【キリストの変容】ラファエロ・サンティ
「神のみぞ知る」のところで、人間の意識の容態といったことについて書いてみたのですが、人為的にそのような状態を作り出せる……という意味において、人間が<死>の状態にもっとも近いと思われるのが、病院で手術前にかけられる麻酔の効いている状態というのがあると思います。
ところが、ですね。「意識はいつ生まれるのか」の中に書かれているところによりますと、手術中、千人に一人くらいの割合で目を覚まされる方がいる、ということなのです。日本でも同じくらいの割合かどうかはわかりませんが、この中で手術中痛みを感じる方というのは極稀であるとはいえ――でも、もしそんな方がひとりでもいらっしゃったとしたら、ひとりいた時点ですでに「多い」と思うのは、わたしだけでしょうか?(^^;)
>>(……)あの灰色で無音の深淵が、突然カラー映像になって、最初はぼやっとした緑色だったのが、だんだんはっきりした景色が見えてきた。同時に、遠くぼやけた音が聞こえてきて、それがだんだん近く、はっきりしてきた。いまどこにいるんだろう。ああそうだ、手術を受けているのだった。やっとのことで、そんな考えがまとまる。そうしているうちにも、半分開いたまぶたから、小さな布が見える。
最初に覚えるのは、自分が置かれている状況と自分とが結びつかない、という感じと、驚きが混じった無関心だった。だがすぐに、どうしても体を動かさなければ、という思いに襲われた。人間離れした努力をして、体を動かそうとしてみる。だが動かない。縛り付けられた感じがしたわけではなく、体を動かさなければならない、という思いが湧きおこっていたのだ。自分のものとしては、宙に浮く脳しか残っていない感じがした。どこかに口があるはずだが、口を動かし、叫ぶことを防ぐようななにかに抑えられていた。そのほかすべてのものが消えてしまった。溶けてしまったのだ!
やっとのことで、ああ、いま私は意識ある状態で手術を受けているのだ、とはっきり認識した。なんの痛みも感じないが、いまいましいほどに意識がある。もうパニックだ。だがそれは奇妙なもので、理詰めの、冷徹なパニックとでもいったらいいだろうか。感情がまったく伴っていなかった。心臓がないから、どきどきすることがない。体がないから、身体的な痛みもない。どうしようと焦ることもなかった。というのも、そのときに起こっていたことは、抗えない何物かによって取り仕切られていたからだ。それは空虚なパニックだった。苦しい幻覚のように、そこから抜け出せないような気がしていた。どれくらい続いたかわからないが、私には永遠のように思われた。
どうしようもない気持ちで、お願いだから早く終わってほしい、と祈っていた。終わらせるためになにかしたいのに、どうしていいかわからなかった。そしてやっと、すべてが消え去った……
(「意識はいつ生まれるのか」マルチェッロ・マッスィミー二、ジュリオ・トノー二さん著、花本知子さん訳/亜紀書房より)
このレポートをお書きになったのは、なんという偶然からか、麻酔科医の方だったそうで、果たしてわたしがこの方で、自分に麻酔をかけたのが自分の部下だったりしたら――「チミィ。チミは何かわたしに恨みでもあるのかね?」とか、「チミの麻酔のかけ方はまったくなっとらんね」と回復後、嫌味を言わずにいられるかどうか、まったく謎としか言いようがありません。。。
実をいうとわたし、本のこの箇所を読んでいて、スティーブン・キングの「第四解剖室」という短編のことを思いだしました。主人公はゴルフのプレイ中に倒れ、その後病院で死んだものとみなされて解剖室送りとなるのですが……実は彼、体をまったく動かせないながらも周りでしゃべっていることや、自分に何をしようとしているかは気配でわかるといった意識状態なんですよね。ネタバレ☆になってしまうのですが(汗)、最終的に彼は「自分は本当は生きている」ということをどうにか周囲に伝えることが出来、解剖医たちに体を切り刻まれなくて済むのですが――それにしても、ゾッとする話ではありますよね
いえ、死んだあと、人間の意識がどうなるかなんてハッキリわからないことを思うと、わたしもア○ラックのあのガチョウががん保険を勧めるように――是非にと他の人々に勧めたくなるのです。「天国保険に入っておきませんか?」と……。
もちろん、「天国保険」なんていう言い方はなんとも不信仰でよくないことですが、でもイエスさまは、御自身を泥棒にたとえていらっしゃるくらいユーモアセンスのある方ですからね(笑)。今日どなたかが救われるためなら、わたしがこんな言い方をすることも許してくださるでしょう。
>>だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
(マタイの福音書、第24章42~44節)
ところで、人間の意識がいかに不思議なものかについては、以前もお書きしたとおりなのですが、聖書にはイエスさまが変容されるところを弟子たちが目撃する場面が書き記されています。
