神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

本当にほんとうの天国。

2021年02月03日 | キリスト教

 キリスト教の教義では、生きている間にイエス・キリストを主とした人だけが天国へ行けるということなので――大抵の方が「ん?おみゃーはのわーに言うとるだに!!」となる、このことは一旦脇に置いておいて……あくまでも一般的な、すべての人が信じる「天国」について書いてみたいと思います。

 随分昔のことになりますが、以前、白血病で小学生くらいの年齢で亡くなってしまった女の子の絵を見たことがありました。家族の絵とか、女の子が何人か描かれた絵とか、他にも色々あったと思うのですが……背中から羽の生えた天使の絵を見た時、涙がでそうになったのを今も覚えています。

 その女の子はもちろん、お母さんやご家族の方もキリスト教徒ではなかったそうなのですが……「死期が近づいてきた時、何故か自然と天使の絵を描くようになった」ということでした。「きっと、娘にとって天国というのはそのような場所で」、「今娘はそのような場所にいるのだと信じています」と……。

 わたしもそのように信じます。だから、「天国を信じない」という人がいたりすると、思わず「ふふっ」と笑ってしまうのです。

 もちろん、日本はクリスチャン人口が少ないので(全人口の2%くらいって聞いたんですけど、ほんとにそうなんですよね?^^;)、誰か人が亡くなった時、お葬式のほうは大抵が仏教式ですし、生前イエスさまのことを信じる機会のなかった身近な人々のために、今この瞬間もとりなしの祈りをしている方はたくさんいらっしゃると思います。

 天国を信じないですって?正気ですか?

 では、天国がどんな場所か、わたしが教えてあげましょう。

 あるところに目の見えない女の子がいて、お母さんにこう言ったといいます。

「死んだら、きっと『目に見える』っていうのがどんなことかわかるのね。わたし、今から死ぬのが楽しみだわ!」

 そう――こんな言葉を聞いても、もし「天国はない」とおっしゃるのであれば、あなたは相当重症です。死後に無の暗闇でも、あるいは地獄にでも、好きなところへ行ってください(笑)

 ところで、イエスさまは「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」とおっしゃいました。


 >>さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」

 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

(マルコの福音書、第10章13~16節)


 そうなのです。

 何故なのかはわかりませんが、大人になるにつれ、子供の心のように天国を信じるのが難しくなっていく……というのが一般的なようです。

 また、イエスさまは「金持ちが神の国(天国)にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(マルコの福音書、第10章25節)ともおっしゃっています。

 おそらく、大人になるにつれ、そうした「この世の心遣い」といったことに忙しくなるあまり、だんだんにわたしたちは神の国、天国といったものに対し、目が暗くなっていくものと思われます。

 イエスさまは、何人もの方の病いの癒しを行い、目の見えない人の目を見えるようにもしてくださった方でした。そうした何人もの人々の中で――「主よ。私たちをあわれんでください」と言ったふたりの盲人の方がいました。そして、イエスさまはこうおっしゃったのです。「わたしに何をしてほしいのか」……「主よ。この目をあけていただきたいのです」

 ベテスダの池の箇所もそうですが、38年もの間病気の人に対して、イエスさまはまず「よくなりたいか」と聞いているのです。盲人の方の望みは当然目が見えることであり、病気の人であれば「よくなりたい」と答えるのは当然のことだと思います。

 けれども、「目が見える以上のこと」、「病気がよくなる以上に価値のあること」がこの世にあるというのも、おそらくは事実なのでしょう。もちろん、イエスさまは目が見えない人の目が見えるようにされ、不治の病いに苦しむ人々の病いをも癒されました。

 また、こうも言っておられます。


 >>イエスは言われた。

「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目になるためです」

 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。

「私たちも盲目なのですか」

 イエスは彼らに言われた。

「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」

(ヨハネの福音書、第9章39~41節)



 以前、ほんの短い期間ですが、全盲の方と接する機会がありました。すると、わかるんですよね。「この世の悪いものというのは、まず目から入ってくるんだな」ということが……。

 もちろん、一般に健常者と呼ばれる人々の価値基準に沿ったとすれば、目が見えないよりは目が見えたほうがいいのは当然のことかもしれません。でも、もし「生まれた時から目が見えなかったとすれば、こんなにも心を清く保つことができる」ということに対し、その時に物凄く衝撃を受けた覚えがあります。

 この時もわたし、「どうしてもこの子たち、この人にイエスさまの福音を伝えたい」という気持ちがあったのですが、今はボランティアでもなんでも、最初に「宗教の布教をしない」ということが注意事項のひとつに含まれていたりするんですよね。「でも、もし少しずつでも個人的に親しくなれたとしたら、いずれイエスさまのことを伝えられるのでは?」と願いつつ、結局果たせませんでした。。。

 でも、今もその子たちが救われる機会がありますようにと祈っていますし、聖書の盲人の方の開眼について書かれた記事を読むたび、わたしもパリサイ人と同じように「わたしは目が見える!」と言っていないかどうかと、常に疑いを持っていたりします(^^;)

「大切なものは目に見えない」と、『星の王子さま』の中で、キツネさんも言っているように――「天国」は目に見えないし、「天使」も(基本的には)目に見えないし、神さまのことも、神さま御自身に顕現のご意思がなければ、わたしたちにイエスさまの御姿が見えるようなこともありません。

 でも、信じていると、霊の目によってものを見るように、確かに天国も天使も神さまも、いないと否定するのは愚かなことのようにしか思えませんし、「そんな目に見えないものを信じることは到底できない」と考える人々に対して、やっぱり「ふふっ」と笑ってしまうのです。

 本当にほんとうの天国はどこにあるのかですって?


 >>さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。

「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」

(ルカの福音書、第17章20~21節)


 ちなみに、わたしの持っている聖書の欄外注には、「イエスのメシア的わざによって現に来ている」とあります。わたしも、まったくそのとおりだと思います。主よ、アーメン


 それではまた~!!






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