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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

沈む信仰。

2019年09月28日 | キリスト教


 >>それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群集を帰してしまわれた。

 群集を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。

 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
 
 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。

 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。

 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

 すると、ペテロが答えて言った。

「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」

 イエスは「来なさい」と言われた。

 そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。

 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。

 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」

 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。

 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。

(マタイの福音書、第14章22~33節)


 ジーザス・クライスト・リザードと呼ばれる、水の上を走るトカゲをご存知ですか?

 人が水の上を歩くことは、右足が沈む前に左足を前に出し、左足が沈む前に右足を前に出せば、理論的には一応可能だそうですよ(笑)。

「そんなこと出来るかーいっ!!」と突っ込みたくなりますが、実際にそのことを可能にしているのが、このバジリスクというトカゲさんなのです。





 それはさておき、ペテロはトカゲのようには水の上を歩いてイエスさまの元まで行けませんでした。

 それは彼が、イエスさまを信じることよりも、強い風による不安や恐怖に捕われてしまったからであり――といった牧師さんのお説教を、日曜礼拝などで聞いたことのある方は多いと思います(笑)。

 ペテロはこの時、向かい風からくる不安や恐怖に心を向けるのではなく、イエスさまだけに自分の注意や視線を注ぐべきでした。一応、<理論上は>そうですよね?

 でも、人とは弱いもので、わたしたちもイエスさまのことや天国のことでなく、「何故こんなことが許されるのだろう?」、「なんて自分は運がないんだろう」、「嫌なことばかりが人生に続くのは何故?」と悩むことがよくあると思います。

 もちろん、イエスさまのことを見ていないというわけではないのです。ただ、イエスさまは水の上の遥か向こうにいらっしゃって、その前に横たわる暗い深淵を、自分は生きているうちは決して越えられないのではないか……よくそんなふうにして悩む方というのは多いのではないでしょうか(もちろん、わたしもそうです)。

 そして、この極意について仮にわかったとしても、明日突然深い湖の上を歩こうとしてはいけません(笑)。イエスさまがとても遠いところにいて、神さまの存在を弱くしか感じられない時……それも、何かこの世的な浮ついた出来事に心を取られているせいでそうだというのではなく、こんなに苦しいのにつらいのに大変なのに困ってるのに、今こそ神さまの、イエスさまの御力を必要としているのに――何故あなたはそんなにも遠いところにおられるのですか……としか感じられない時、わたしたちの信仰、あるいは信仰生活は沈んでいます。

 果たしてそれはどの程度でしょうか?ペテロはほんのちょっと沈んだ時、イエスさまにすぐ助けていただきました。わたしたちも彼と同じく信仰の薄い者として、彼と同じように気持ちがちょっとでも沈んだら、困ったことや頭を悩ませることが起きたけど、そのあとに時間を置かずにすぐ助けていただきたいといつでも思っています。

 ところが、肉体が深い湖に沈んだ際には、その後五分もすれば意識を失うのだろうに、精神的な悩みに沈んでいる時には、わたしたちの意識は五分後も当然存在し続けています。そうして同じ場所でごぼごぼ☆沈みながら、性懲りもなく(?)同じことをぐるぐる悩み続けているのですねえ(^^;)

「イエスさま!この不健全な悩みのループ状態を断ち切ってください。このどうしようもない状態から、このどうしようもないわたしをお救いください。ゴボゴボ☆……」

 そしてそんなふうに深い水の中へ沈んでゆきながら――一体この暗闇からいつ自分は救われるのだろうと苦しみもがくのでした。。。

 そんな時、もしかしたらイエスさまがくださるのは背中に背負う酸素ボンベと、呼吸するための管やマスクといったものかもしれません。何故なら、奇妙な言い方ですが、人は時として否応なしに与えられた環境に文句を言い続け、自分からそうと望んで苦しみ続けるということがあるからです。

 でも不信仰なわたしたちはこの段階でも、一時的に喜びます。「そうだよ、神よ!わたしは理不尽な仕打ちをこの身に受けて苦しんでいるんだ。このくらいのことをあなたがしてくださるのは、考えてみたら当然じゃないか」と思ったり、あるいは酸素ボンベを与えられたことを喜び、神さまにその時は感謝しても……わたしたちの思考がいつまで経っても切り換わらないなら、いずれ酸素ボンベの量が尽きてなくなろうかという頃には、わたしたちはまたも神さまに文句を言ったり怒鳴りつけたりしだすことでしょう。

「かぁみぃ!!おまえはわたしをこの世に誕生させた以上ォォッ、わたしを幸福にするぅゥッ、義務があるんだぁぁっ!なァっ、そうだろーうぅゥッ!!ゴボゴボ☆……」

 というわけです(笑)