>>それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。
その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。
また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。
すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。
「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」
実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。
そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。
彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。
さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。
そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かと論じ合った。
(マルコの福音書、第9章2~10節)
その御衣は非常に白く光り……とあるように、イエスさまを信じる者はすべて、そのように自身の魂を清くしていただけるのです。また、イエスさまはわたしたちのために十字架におかかりになり、血の贖いを完成させてくださってのち――その三日後、甦られました。
>>さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
すると、御使いは女たちに言った。
「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました」
そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
(マタイの福音書、第28章1~9節)
御足を抱いてイエスを拝んだ……とあることから、死後のわたしたちの霊の体にも、どうやらちゃんと足があるらしいということがわかります(笑)。他に、イエスさまの復活の記事には、パンや魚を召し上がられたという箇所がありますし、イエスさま御自身、最後の晩餐において、>>「神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マルコの福音書、第14章25節)とおっしゃられていることから――肉体を持っている時とまったく同じ形でなくても、なんらかの飲食といったことは天国でもあるらしいことがわかります。
さらに、イエスさまが復活後に御姿をお現しになられた時……ある人々にはその御姿がイエスさまであるとわからなかったことから、わたしたちも霊の体として復活した場合、今現在の血肉の体の特徴をそのまま備えているとは限らないことがわかります。
イエスさまが十字架上であれほどまでの苦しみを味わわれ、血の贖いの業を完成させてくださったことが、実は今日、他でもないわたしやあなたが救われるためであったと信じ、告白するなら――わたしやあなたもまた、天国でイエスさまと同じ復活の体を得て、死後に甦り、天国での生活を永遠に味わうということが出来るのです。
しかも、この死後の保険には、掛け金など一切かかりません。もちろん、教会の日曜礼拝の時に神さまへの捧げものとしての献金ということはありますが、それはあくまで自発的になされるもので、強制ではありませんし、金額等もそれが仮に一円であろうと構わないといったものです(レプタ銅貨二枚という、極僅かな全財産すべてを捧げた女性のことを思いだしましょう)。
もし仮にこのキリスト教の教義といったものがすべてまやかしで、死後に肉体の復活などということもなく、すべては死の恐怖から逃れたいための、人々の共同幻想なのだとしたら……何故今日に至るまで、キリスト教というものは信者が絶えずに続いてくることが出来たのでしょうか。
その理由は、人間の限界ある力で神を理解し、信じようとはしてこなかったこと、さらには人智を超えた聖霊さまという存在をイエス・キリストを信じる者に神さまが送ってくださったことによって――歴史的には色々ありながらも、聖書に書き記されている<残りの者>、最後まで真実神に祈り聞き従う者を必ず神さまが与え続けてくださったことにより、信仰心を清く精錬された人々というのは決して絶えることがなかったからだと思います。
これでもまだイエス・キリストが死後に復活したなどとは「信じられない」という方々には、<トマス特約>をお付けしましょう(笑)。
