【楽園のアダムとエヴァ】ピーテル・パウル・ルーベンス
墓に葬られた人々は
等しく朽ちるのだろうか
私は信じている
ある種族は確かに生命を持つと――
私はそれを証言しよう
私が死んではいないと否定するのと同じ位確かだと――
そして頭の上のタンクから
その証しとして 私の肺を満たすのです
イエスはおっしゃった あなた方に言おう
死を味わうことのない者が
ここに立っていると――
もしイエスが これを心から言われたのなら
もう議論はしたくない
主のお言葉に
論争の余地はありません
主はおっしゃったのです 死は死んでしまったと――
(『エミリ・ディキンスン詩集』中島完さん訳/国文社より)
多くの方がご存じのとおり、創世記にはアダムとエヴァ(イヴ)が禁断の木の実を食べてしまった結果、罪と死が入ってきたと書かれています。
>>また、アダムに仰せられた。
「あなたが、妻の声に聞き従い、
食べてはならないと
わたしが命じておいた木から食べたので、
土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
あなたは、一生、
苦しんで食を得なければならない。
土地は、あなたのために、
いばらとあざみを生えさせ、
あなたは、野の草を食べなければならない。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、
ついに、あなたは土に帰る。
あなたはそこから取られたのだから。
あなたはちりだから、
ちりに帰らなければならない」
(創世記、第3章17~19節)
そして、人が天国へ行くっていうのはようするに、この罪も死もない世界へ行く、再び原罪を背負う前の楽園へ帰るということを意味しているのではないでしょうか。
たぶん仏教やイスラム教や、その他どんな宗教でも――「人は死後天国へ行く」といった意味のことを教えていたとすれば、死後の世界には当然もう死も罪もないといったように表現されてそうな気がします(^^;)
キリスト教の場合は、イエスさまが今から約二千年前に十字架にかかってくださって、全人類の罪の贖いを成し遂げてくださったことにより……十字架上に人を苦しめる罪といったものすべてを引き受けてくださったことにより、彼のことを信じる者は罪なしとされ、さらには<死>というものに対しても勝利を取ってくださいました。
そして、この<死に対する勝利>というのが、イエス・キリストが十字架につけられてのち三日後に復活されたことをいうのですが、正直、わたしがまだこのことを信じていない時に誰かから説明されても「は?」という感じだったんじゃないかな……という気がします(^^;)
>>もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。
(コリント人への手紙第一、第15章19~26節)
>>朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえの棘はどこにあるのか」
死の棘は罪であり、罪の力は律法です。
しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
(コリント人への手紙第一、第15章53~57節)
わたしがまだノンクリスチャンだった時、こうした説明を聞いても果たしてそうピンときたものかどうか、謎が大きいです(^^;)
でも、「360℃、すべてからの礼拝。」のところでも書いたのですが、聖書って本当にすべて繋がってるんですよね
アブラハムは息子のイサクを捧げよと言われた時、神さまの仰せられていることが理解できず、苦しんだことと思います。けれど、これが実はのちに来られる方である救い主、イエス・キリストの罪の生贄としての<型>であったことが、天国へ行った時にわかったのではないでしょうか。
そして、神によって造られた人アダムとエヴァによって入ってきた罪と死もまた、神のひとり子イエス・キリストの十字架の贖いの死によって滅ぼされました。キリスト教ではこのことを信じる人だけが天国へ行けるとされますので、一般的に言ってみたとしたらおそらく多くの方が承服しかねることかもしれません。
わたしもその昔は、キリスト教というとその教義を信じている人だけが救われる……と聞いていたので、それだけでも十分気に入らない宗教だなと思っていました(笑)何故なら、この世界にもし本当に神さまと呼ばれる存在がいるのなら、死後に裁かれるにしても生まれ変わるにしても、その全員に平等に申し開きをする機会ややむをえぬ事情があったなどの赦しを乞う裁判が行われたのち、天国へ行くなり地獄へ行くなりあるいは生まれ変わるなりすれば良いではないか……などと人間的に考えていたからです(^^;)
けれど、神さまの御計画は人間の頭では考えつきもしないほど、及びもつかないほど大きなものでした。
>>目が見たことのないもの、
耳が聞いたことのないもの、
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、
神の備えてくださったものは、みなそうである。
(コリン人人への手紙第一、第2章9節)
ディキンスンの詩のほうに戻るとしますと、詩の中にでてくる「死を味わうことのない者がここに立っている」というのは、ヨハネの福音書からの引用となります。
>>イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」
(ヨハネの福音書、第11章25~26節)
イエス・キリストの十字架上の贖いと、その後の復活を信じる人だけが何故天国へ行けるのかとか、そうしたことについては書きはじめると長くなりますので(というか、これまで書いた記事の中に書いてありますので)、ここでは端折りたいと思います(^^;)
それではまた~!!
