【最後の審判】ミケランジェロ・ブオナローティ
仏教聖典からの引用が少し長くなりますが、まずは仏教の極楽浄土について引用させていただきたいと思いますm(_ _)m
>>この仏はいま、現にいて、法を説いている。その国の人びとはみな苦しみを知らず、ただ楽しみの日のみを送るので、極楽というのである。
その国には七つの宝でできた池があり、中には清らかな水をたたえ、池の底には黄金の砂が敷かれ、車の輪のように大きい蓮華が咲いている。その蓮華は、青い花には青い光が、黄色の花には黄色の光が、赤い花には赤い光が、白い花には白い光があり、清らかな香りをあたりに漂わせている。
また、その池の周囲のあちこちには、金・銀・青玉・水晶の四つの宝で作った楼閣があり、そこには大理石で作った階段がある。また、別の場所には池の上につき出た欄干があり、宝玉で飾られた幕で取り囲まれている。また、その間にはよいにおいのする木々や花がいっぱいに咲いた茂みがある。
空には神々しい音楽が鳴り、大地には黄金の色が照り映えて、夜昼六度も天の花が降り、その国の人びとはそれを集め花皿に盛って、ほかのすべての仏国へ持ってゆき、無数の仏に供養する。
また、この国の園には、白鳥、孔雀、おうむ、百舌鳥(もず)、迦陵頻伽(かりょうびんが)など数多くの鳥が、常に優雅な声を出し、あらゆる徳と善とをたたえ、教えを宣布している。
人びとはこの声を聞いて、みな仏を念じ、教えを思い、人の和合を念ずる。だれでもこの声の音楽を聞くものは、仏の声を聞く思いがし、仏への信心を新たにし、教えを聞く喜びを新たにして、あらゆる国の仏の教えを受ける者との友情を新たにする。
そよ風が吹き、宝の木々の並木をよぎり、輝く鈴をつけた網に触れると、微妙な音を出し、一時に百千の音楽がかなでられる。
この音を聞く者は、また自然に仏を信じ、教えを思い、人の和合を念ずるようになる。その仏の国は、このような功徳と美しい飾りとをそなえている。
どういうわけで、この国の仏は無量光仏、無量寿仏と名づけられるのであろうか。かの仏の光は量ることができず、十方の国々を照らしても少しもさえぎられない。またその寿命も限りがないから、そう名づけるのである。
そして、その国に生まれる人びとも、みな、ふたたび迷いの世界にもどらない境地に至り、その数はかぞえ尽くすことができないからである。
また、この仏の光によって新しい命に目覚める人びとの数は無量だからである。
ただ、この仏の名を心に保ち、一日または七日にわたって、心を一つにして動揺することがないならば、その人の命が終わるとき、この仏は、多くの聖(ひじり)たちとともに、その人の前に現われる。その人の心はうろたえることなく、ただちにその国に生まれることができる。
もし人が、この仏の名を聞き、この教えを信ずるならば、仏たちに守られ、この上もない正しいさとりを得ることができるのである。
(和英対象仏教聖典/仏教伝道教会刊より)
そして、次に短く聖書の述べる天国の一部について引用したいと思いますm(_ _)m
>>御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と子羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
(黙示録、第22章1~5節)
あの、前にも別のところで書いたのですが、わたしはクリスチャンなので、仏教聖典から何か引用したりしても、そちらと混合的に信ずべき……とか思ってるわけではまったくなく、あくまでも「へえ~☆」という程度の参考にしていただけたら……というくらいな感じだったりします(^^;)
わたしの育った家庭もそうですが、日本ではその多くが実質的に葬式仏教徒だと思います。
いえ、わたし自分がキリスト教徒になる前は、仏教的なことが相当好きでした。仏壇に祈ったりですとか、お焼香したり香を焚いたり、そうした事柄の宗教的雰囲気が好きでしたし、お墓参りなど、仏教的行事を守ったあとに感じるなんとなく気持ちが清められたような感じとかがすごく好きだったんですね。
でも十代の後半くらいから人生の悩みのようなものが深刻になってきまして、大体十代後半から二十二、三歳くらいになるまで、ずっと死ぬことや自殺することばかり考えていました。