トマスは、イエスさまの弟子のひとりで、イエスさまが人々に神さまや天国の教えを説くのを直にみそばで聞き、人々から悪霊を追いだしたり、病いの人の癒しをなすなど、たくさんの奇跡の業を間近で見てもきました。
ところがですね、他の弟子たちが「復活したイエスさまに会った」と聞いても、トマスは信じませんでした。他の弟子たちがすでにイエスさまにお会いしているのに、何故自分だけがその時そのことを経験することが出来なかったのかと、もしかしたら信じる・信じないという以前にへそを曲げていたのかもしれません。
>>十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。
しかし、トマスは彼らに、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
それからトマスに言われた。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」
トマスは答えてイエスに言った。
「私の主。私の神」
イエスは彼に言われた。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」
(ヨハネの福音書、第20章24~29節)
「見ずに信じる者は幸いです」……これは、百人隊長の信仰にも通じる信仰であるように思いますが、イエスさまの昇天後に彼のことを信じた人々はみな、現在に至るまで何十億という数え切れない人々が、イエスさまの御姿を見ずに信じるに至っています。
それでは、最後にさらに念押ししましょう。仮にわたしたちがこののち死んだとして、もし死んだあとの意識が<無>だというならいいのです。けれどもし、死後に解剖室にて自分の体が切り刻まれるのをなんらかの透明な意識ある存在として眺め、「何故かはわからないが、存在する以上は存在し続けなければならない」といったことになるとしたら、その経験自体が地獄ではないでしょうか。
わたしはそのような形で幽霊というのが存在しうると言っているのではありません。とにかくなんにしても、生きている人間に認識されないながらも、<意識>という存在だけがなんらかの形で地上に残り、ようやく神さまの審判の時に呼びだされ、「あ、あんたは生前イエス・キリストを信じてなかったから地獄行きね」などと言われるのだとしたら――これほど悲惨なことはないと思うのです。
つまり、死後のわたしたちの霊魂、意識状態といったものがどうなるのかは誰にもわからないわけですから、自分の魂に信仰の保険を付けておくというのは、人間的な言い方をしたとするならば、決して悪いことでないどころか、むしろいいことだと思うということなんですよね(^^;)
現在の脳科学といった領域においては、「死後は<無>である」説がもっとも有力であるように思われるわけですが(人間の意識は<死>そのものを意識することはないので、死を恐れる必要はない)、正直、わたしは今はこのことを信じきれるほど……いえ、言い方を変えましょう。「死後は<無>である」などと信じるより、天国や神さまのを存在を思い浮かべ、「いやあ、死ぬのが楽しみだよ。だって死ななきゃ天国を経験できないし、神さまにお会いするってことも出来ないんだからね」と言える今のほうが、魂の宿る肉体という存在として、脳が生き生きと活性化し喜んでいる自分を感じることが出来るのです。
>>天の父なる神さま、私はあなたを信じます。
今まで信じてこなかった事を、赦してください。
私は自分が罪びとであることを、認めます。
私の罪の身代わりとなって、イエスさまが十字架にかかって死んでくださったことを信じます。
私の罪のすべてを赦し、永遠の命を与えてくださった事を感謝します。
私は、あなたを私の罪からの救い主、主としてお迎えします。
約束通りイエスさまが、私の心の中に入ってくださった事を感謝します。
私のこれからの人生は、あなたものです。
私をあなたが望んでおられるような者に変えてください。
イエスさまのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
(イエス様、私はあなたを個人的に必要としています。
私の罪のため、身代わりに死んでくださりありがとうございます。
私は今、心の扉を開き、私の罪からの救い主、人生の導き手として、あなたをお迎えします。
私のすべての罪を赦し、永遠の命を与えてくださりありがとうございます。
私の心の中心で私を導き、あなたが望むような者に、私を変えてください。)
イエスさまのことを受け入れる祈りには、言葉として他にも意味は同じながら違うものがあるとは思います。けれども大切なのは、心からイエスさまに「わたしの心と人生の中に入ってきてください」との祈りと願いをもって口することだと思います。また、「何故魂の救いを受けるのにイエス・キリストが必要なのだろう?」など、疑問に感じることはすべてみな、教会で牧師さんや信徒の方におたずねください(笑)。
それではまた~!!