P.S.わたしとしてはヨハネの福音書のこの部分を引用したいというのがあったのですが、正確には『マタイの福音書、第16章28節』、『マルコの福音書、第9章1節』、『ルカの福音書、第9章27節』からの引用になるかと思いますので、その中から今回はマルコの福音書から引用しておきたいと思いますm(_ _)m
>>イエスは彼らに言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます」
(マルコの福音書、第9章1節)
墓に葬られた人々は
等しく朽ちるのだろうか
私は信じている
ある種族は確かに生命を持つと――
私はそれを証言しよう
私が死んではいないと否定するのと同じ位確かだと――
そして頭の上のタンクから
その証しとして 私の肺を満たすのです
イエスはおっしゃった あなた方に言おう
死を味わうことのない者が
ここに立っていると――
もしイエスが これを心から言われたのなら
もう議論はしたくない
主のお言葉に
論争の余地はありません
主はおっしゃったのです 死は死んでしまったと――
(『エミリ・ディキンスン詩集』中島完さん訳/国文社より)
多くの方がご存じのとおり、創世記にはアダムとエヴァ(イヴ)が禁断の木の実を食べてしまった結果、罪と死が入ってきたと書かれています。
>>また、アダムに仰せられた。
「あなたが、妻の声に聞き従い、
食べてはならないと
わたしが命じておいた木から食べたので、
土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
あなたは、一生、
苦しんで食を得なければならない。
土地は、あなたのために、
いばらとあざみを生えさせ、
あなたは、野の草を食べなければならない。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、
ついに、あなたは土に帰る。
あなたはそこから取られたのだから。
あなたはちりだから、
ちりに帰らなければならない」
(創世記、第3章17~19節)
そして、人が天国へ行くっていうのはようするに、この罪も死もない世界へ行く、再び原罪を背負う前の楽園へ帰るということを意味しているのではないでしょうか。
たぶん仏教やイスラム教や、その他どんな宗教でも――「人は死後天国へ行く」といった意味のことを教えていたとすれば、死後の世界には当然もう死も罪もないといったように表現されてそうな気がします(^^;)
キリスト教の場合は、イエスさまが今から約二千年前に十字架にかかってくださって、全人類の罪の贖いを成し遂げてくださったことにより……十字架上に人を苦しめる罪といったものすべてを引き受けてくださったことにより、彼のことを信じる者は罪なしとされ、さらには<死>というものに対しても勝利を取ってくださいました。
そして、この<死に対する勝利>というのが、イエス・キリストが十字架につけられてのち三日後に復活されたことをいうのですが、正直、わたしがまだこのことを信じていない時に誰かから説明されても「は?」という感じだったんじゃないかな……という気がします(^^;)
>>もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。
(コリント人への手紙第一、第15章19~26節)
>>朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえの棘はどこにあるのか」
死の棘は罪であり、罪の力は律法です。
しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
(コリント人への手紙第一、第15章53~57節)
わたしがまだノンクリスチャンだった時、こうした説明を聞いても果たしてそうピンときたものかどうか、謎が大きいです(^^;)
でも、「360℃、すべてからの礼拝。」のところでも書いたのですが、聖書って本当にすべて繋がってるんですよね
アブラハムは息子のイサクを捧げよと言われた時、神さまの仰せられていることが理解できず、苦しんだことと思います。けれど、これが実はのちに来られる方である救い主、イエス・キリストの罪の生贄としての<型>であったことが、天国へ行った時にわかったのではないでしょうか。
そして、神によって造られた人アダムとエヴァによって入ってきた罪と死もまた、神のひとり子イエス・キリストの十字架の贖いの死によって滅ぼされました。キリスト教ではこのことを信じる人だけが天国へ行けるとされますので、一般的に言ってみたとしたらおそらく多くの方が承服しかねることかもしれません。
わたしもその昔は、キリスト教というとその教義を信じている人だけが救われる……と聞いていたので、それだけでも十分気に入らない宗教だなと思っていました(笑)何故なら、この世界にもし本当に神さまと呼ばれる存在がいるのなら、死後に裁かれるにしても生まれ変わるにしても、その全員に平等に申し開きをする機会ややむをえぬ事情があったなどの赦しを乞う裁判が行われたのち、天国へ行くなり地獄へ行くなりあるいは生まれ変わるなりすれば良いではないか……などと人間的に考えていたからです(^^;)
けれど、神さまの御計画は人間の頭では考えつきもしないほど、及びもつかないほど大きなものでした。
>>目が見たことのないもの、
耳が聞いたことのないもの、
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、
神の備えてくださったものは、みなそうである。
(コリン人人への手紙第一、第2章9節)
ディキンスンの詩のほうに戻るとしますと、詩の中にでてくる「死を味わうことのない者がここに立っている」というのは、ヨハネの福音書からの引用となります。
>>イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」
(ヨハネの福音書、第11章25~26節)
イエス・キリストの十字架上の贖いと、その後の復活を信じる人だけが何故天国へ行けるのかとか、そうしたことについては書きはじめると長くなりますので(というか、これまで書いた記事の中に書いてありますので)、ここでは端折りたいと思います(^^;)
それではまた~!!
P.S.わたしとしてはヨハネの福音書のこの部分を引用したいというのがあったのですが、正確には『マタイの福音書、第16章28節』、『マルコの福音書、第9章1節』、『ルカの福音書、第9章27節』からの引用になるかと思いますので、その中から今回はマルコの福音書から引用しておきたいと思いますm(_ _)m
>>イエスは彼らに言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます」
(マルコの福音書、第9章1節)
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