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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

ひび割れた油の壺。

2016年03月29日 | キリスト教
【イエスの母マリアとマグダラのマリア】ピエトロ・ペルジーノ


(この記事自体は随分前に書いたものなのですが、前の記事に関連して思いだしたので、再び載せることにしましたm(_ _)m)
 
 わたしの持っている新改訳聖書によると、脚注の欄に††キリスト=ヘブル語のメシヤに相当するギリシヤ語。「油注がれた者」の意、とあります。旧約聖書に預言者サムエルがサウルに油を注いで王とした……とあるところを見ても、わりと聖書全体を通して、<油>についてのエピソードは多いような気がします。

 たとえば、ベタニヤのマリアが高価な香油の入った壺をイエスさまに注いだエピソードであるとか、旧約聖書の列王記Ⅰ第17章にある預言者エリヤとやもめの女性のエピソードであるとか。

 他にわたしがパッと思いつくのは、列王記Ⅱ第4章に記されている、預言者エリシャの起こした奇跡についてだったでしょうか。

 以下は旧約聖書からの抜き書きとなりますm(_ _)m


(旧約聖書、第二列王記、第4章1~7節より)

 預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。

「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのようにあなたのしもべは主を恐れておりました。ところが貸し主がきて、私のふたりの子供を自分の奴隷にしようとしております」

 エリシャは彼女に言った。

「何をしてあげようか。あなたには家にどんなものがあるか、言いなさい」

 彼女は答えた。

「はしための家には何もありません。ただ、油の壺ひとつしかありません」

 すると、彼は言った。

「外に出ていって、隣の人みなから器を借りてきなさい。からの器を。それも、ひとつふたつではいけません。
 家に入ったなら、あなたと子供たちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものを脇に置きなさい」

 そこで、彼女は彼の元から去り、子供たちと一緒に後ろの戸を閉じ、子供たちが次々に彼女のところに持ってくる器に油をついだ。

 器がいっぱいになったので、彼女は子供に言った。

「もっと器を持ってきなさい」

 子供が彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。

 彼女が神の人に知らせにいくと、彼は言った。

「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子供たちは暮らしていけます」


 こうした聖書にまつわる神さまが起こしてくださった<奇跡>について、「いや、こういうことは『昔』だったから起きたんだよ」的な解釈をする聖職者の方もいらっしゃると聞いているのですが――わたしが信じて救われた教会がとても幸いなことに、「今も神さまはこうした奇跡を起こしてくださる!」と信じている教会だったので、わたしもまた自然とそうした考え方をしていつも聖書を読んでいます♪

 ただ、自分のことに関して言えば、もし仮に神さまが<奇跡>を起こしてくださろうとしているのにそれが起きないとすれば、わたしの持っている油の壺がひび割れているか穴が開いているかして、神さまのせっかくの恵みを無駄にしてしまうから――それで奇跡が起きないのではないかという気がしています(^^;)

 いえ、これまでにわたしが信仰生活を続ける中で、神さまは本当に数えきれないくらい奇跡を起こして救ってくださいました。そして同時に、<叶えられなかった祈り>というものが存在するのも本当のことなんですね。

 自分的にはたぶん、その時神さまの御前に持っていった油の壺にひびが入っているなり穴が開いているなりしていたそのせいだろうと解釈しているのですが、この点についてはいつも注意が必要だとわたし自身そんなふうに感じています。

 このやもめの女性は自分の子供に空の器をたくさん集めてくるよう命じたわけですが、わたしはついこんな想像をしてしまいます……自分の家にはひびの入って今にも割れそうな壺ひとつしかなく、また隣近所の人たちから壺を借りてこようとするも、みんなすぐにドアを閉めてしまって「あなたに貸してあげられる油の壺はない」と言われてしまうんです。でも神さまは全能のお方ですから、もちろんそれならそれで何か別の方法できっと<奇跡>を起こしてくださるだろうとは思うのですが。

 ただその時に必要なのは、「わたしが持っているのはこの、ひびの入ったみすぼらしい今にも壊れそうな油の壺だけです。その上、まわりの人に壺を貸してくださいとお願いしましたが、それを貸してくれるような真の隣人ひとり見つけられませんでした。わたしは本当に惨めな人間です」と、神さまに自分の<ありのまま>の状態を祈りを通して告白することが、とても大切というか。

 この場合、油の壺ひとつ誰からも貸してもらえなかったわたし本人も気の毒かもしれませんが、それを貸そうともしなかった人々も、実際は人間として相当気の毒で惨めな存在ではないかという気がします。

 そして神さまは常にその両者の<心>といったものをすべてご存知であられるということ――それが人間が自分の創造主である神さまのことを畏れ敬わなければならない大きな理由のひとつであるようにも思います。

 神さまはいつでも、わたしたち人間の目には見えない<罪>という名の大きな負債を買いとって、借金のない状態にしてくださる唯一のお方であり、「またこんなに借金を作ってしまいました。どうか許してください、神さま」と心から悔い改めて祈るなら、必ずまた油の壺を満ち溢れるまでに満たしてくださるお方です。

 よくノンクリスチャンの方の中には(というか、わたしもイエスさまを信じる前はそういう考え方だったのですが^^;)、「キリスト教では何度罪を犯しても悔い改めれば許されるっていうけど、それってなんかおかしくない?」って思う方は多いみたいなんですよね。でも何度借金を作っても、本当に心から悔い改めるならそれをまるでなかったことのようにしてくださる――そういう神さまは本当に、天にも地にも、イエス・キリスト、ただおひとりだけだと思います。

 ただし、「また借金作っちゃったけど、神さまのところにいけば油をいっぱいもらえるからいいや☆」みたいに少し奢ったり高慢になったりしてくると、油の壺は壊れてしまい、二度と奇跡は起きなくなってしまう……それがわたしたち人間の、今の状態なのではないかという気がします。

 だから、神さまの<奇跡>が今も起きないのではなくて――人間の側が神さまが<奇跡>を起こしたくても起こせないような状況を数限りなく作りだしてしまったというのが、本当のところではないかな、なんて思うんです。

 わたし自身の今年の目標(?)は、なんていうか神さまの前に穴も開いておらず、ひびも入っていない美しい油の壺をいくつも持っていくこと、もしかしたらそのことかもしれません。

 ベタニアのマリアのエピソードのところでは、イエスさまの弟子たちが「それだけ高価な香油があったら、貧しい人たちに施しが出来たのに」と言って彼女に対して怒りを覚えるわけですが、確かに油の満ちた壺がたくさんあれば、自分が満ち足りるだけでなく、周囲の人たちにも多く分け与えてあげるということが可能になるとも思います。

 そうすれば、一度はドアを閉めて「うちにはあなたに貸してあげられる油の壺はない」と言った人たちも、「わたしの空の壺も満たしてください」と言って、神さまの御許に近づいてくるということになるでしょうから……そんな形で多くの人に神さまの福音の御言葉を伝えることを、まずは今年の目標にしてみようかと思っています♪

 それではまた~!!




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