「神のみぞ知る」のところで、人間の意識の容態といったことについて書いてみたのですが、人為的にそのような状態を作り出せる……という意味において、人間が<死>の状態にもっとも近いと思われるのが、病院で手術前にかけられる麻酔の効いている状態というのがあると思います。
ところが、ですね。「意識はいつ生まれるのか」の中に書かれているところによりますと、手術中、千人に一人くらいの割合で目を覚まされる方がいる、ということなのです。日本でも同じくらいの割合かどうかはわかりませんが、この中で手術中痛みを感じる方というのは極稀であるとはいえ――でも、もしそんな方がひとりでもいらっしゃったとしたら、ひとりいた時点ですでに「多い」と思うのは、わたしだけでしょうか?(^^;)
>>(……)あの灰色で無音の深淵が、突然カラー映像になって、最初はぼやっとした緑色だったのが、だんだんはっきりした景色が見えてきた。同時に、遠くぼやけた音が聞こえてきて、それがだんだん近く、はっきりしてきた。いまどこにいるんだろう。ああそうだ、手術を受けているのだった。やっとのことで、そんな考えがまとまる。そうしているうちにも、半分開いたまぶたから、小さな布が見える。
最初に覚えるのは、自分が置かれている状況と自分とが結びつかない、という感じと、驚きが混じった無関心だった。だがすぐに、どうしても体を動かさなければ、という思いに襲われた。人間離れした努力をして、体を動かそうとしてみる。だが動かない。縛り付けられた感じがしたわけではなく、体を動かさなければならない、という思いが湧きおこっていたのだ。自分のものとしては、宙に浮く脳しか残っていない感じがした。どこかに口があるはずだが、口を動かし、叫ぶことを防ぐようななにかに抑えられていた。そのほかすべてのものが消えてしまった。溶けてしまったのだ!
やっとのことで、ああ、いま私は意識ある状態で手術を受けているのだ、とはっきり認識した。なんの痛みも感じないが、いまいましいほどに意識がある。もうパニックだ。だがそれは奇妙なもので、理詰めの、冷徹なパニックとでもいったらいいだろうか。感情がまったく伴っていなかった。心臓がないから、どきどきすることがない。体がないから、身体的な痛みもない。どうしようと焦ることもなかった。というのも、そのときに起こっていたことは、抗えない何物かによって取り仕切られていたからだ。それは空虚なパニックだった。苦しい幻覚のように、そこから抜け出せないような気がしていた。どれくらい続いたかわからないが、私には永遠のように思われた。
どうしようもない気持ちで、お願いだから早く終わってほしい、と祈っていた。終わらせるためになにかしたいのに、どうしていいかわからなかった。そしてやっと、すべてが消え去った……
(「意識はいつ生まれるのか」マルチェッロ・マッスィミー二、ジュリオ・トノー二さん著、花本知子さん訳/亜紀書房より)
このレポートをお書きになったのは、なんという偶然からか、麻酔科医の方だったそうで、果たしてわたしがこの方で、自分に麻酔をかけたのが自分の部下だったりしたら――「チミィ。チミは何かわたしに恨みでもあるのかね?」とか、「チミの麻酔のかけ方はまったくなっとらんね」と回復後、嫌味を言わずにいられるかどうか、まったく謎としか言いようがありません。。。
実をいうとわたし、本のこの箇所を読んでいて、スティーブン・キングの「第四解剖室」という短編のことを思いだしました。主人公はゴルフのプレイ中に倒れ、その後病院で死んだものとみなされて解剖室送りとなるのですが……実は彼、体をまったく動かせないながらも周りでしゃべっていることや、自分に何をしようとしているかは気配でわかるといった意識状態なんですよね。ネタバレ☆になってしまうのですが(汗)、最終的に彼は「自分は本当は生きている」ということをどうにか周囲に伝えることが出来、解剖医たちに体を切り刻まれなくて済むのですが――それにしても、ゾッとする話ではありますよね
いえ、死んだあと、人間の意識がどうなるかなんてハッキリわからないことを思うと、わたしもア○ラックのあのガチョウががん保険を勧めるように――是非にと他の人々に勧めたくなるのです。「天国保険に入っておきませんか?」と……。
もちろん、「天国保険」なんていう言い方はなんとも不信仰でよくないことですが、でもイエスさまは、御自身を泥棒にたとえていらっしゃるくらいユーモアセンスのある方ですからね(笑)。今日どなたかが救われるためなら、わたしがこんな言い方をすることも許してくださるでしょう。
>>だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
(マタイの福音書、第24章42~44節)
ところで、人間の意識がいかに不思議なものかについては、以前もお書きしたとおりなのですが、聖書にはイエスさまが変容されるところを弟子たちが目撃する場面が書き記されています。
