神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

悔い改めるとは、180度生き方を方向転換するということ。

2020年03月27日 | キリスト教

 >>そのとき、ペテロがみもとに来て言った。

「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」

 イエスは言われた。

「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。

 王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。

 清算がはじまると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。

 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部を売って返済するように命じた。

 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。

 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。

 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。

 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。

 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、一部始終を主人に話した。

 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。

『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。

 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか』

 こうして、主人は怒って、借金全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。

 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです」

(マタイの福音書、第18章21~35節)


 芸能人の方の薬物による逮捕が続いているように思いますが、個人的にその中で一番重症であるように感じたのが、田代まさしさんだったでしょうか(^^;)

 いえ、たまたま偶然なんですけど……某教育番組の「バリバラ」で、逮捕される何か月前とかだった気がするのですが、田代まさしさんが薬物についての自分の今感じている状況や、絶対やっちゃいけない――といったように語る場面のあたりを、偶然見ていました。

 これもまた、HKの番組でなのですが、アルコールや麻薬などは、一切やらなくなってからも、「飲みたい」、「麻薬をやりたい」といった気持ちはいつまでも残る、ある、といったことを、アルコール中毒や麻薬中毒から立ち直った方がおっしゃっていたのを覚えています。

 田代まさしさんはこれで何度目の逮捕になるかわからないかもしれませんが、逮捕されたり、世間で色々言われたりするといったことより何より――自分的に、ダルクさんはどうするのだろう……といったことが心配でした。いえ、「流石にもううちでも引き受けられない」となるのかどうか、そのことが気になったというか(^^;)

 それで、これもまた「バリバラ」にて、ええと、あの方はお医者さんだったかどうか忘れてしまったんですけど(汗)、確か、アルコールや麻薬といった何かの中毒患者さんというのは、一度はやめる決心をしても、7~8回くらいは、やっぱりまたアルコールや麻薬に手を出す……といったことを繰り返して、ようやく中毒状態から抜けだす――といった過程を通るものなので、治療の過程としては今度の逮捕というのも、そうした中で起きたことだ、といったことだったと思います。

 この時もわたし、チャンネルをザッピングしていて、偶然この場面を見ただけだったりするのですが(汗)、そう聞いて少しだけほっとしました。おそらく、ダルクさんのほうでは今後も田代まさしさんのことを助けてくれるというか、そうした姿勢なのではないかという気がしたので……「ああ、それなら良かったなあ」と思ったというか。

 ところで、今回のタイトルは「悔い改めるとは、180度生き方を方向転換するということ」ですが、わたしは何も田代まさしさんは、今後は「悔い改めて、180度生き方を方向転換すべきだ」とか、何か説教くさいことを書きたいわけではまったくないのです(^^;)

 世間一般的には、「あいつはもう終わった奴だ」とか、色々言う人はいるでしょう。でも、悔い改めることは出来ても、180度生き方を方向転換するっていうのは、とてもとてもとても難しいことだと、自分的には本当にそう思います。

 キリスト教においても、「悔い改めた罪については、すべて赦される」というのは、ノンクリスチャンの方でも聞いたことがあると思います。これは、イエスさまが十字架上で流してくださった血潮の力によって、わたしたちの罪は清められて解放されるということですが、神学的には、「もし本当に悔い改めたのなら、今度はその罪に背を向けて、方向転換した生き方をすることが出来るはず」といったことも含まれるということなんですよね(真に悔い改めたのなら、それが行動にもそのような形で反映されるはずだ、ということなのだ思います)。

 また、キリスト教において、<罪>というのは、的を外した生き方をする、ということなのですが、悔い改めるのと同時に、今度は的をきちんと射ることの出来る、正しい生き方をする……というのも、なかなか難しいことではないかと自分的には思います(^^;)

 何故かというと、神さまの御前に身を投げだしてあんなにも涙を流して悔い改めたのに――180度どころか、60度くらい頑張って生き方を変えたところで、また元の前の罪の生活に少しずつ戻ってきてしまった……といった経験をしたことのある方は、おそらくたくさんいらっしゃるでしょう。

 イエスさまは、「一度のみならず、二度、三度と誰かが罪を犯しても、その人が「赦してください」とあなたに言うなら、七度を七十倍にするまで赦してあげなさい」と言っています。七度を七十倍――「じゃあ、490回まで赦して、491回目になったら、赦さなくてもいいんですね」ということではない、ということは、誰しもが理解されることと思います。

