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【五色鶸と桜】葛飾北斎(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)
(前回と同じく、この記事も随分前に書いたものです(^^;)ついで(?)なので、こちらも
してみることにしました
)
わたしの目にはあなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
この言葉は、旧約聖書はイザヤ書の第43章4節の御言葉ですが、この聖句が好きなクリスチャンの方はとても多いと思います♪(^^)
でも、ノンクリスチャンの方がこの御言葉だけに目を留めて見ると、「(神さまの目から見て)わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われても、「そんなの、本当だろうか?」と思われるかもしれません。
神さまは愛のお方である……というのは、人間誰しもがどこかで聞いたことのある言葉すぎて、「なんとなくちょっと嘘っぽいな☆」と感じられる方も多いのではないでしょうか(^^;)
何故といってこの世界というところはとても不平等ですし、肉体的になんらかの欠陥のある方もいれば、病気の人、性格に難のある人、孤独な人、その他考えられうるバリエーションのあらゆる人が揃っています。
そして、そのすべての人を神さまは「高価で尊いと感じ、愛しておられるのだ」――というのは一見聴こえがいいですが、そうした神さまの愛を<具体的な実感を伴う形>でいつでも感じることが出来る……というのは、数多いクリスチャンの方の中でももしかしたら少ない可能性があります。
最近、とある本を読書中に、ふと気づいたことがありました。
その日は雀やカモメが窓の外で鳴いていたのですが(あとカラスも・笑)、わたしたちの目には雀やカモメはあまりにも「ありふれた鳥」すぎて、その歌声を聴いても「あ、なんだ。雀か」とか「カラスか」などと思ってしまい、それほど心に深く留めることはないかもしれません。
けれど、神さまの愛もまた同じように「ありふれすぎて」いて、わたしたちのほうで気づいてないことが多いのではないかと思ったりしました(^^;)
それと同時に、もし人間を鳥にたとえるとしたら――わたしはたぶん<雀クラス>かなという気がしたり(笑)花だったらたんぽぽとか、ついうっかり踏んでしまっても「たんぽぽなら別にいいや☆」といったような、何かそんな感じだろうな~と。
でも神さまの愛は永遠にして平等なものなので、薔薇と白妙菊を比べて薔薇のほうを愛しているとか、芍薬とセイタカアワダチソウを比べて芍薬を愛しているとか、そういうことではないのだと思います。
たぶん、その比較でいったら自分は白妙菊側だとか、セイタカアワダチソウ側だと感じる方は(わたし同様)とても多いと思うのですが、神さまは薔薇や芍薬と同じように愛してくださっているのだと思うと、少しばかり「えっへん!」といったような誇らしい気持ちになれる気がします(笑)
しかもそこには、人間が薔薇を大切にしてたんぽぽは踏みつけたり、芍薬は大事に育ててウツボカズラのことは放っておく……といったような不平等感もないのだと思います。
五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
(ルカによる福音書、第12章6~7節)
百合の花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。
(ルカによる福音書、第12章27~28節)
という新約聖書の御言葉が、心に沁み入るように入ってきた、朝の読書のひとときでした♪(^^)
(前回と同じく、この記事も随分前に書いたものです(^^;)ついで(?)なので、こちらも
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わたしの目にはあなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
この言葉は、旧約聖書はイザヤ書の第43章4節の御言葉ですが、この聖句が好きなクリスチャンの方はとても多いと思います♪(^^)
でも、ノンクリスチャンの方がこの御言葉だけに目を留めて見ると、「(神さまの目から見て)わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われても、「そんなの、本当だろうか?」と思われるかもしれません。
神さまは愛のお方である……というのは、人間誰しもがどこかで聞いたことのある言葉すぎて、「なんとなくちょっと嘘っぽいな☆」と感じられる方も多いのではないでしょうか(^^;)
何故といってこの世界というところはとても不平等ですし、肉体的になんらかの欠陥のある方もいれば、病気の人、性格に難のある人、孤独な人、その他考えられうるバリエーションのあらゆる人が揃っています。
そして、そのすべての人を神さまは「高価で尊いと感じ、愛しておられるのだ」――というのは一見聴こえがいいですが、そうした神さまの愛を<具体的な実感を伴う形>でいつでも感じることが出来る……というのは、数多いクリスチャンの方の中でももしかしたら少ない可能性があります。
最近、とある本を読書中に、ふと気づいたことがありました。
その日は雀やカモメが窓の外で鳴いていたのですが(あとカラスも・笑)、わたしたちの目には雀やカモメはあまりにも「ありふれた鳥」すぎて、その歌声を聴いても「あ、なんだ。雀か」とか「カラスか」などと思ってしまい、それほど心に深く留めることはないかもしれません。
けれど、神さまの愛もまた同じように「ありふれすぎて」いて、わたしたちのほうで気づいてないことが多いのではないかと思ったりしました(^^;)
それと同時に、もし人間を鳥にたとえるとしたら――わたしはたぶん<雀クラス>かなという気がしたり(笑)花だったらたんぽぽとか、ついうっかり踏んでしまっても「たんぽぽなら別にいいや☆」といったような、何かそんな感じだろうな~と。
でも神さまの愛は永遠にして平等なものなので、薔薇と白妙菊を比べて薔薇のほうを愛しているとか、芍薬とセイタカアワダチソウを比べて芍薬を愛しているとか、そういうことではないのだと思います。
たぶん、その比較でいったら自分は白妙菊側だとか、セイタカアワダチソウ側だと感じる方は(わたし同様)とても多いと思うのですが、神さまは薔薇や芍薬と同じように愛してくださっているのだと思うと、少しばかり「えっへん!」といったような誇らしい気持ちになれる気がします(笑)
しかもそこには、人間が薔薇を大切にしてたんぽぽは踏みつけたり、芍薬は大事に育ててウツボカズラのことは放っておく……といったような不平等感もないのだと思います。
五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
(ルカによる福音書、第12章6~7節)
百合の花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。
(ルカによる福音書、第12章27~28節)
という新約聖書の御言葉が、心に沁み入るように入ってきた、朝の読書のひとときでした♪(^^)
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