>>それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。
その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。
また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。
すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。
「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」
実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。
そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。
彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。
さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。
そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かと論じ合った。
(マルコの福音書、第9章2~10節)
その御衣は非常に白く光り……とあるように、イエスさまを信じる者はすべて、そのように自身の魂を清くしていただけるのです。また、イエスさまはわたしたちのために十字架におかかりになり、血の贖いを完成させてくださってのち――その三日後、甦られました。
>>さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
すると、御使いは女たちに言った。
「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました」
そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
(マタイの福音書、第28章1~9節)
御足を抱いてイエスを拝んだ……とあることから、死後のわたしたちの霊の体にも、どうやらちゃんと足があるらしいということがわかります(笑)。他に、イエスさまの復活の記事には、パンや魚を召し上がられたという箇所がありますし、イエスさま御自身、最後の晩餐において、>>「神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マルコの福音書、第14章25節)とおっしゃられていることから――肉体を持っている時とまったく同じ形でなくても、なんらかの飲食といったことは天国でもあるらしいことがわかります。
さらに、イエスさまが復活後に御姿をお現しになられた時……ある人々にはその御姿がイエスさまであるとわからなかったことから、わたしたちも霊の体として復活した場合、今現在の血肉の体の特徴をそのまま備えているとは限らないことがわかります。
イエスさまが十字架上であれほどまでの苦しみを味わわれ、血の贖いの業を完成させてくださったことが、実は今日、他でもないわたしやあなたが救われるためであったと信じ、告白するなら――わたしやあなたもまた、天国でイエスさまと同じ復活の体を得て、死後に甦り、天国での生活を永遠に味わうということが出来るのです。
しかも、この死後の保険には、掛け金など一切かかりません。もちろん、教会の日曜礼拝の時に神さまへの捧げものとしての献金ということはありますが、それはあくまで自発的になされるもので、強制ではありませんし、金額等もそれが仮に一円であろうと構わないといったものです(レプタ銅貨二枚という、極僅かな全財産すべてを捧げた女性のことを思いだしましょう)。
もし仮にこのキリスト教の教義といったものがすべてまやかしで、死後に肉体の復活などということもなく、すべては死の恐怖から逃れたいための、人々の共同幻想なのだとしたら……何故今日に至るまで、キリスト教というものは信者が絶えずに続いてくることが出来たのでしょうか。
その理由は、人間の限界ある力で神を理解し、信じようとはしてこなかったこと、さらには人智を超えた聖霊さまという存在をイエス・キリストを信じる者に神さまが送ってくださったことによって――歴史的には色々ありながらも、聖書に書き記されている<残りの者>、最後まで真実神に祈り聞き従う者を必ず神さまが与え続けてくださったことにより、信仰心を清く精錬された人々というのは決して絶えることがなかったからだと思います。
これでもまだイエス・キリストが死後に復活したなどとは「信じられない」という方々には、<トマス特約>をお付けしましょう(笑)。
トマスは、イエスさまの弟子のひとりで、イエスさまが人々に神さまや天国の教えを説くのを直にみそばで聞き、人々から悪霊を追いだしたり、病いの人の癒しをなすなど、たくさんの奇跡の業を間近で見てもきました。
