晴らしさと同時に、魂のカタルシスを感じたことで――「わたしも、がんばって生きてみよう。炭治郎たちのように、諦めずに困難に立ち向かおう!」みたいに実際になった方もいらっしゃったのではないでしょうか。

『進撃の巨人』も『鬼滅の刃』も、ともに超絶大人気漫画ですので、物語を大体のところ知っている前提でお話を進めてしまいましたけれども(汗)、人が自殺を思い留まるのは、案外小さな希望を見つけた瞬間だというのは、結構あると思うんですよね。昔、あるドラマの中で、車椅子生活になってしまった男性がいました。奥さんは「リハビリすれば、歩けるようになるかもしれない」といったように一生懸命励ますのですが、本人はもうやさぐれていて、一切やる気のない状態。普段は気の長い奥さんが、「あなたより不幸な人だって、この世界にはたくさんいるのよ!」みたいに言わざるをえないくらい、ふたりの関係は険悪になっていきました。ところがですね、周りの人が何を言っても無駄だったこの男性、自分が事故に遭う前まで一生懸命育てていた花が咲いているのを見て――突然立ち直ってしまうのです。

 意味わかりませんよね(笑)。つまり、事故に遭う前まで可愛がって手入れしていた鉢植えが彼にはあったのですが、事故後、その花に対しても「枯れようがどうしようがどうでもいい」、「花なんて、まったくくだらない!」的心境に彼はなっていたわけです。ところが、自分が一切手入れもせず、吹っ飛ばしておいたその花が(奥さんは、旦那さんのことや生活のことで忙しく、花のことまで気にする余裕がありませんでした)……美しく花を咲かせていたわけです

 彼はこの、実にいじましい花の生命力に感動し、その日から突然リハビリを熱心にするようになり、ついには歩けるようになった――ということなのですが、彼本人の口からこの立ち直った心理的過程でも聞かされない限りは、何が彼を立ち直らせたのかなんて、絶対わかりませんよね。自殺を考える人の心理的過程もそうで、やっぱりこの時に、「誰でもいいから話す」っていうのは結構大切なことだと思います。もちろん、本人は身近な人に「自殺しようと考えている」なんて告白したら、みんなびっくりしてただ、「そんなことやめなよ!」みたいにしか言わないとわかってるから、誰にも相談したりはしない。

 でも、心療内科の先生など、そうした精神科医のカウンセラーの人に話したりすることで――頭の中が整理されたり、自分の悩みとの距離の取り方がわかったりすることで、それだけでも物凄く違うと思うんですよ。病院の精神科でカウンセリングにかかっていたにも関わらず、その後自殺しようとしたわたしが言っても、説得力ないかもしれませんが(笑)。

 ここは、キリスト教について何か書くというブログですので、一応、教会の一体何が人の救いの理由になるかというと……「実はかくかくしかじかで」みたいなことではなかったりするんですよね(いえ、イエスさまを信じることになった過程については、みなさん本当に素晴らしいお証しをお持ちです)。でも、「讃美を聞いているうちに、涙が止まらなくなった」とか、わたしだったら「よくわからないけど、ここへは来なくてはいけない……といった力を感じた」とか、そのあたりは本当に「うまく説明できないけど、とにかく意味がわからないながらも信じた」みたいな方って、とても多いと思います。

 なんと言いますか、理由や理屈ではないというか。またそれが、教会に満ちている三位一体の神の第三位格、聖霊さまの力ということでもあると思うのですが、この聖なる霊の流れのようなものに浸されると、わけがわからないながらも、「信じる」決意を人にさせるわけですよね。

 普通、どう考えても「あれがこうなってそれがああなったから、こうなった」……みたいに、ある程度論理的に証明できるものを人を信じると思います。また、誰か人を信じる時にも、「あの人は優しい人だから」とか、「いつもわたしによくしてくれるから」など、ある程度相手の性格などを推論できた時に「信じる」決意を人はするものではないでしょうか。

 ところが、ですね。キリスト教に関してはほんと、「教会へ来るか来ないか」なんじゃないかという気がします。どこの教会の日曜礼拝も「どなたでも、ご自由にお入りください」と、入口のあたりに書いてあります。でも、「おかしな宗教トラブルに巻き込まれたくない」と誰もが警戒するので、結果、人生でよっぽど困ったことがあったとか、あるいは友人から誘われたとか、何かきっかけがない限り、「信じる」には至らないわけですよね。

 わたしも、自分が死ぬことを考えたりした時は、「もし神が存在するのなら、人類すべてに対して、すべての人にわかる形で姿を現し、困った人を救うべきだ」くらいにしか思っていませんでしたし、今はそれがいかに傲慢な考えであったかがわかりますけれども、これが神さまを知らないで生きるということでもあるわけです。

 今回のタイトルは「Not live in vine.」ですが、これは「むなしく生きない」という意味です。何か特定の宗教の神さまを信じていなくても、充実した人生を生きることは、一応可能とは思います。その方が容姿的にも美しく生まれ、両親がお金持ちで経済的にも何も困ったところがなく、十分な教育を受け、良い大学を卒業し、一流企業に就職……「いや、普通に考えても、そんなにトントン拍子にうまくいかないんじゃない?」と思われるかもしれませんが、問題はそこではないのです。何故かというと、そんなふうに恵まれているように見える人々でも、「人生のむなしさ」からは完全に逃れることは出来ない――これは本当に、なんらかの理由で「そのとおりだ」と答えられる方のほうが多いと思います。

 また、神さまに対する飢えは、人間存在の根源から生じるものなので、この魂の領域が埋まると、人生が虚しくなくなります。そうなると今度は逆に、なんらかの病気により障害を抱え、経済的にも不安定で、「あの人、生きててなんの楽しいことがあるんだろう?」といったように、表面的には見えたとしても……クリスチャンの方には、「え?わたし、幸せですけど、何か?」という方のほうが、たぶん多いだろうなという気がするんですよね(^^;)

 根源的な神さまへの飢えがなくなると、自分という人間存在や人生が虚しくなくなるのは何故なのか――このあたりは理由や理屈ではなく、「あ、そっか!これが聖霊さまの満たしっていうことなんだ」みたいな感じのことなので、体験としてお知りになりたい方がいらっしゃったとしたら、教会へ来られるしかなかったりするわけです。。。

 わたしと同じように、「おかしなところだと感じたら、すぐ逃げ帰ろう」と思って、一番後ろの、ドアに近いところに座っていたら――結局、その日のうちに信じて救われたという方もいらっしゃいますから(笑)
 
 それではまた~!!
 





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