 もちろん恵み深い神さまは、ヨナにとうごまを備えてくださったように、わたしたちが「酸素が切れる、酸素が切れる!酸素が切れて死んじゃうよーうっ。ねえ、聞いてんの、神さまあァッ!!」とばかり、あんまりうるさいので、再び酸素ボンベの酸素を満タンにしてくださいます。ええ、もちろんそんなことくらい、神さまには朝飯前ですとも

 ただ、ある程度信仰的学習能力のある方なら、この過程のどこかでお気づきになるのではないでしょうか。イエスさまはいつでも、わたしたちの酸素が切れる前、その方の信仰の程度によって、不安を覚えるずっと前、あるいは相当ギリギリになってからなど、その時々によって違いがあるにせよ、結局最後には助けてくださるのです。

 こうして、信仰の筋肉がしっかり鍛えられた頃には――わたしたちは水の上へ顔を出して、ようやくイエスさまのお姿を感じることが出来ます。そして、なんの目印もない大海原の中、もしイエスさまがいらっしゃらなかったら、どの方角へ泳いでいったらいいかもわからないままだったでしょうが、イエスさまのいらっしゃる方角へ、天国のあるほうへと人生を泳ぎ進めていくことが出来るようになるのです。

 先日、聖書のこの箇所を示された時……つくづくわたしは信仰が薄いなあ、とあらためて思わされました(^^;)

 実際にはサメなどどこにもいなくとも、「サメがいるうっ。いや、今いなくてもそのうちやって来たらどうするんだあっ!!」といったことを神さまに申し上げてみたり、「酸素ボンベの酸素を永遠に切れないようにさせることが、イエスさまになら出来ますよね?だって、神さまなんですもの!」といった信仰だった時もあったような気がします(恥´艸`)。

 さて、水の上に浮かび上がってくるために、おそらくその前にわたしたちはある法則を学んでいるはずなのです。つまり、この深い海の暗闇の中にあってさえ……イエスさまのことを信じ、「この絶望的な状況を感謝し、あなたを賛美します!」と、そのように思考を切り換えるなら、酸素ボンベの量が減らずに増えたり、いつまでもなくならないといった現象を経験したりと、そうした出来事が人生に多くなってくるということに。

 また、信仰のピンチこそは、そのあとに大きな神さまの業が現されるチャンスだと、キリスト教信仰界ではよく言われるように……見たこともないような巨大な海洋生物が向こうからやって来るのをあなたは目撃するかもしれません。

 おそらく、そんな時にわたしたちが思うのは――「イエスさま、助けてくださィィィっッ!!あんなものに生きながら食べられるために、わたしは今まで生きてきたんじゃありませぇぇんッっ!!ゴボゴボ☆……」といったことでしょうが、魚に呑み込まれたヨナのことすら思い浮かばないわたしたちに対し、きっと聖霊さまを通してこんな語りかけがあることでしょう。

『その魚の尻尾につかまりなさい』という。そして実際、この魚の尻尾に捕まると、あなたはなんの労苦もなくとつてつもなく長い距離を楽々と移動し、最後には素晴らしいパラダイスとしか言いようのない島――アイランドへと、辿り着くことが出来るかもしれません(なぜ英語?笑)。

 これはマーリン・キャロザース先生がお書きになっていたことだと思うのですが、わたしたちの信仰というのは、「どうかわたしたちを助けてください。主よ、どうかあなたが助けてくださるまで!」という場合がとても多いと思います。

 イエスさまが実際に、具体的に動いて助けてくださったあとでなら、誰もが信じるのです。けれども本当の信仰とは……神さまが実際的かつ具体的に動いてくださる前に、「絶対にイエスさまはわたしをお見捨てにならないし、必ず助けてくださる」と、イエスさまの業が起きるのを見る前から確信していることです。

 イエスさまがその信仰をお褒めになった、百人隊長の信仰のように……。

 もちろん、「そんなエラそーなことを言うからには、あんたはいつでも神の助けを確信して、泰然自若たるものなんだろーね?」と言われてしまいそうですが、そんなことはありません(笑)。

 今でもよく、「うぉぉっ。足が吊ったァッ!!」とか、「こむらがえりを起こしたぁァっ!!」などと叫んではぶくぶく☆海の底へと沈み、「神さま、たしけてぇっ!!」とか言ってる気がします。しかも、聖霊さまが「足を伸ばして立ちなさい」と言われるのでそうしてみると――足を地面につけてみたら、水は体の半分にも来てなかったとか、オッチョコチョイという意味では、ペテロとどっこいどころか、それよりも悪いんじゃないかとたまに思ったりもします(^^;)

 それではまた~!!





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