ところがですね、他の弟子たちが「復活したイエスさまに会った」と聞いても、トマスは信じませんでした。他の弟子たちがすでにイエスさまにお会いしているのに、何故自分だけがその時そのことを経験することが出来なかったのかと、もしかしたら信じる・信じないという以前にへそを曲げていたのかもしれません。
>>十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。
しかし、トマスは彼らに、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
それからトマスに言われた。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」
トマスは答えてイエスに言った。
「私の主。私の神」
イエスは彼に言われた。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」
(ヨハネの福音書、第20章24~29節)
「見ずに信じる者は幸いです」……これは、百人隊長の信仰にも通じる信仰であるように思いますが、イエスさまの昇天後に彼のことを信じた人々はみな、現在に至るまで何十億という数え切れない人々が、イエスさまの御姿を見ずに信じるに至っています。
それでは、最後にさらに念押ししましょう。仮にわたしたちがこののち死んだとして、もし死んだあとの意識が<無>だというならいいのです。けれどもし、死後に解剖室にて自分の体が切り刻まれるのをなんらかの透明な意識ある存在として眺め、「何故かはわからないが、存在する以上は存在し続けなければならない」といったことになるとしたら、その経験自体が地獄ではないでしょうか。
わたしはそのような形で幽霊というのが存在しうると言っているのではありません。とにかくなんにしても、生きている人間に認識されないながらも、<意識>という存在だけがなんらかの形で地上に残り、ようやく神さまの審判の時に呼びだされ、「あ、あんたは生前イエス・キリストを信じてなかったから地獄行きね」などと言われるのだとしたら――これほど悲惨なことはないと思うのです。
つまり、死後のわたしたちの霊魂、意識状態といったものがどうなるのかは誰にもわからないわけですから、自分の魂に信仰の保険を付けておくというのは、人間的な言い方をしたとするならば、決して悪いことでないどころか、むしろいいことだと思うということなんですよね(^^;)
現在の脳科学といった領域においては、「死後は<無>である」説がもっとも有力であるように思われるわけですが(人間の意識は<死>そのものを意識することはないので、死を恐れる必要はない)、正直、わたしは今はこのことを信じきれるほど……いえ、言い方を変えましょう。「死後は<無>である」などと信じるより、天国や神さまのを存在を思い浮かべ、「いやあ、死ぬのが楽しみだよ。だって死ななきゃ天国を経験できないし、神さまにお会いするってことも出来ないんだからね」と言える今のほうが、魂の宿る肉体という存在として、脳が生き生きと活性化し喜んでいる自分を感じることが出来るのです。
>>天の父なる神さま、私はあなたを信じます。
今まで信じてこなかった事を、赦してください。
私は自分が罪びとであることを、認めます。
私の罪の身代わりとなって、イエスさまが十字架にかかって死んでくださったことを信じます。
私の罪のすべてを赦し、永遠の命を与えてくださった事を感謝します。
私は、あなたを私の罪からの救い主、主としてお迎えします。
約束通りイエスさまが、私の心の中に入ってくださった事を感謝します。
私のこれからの人生は、あなたものです。
私をあなたが望んでおられるような者に変えてください。
イエスさまのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
(イエス様、私はあなたを個人的に必要としています。
私の罪のため、身代わりに死んでくださりありがとうございます。
私は今、心の扉を開き、私の罪からの救い主、人生の導き手として、あなたをお迎えします。
私のすべての罪を赦し、永遠の命を与えてくださりありがとうございます。
私の心の中心で私を導き、あなたが望むような者に、私を変えてください。)
イエスさまのことを受け入れる祈りには、言葉として他にも意味は同じながら違うものがあるとは思います。けれども大切なのは、心からイエスさまに「わたしの心と人生の中に入ってきてください」との祈りと願いをもって口することだと思います。また、「何故魂の救いを受けるのにイエス・キリストが必要なのだろう?」など、疑問に感じることはすべてみな、教会で牧師さんや信徒の方におたずねください(笑)。
それではまた~!!
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