どうにかして自分の悩みから救われたいので、厄年には当然厄を払いに神社へ行きましたし(神社は神道系かもしれませんが、その頃のわたしもご他聞に洩れず仏教と混同していました)、でも特にこれといって何も変わらないんですよね。
よく、ピアスを開けると運気が変わるとか言うので、今考えると馬鹿みたいですが、そんな理由でピアスの穴を開けていたということもあります(笑)
仏教の思想は素晴らしいものですが、わたし個人の悩みそのものに対してはなんの効果もなかったというのがありまして、その後、自殺未遂などをして「まあ、人生こんなものだな……」というところに落ち着いた(すべてについて諦めきった)頃、キリスト教に出会って救われました。
このキリスト教というのがちょっと厄介な教理で出来ていて、普通その教えを棒読みされた場合、額面通りには到底信じることが出来ないと思うのですが、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神の三位一体の神の第三位格――聖霊さまの力が働くことによって救われることが出来ました。
日本人は思想的には仏教寄りですから、この仏教の述べる極楽浄土と、キリスト教の述べる天国とを比較した場合、なんとなくどっちも同じように感じられ、それなら仏教の天国のほうがいいかな~☆という感じかもしれません、もしかしたら(^^;)
キリスト教でも仏教でも「死後は悩みが苦しみがなくなる」とされていますから、「ほんなら、仏教を信じてる人は仏教的な天国で安らぎ、キリスト教徒はんは聖書の教えてる天国とやらで死後はそれぞれ分かれて暮らしておったらええやん☆」と思われるかもしれません。でもキリスト教はやっぱり一神教ですから、天国があるとすればそれはイエス・キリストの治める永遠の王国ということになるのです。
わたしもそうでしたが、仏教では極楽浄土についてこう表現しているとか、意外に知られていない気がするので、何かの軽い参考程度のお話として、クリスチャンの方には読んでいただけたらと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
仏教聖典からの引用が少し長くなりますが、まずは仏教の極楽浄土について引用させていただきたいと思いますm(_ _)m
>>この仏はいま、現にいて、法を説いている。その国の人びとはみな苦しみを知らず、ただ楽しみの日のみを送るので、極楽というのである。
その国には七つの宝でできた池があり、中には清らかな水をたたえ、池の底には黄金の砂が敷かれ、車の輪のように大きい蓮華が咲いている。その蓮華は、青い花には青い光が、黄色の花には黄色の光が、赤い花には赤い光が、白い花には白い光があり、清らかな香りをあたりに漂わせている。
また、その池の周囲のあちこちには、金・銀・青玉・水晶の四つの宝で作った楼閣があり、そこには大理石で作った階段がある。また、別の場所には池の上につき出た欄干があり、宝玉で飾られた幕で取り囲まれている。また、その間にはよいにおいのする木々や花がいっぱいに咲いた茂みがある。
空には神々しい音楽が鳴り、大地には黄金の色が照り映えて、夜昼六度も天の花が降り、その国の人びとはそれを集め花皿に盛って、ほかのすべての仏国へ持ってゆき、無数の仏に供養する。
また、この国の園には、白鳥、孔雀、おうむ、百舌鳥(もず)、迦陵頻伽(かりょうびんが)など数多くの鳥が、常に優雅な声を出し、あらゆる徳と善とをたたえ、教えを宣布している。
人びとはこの声を聞いて、みな仏を念じ、教えを思い、人の和合を念ずる。だれでもこの声の音楽を聞くものは、仏の声を聞く思いがし、仏への信心を新たにし、教えを聞く喜びを新たにして、あらゆる国の仏の教えを受ける者との友情を新たにする。
そよ風が吹き、宝の木々の並木をよぎり、輝く鈴をつけた網に触れると、微妙な音を出し、一時に百千の音楽がかなでられる。
この音を聞く者は、また自然に仏を信じ、教えを思い、人の和合を念ずるようになる。その仏の国は、このような功徳と美しい飾りとをそなえている。
どういうわけで、この国の仏は無量光仏、無量寿仏と名づけられるのであろうか。かの仏の光は量ることができず、十方の国々を照らしても少しもさえぎられない。またその寿命も限りがないから、そう名づけるのである。