 イエスさまは、この世の罪びとであるわたしたちに、それほどまでも深い愛を示してくださいました。もちろんこれは、田代まさしさんに「490回目までなら、麻薬で逮捕されても神さまは見捨てないよ」といったことではなく……刑務所に入るなどして、心から反省し罪を償った方に対しては、心を広く寛容であるようにという、神さまからの勧め、と言いますか、そうしたお話です。

「いや、少しも反省してなくて、悔い改めてもいないから、また逮捕されたんでしょーが」とおっしゃる方のほうが世間の大多数とは思います。また、「社会のクズ」だとか、何かそうしたことをネット民の意見として書き込まれる方も多いかもしれません。

 でも、自分的には大体、法を犯してはいなくても――わたし自身は自分のことを、田代まさしさんと似たり寄ったりの「社会のクズ」といったように感じますし、刑務所に入ってる方と自分を比べても、神さまの大きな広い視野に立ってみたとすれば、物理的な塀以外、その内にいるか外にいるかくらいの違いしかないような気がしています。

 わたし自身は麻薬をやったことはありませんが、それでも前に一度、そうしたドキュメンタリーで「麻薬が効いている時間自体はそう長くなかったとしても、効いている間は100%完璧な幸福が得られる」という言葉を聞いて、「なかなかやめられないのが何故か」という、その理由がわかったような気がしました。

 何か人生でつらいことがあったり、苦しいことがあったり、孤独なことがあったりすると、一時期的にでもそのことを完全に忘れ去りでもしなければ、とてもやってられない……ただ、アルコールもそうだと思いますが、麻薬は「またアレが欲しい」という常習性の間隔というのでしょうか。それがどんどん短くなっていく、と言いますよね。「麻薬漬け」という言葉があるように、精神的に強い気持ちを持って乗り越えようと思っても、長く使用している人ほど身体的な反応がその後強く出て、「麻薬が欲しい」という気持ちに打ち勝つのが難しいのだと思います。

 また、麻薬はともかくとして、大麻は合法化してもいいのではないか……ということの根拠のひとつに、大麻を使用することが出来れば、麻薬に手を出す人や麻薬中毒になる人の数を減らすことが出来る、ということがあるそうなのですが、むしろその逆ではないか、とも言われているみたいで(^^;)

 つまり、わたし大麻もやったことありませんから、それがどんなものかというのはわからないにしても、大体麻薬に手を出す方というのは、最初は大麻などの軽いものから手を出しはじめて、その後、人生に何かつらいことがあった時に、大麻では間に合わなくて、もっと強い作用のあるもの……麻薬に手を出すようになるという、アメリカなどではそうしたパターンが多いと聞いたことがあります。

 また、ニューヨークのティーンエイジャーの方で、小学生くらいの頃から麻薬に手を出しはじめて、その後更生するのにとても苦労したという少年が、小学生くらいの子供たちに「ワルを気取って俺みたいになるんじゃないぞ」と話す場面を見たことがありますが、最初は軽い好奇心や、友人に対する見栄ではじめたことが、最後には取り返しのつかないことになる――ということも、一応最後に書いておきたいと思います。。。

 いえ、個人的に大麻も、その他どのようなドラッグにも反対ではあるのですが、麻薬中毒患者の方には寛容であるべきだ……なんていうふうに書くと、「じゃあおまえは大麻にも麻薬についても賛成派なんだな」的に思われるといけないなと思ったので(^^;)

 ただ、クリスチャンの方で以前まで中毒だったアルコールを絶った、麻薬を絶った方というのは、聖霊さまの力によってそう出来た――といったようにお証する方は多いですし、またアメリカなどの場合、一度更生した方についてはとても寛容と言いますか、日本に比べてそうした土壌が物凄くあると思うんですよね。麻薬更生プログラムといったことについても、日本よりも進んでいるような印象が強いというか。

 でも、日本の場合は、麻薬に限らず、不倫などもそうかもしれませんが、一度罪を犯した人間は底辺に落ちるまで徹底的に叩きのめすというか、最近はそうした向きが強いような気がするので……「そんなふうに人を裁いてる人も、結局はそれに相応するか近いような何かというのは、詳しく調べたら必ずでてくるんだろうになあ」みたいにも思うのです(^^;)

 なんにしても、田代まさしさんが、今も実は麻薬をまたやりたいという状態でも、何かのことで生き甲斐があり、幸福な気持ちを味わえる時間のようなものが長く存在しているような、そうした環境を再び見出せるようになれるよう、心から願っています

 それではまた~!!





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