そして、その国に生まれる人びとも、みな、ふたたび迷いの世界にもどらない境地に至り、その数はかぞえ尽くすことができないからである。
また、この仏の光によって新しい命に目覚める人びとの数は無量だからである。
ただ、この仏の名を心に保ち、一日または七日にわたって、心を一つにして動揺することがないならば、その人の命が終わるとき、この仏は、多くの聖(ひじり)たちとともに、その人の前に現われる。その人の心はうろたえることなく、ただちにその国に生まれることができる。
もし人が、この仏の名を聞き、この教えを信ずるならば、仏たちに守られ、この上もない正しいさとりを得ることができるのである。
(和英対象仏教聖典/仏教伝道教会刊より)
そして、次に短く聖書の述べる天国の一部について引用したいと思いますm(_ _)m
>>御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と子羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
(黙示録、第22章1~5節)
あの、前にも別のところで書いたのですが、わたしはクリスチャンなので、仏教聖典から何か引用したりしても、そちらと混合的に信ずべき……とか思ってるわけではまったくなく、あくまでも「へえ~☆」という程度の参考にしていただけたら……というくらいな感じだったりします(^^;)
わたしの育った家庭もそうですが、日本ではその多くが実質的に葬式仏教徒だと思います。
いえ、わたし自分がキリスト教徒になる前は、仏教的なことが相当好きでした。仏壇に祈ったりですとか、お焼香したり香を焚いたり、そうした事柄の宗教的雰囲気が好きでしたし、お墓参りなど、仏教的行事を守ったあとに感じるなんとなく気持ちが清められたような感じとかがすごく好きだったんですね。
でも十代の後半くらいから人生の悩みのようなものが深刻になってきまして、大体十代後半から二十二、三歳くらいになるまで、ずっと死ぬことや自殺することばかり考えていました。
どうにかして自分の悩みから救われたいので、厄年には当然厄を払いに神社へ行きましたし(神社は神道系かもしれませんが、その頃のわたしもご他聞に洩れず仏教と混同していました)、でも特にこれといって何も変わらないんですよね。
よく、ピアスを開けると運気が変わるとか言うので、今考えると馬鹿みたいですが、そんな理由でピアスの穴を開けていたということもあります(笑)
仏教の思想は素晴らしいものですが、わたし個人の悩みそのものに対してはなんの効果もなかったというのがありまして、その後、自殺未遂などをして「まあ、人生こんなものだな……」というところに落ち着いた(すべてについて諦めきった)頃、キリスト教に出会って救われました。
このキリスト教というのがちょっと厄介な教理で出来ていて、普通その教えを棒読みされた場合、額面通りには到底信じることが出来ないと思うのですが、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神の三位一体の神の第三位格――聖霊さまの力が働くことによって救われることが出来ました。
日本人は思想的には仏教寄りですから、この仏教の述べる極楽浄土と、キリスト教の述べる天国とを比較した場合、なんとなくどっちも同じように感じられ、それなら仏教の天国のほうがいいかな~☆という感じかもしれません、もしかしたら(^^;)
キリスト教でも仏教でも「死後は悩みが苦しみがなくなる」とされていますから、「ほんなら、仏教を信じてる人は仏教的な天国で安らぎ、キリスト教徒はんは聖書の教えてる天国とやらで死後はそれぞれ分かれて暮らしておったらええやん☆」と思われるかもしれません。でもキリスト教はやっぱり一神教ですから、天国があるとすればそれはイエス・キリストの治める永遠の王国ということになるのです。
わたしもそうでしたが、仏教では極楽浄土についてこう表現しているとか、意外に知られていない気がするので、何かの軽い参考程度のお話として、クリスチャンの方には読んでいただけたらと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
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