神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

わたしがキリスト教について知りたかったこと。

2024年11月30日 | キリスト教

 

 実をいうとわたし、もともとは「キリスト教について詳しくはなりたいが、キリスト教徒になるつもりはまったくない」といったタイプの人間でした

 

 キリスト教にも仏教にもイスラム教にも詳しくなかった十代の頃から、世界三大宗教と呼ばれるこの三つのうち、そのどれかが「本当に本物の神」であったとするならば、今ごろはその神さまだけが「本当に本物の神」であるとして、誰もが認めているはずだと、そう思っていたからなのです。。。

 

 つまり、自分も家族も親戚その他まわりがほとんどみんな葬式仏教徒だったため(そして極たま~にエ○バの方や某学会の方がいらっしゃるという、何かそんな感じ)、仏教の教えについて有難いと感じたり、仏教に関連した行事を守ることは大好きでしたが(お墓参りやお寺へ参内する、お坊さんがお経を唱えるのを聞くのが好きなど)、仏教と神道の違いについてもまったくわかっておらず、母の病気のことで神棚に手を合わせて祈ってみたりと、何かそんな感じだったと思います。

 

 ゆえに、自分がキリスト教国に生まれていたらおそらく熱心な傾向にある信者であった可能性があり、イスラム教国圏に生まれていたら、おそらく今ごろ腹に爆弾を巻いていた可能性もあるなあと、特に後者については爆弾を巻いてなかったにせよ、パレスチナ問題については完全に反イスラエル主義だったろうなあ……と、そう思ったりするわけです。

 

 日本人がキリスト教徒になる、それもエ○バやモ○モン教徒でもなく、他の正統的な(とキリスト教国で認められている)いずれかの教派のクリスチャンになる確率というのは、おそらくとても低いのではないかと思われます。でも、実際にわたしがイエスさまを信じる前にそうであったように――「キリスト教徒になるつもりはまったくないが、キリスト教については詳しくなりたい」という方は、かなりのところ多いと思うんですよね。

 

 実際のところ、かなりのところ詳しいという方もいらっしゃいますし、文学・歴史・哲学・絵画といった美術分野のことを学ばれている方の場合、「キリスト教のことを勉強しないと、それ以上学びが進まない」というのでしょうか。そこで聖書を読破し、キリスト教に関しての本を何冊も読み、むしろクリスチャンのほうがその知識量に驚かされる――というくらい詳しい方もいらっしゃるのではないかと思います

 

 わたし自身はそうしたある種、「学問タイプ」で詳しくなりたいというのではなく、おもに文学や絵画に関する趣味の範囲の興味から詳しくなりたかったわけですたとえば、宗教画などを見ていて「素晴らしい」と感じても、解説を読んでわかったような気はしても、本当のところはわからないというのでしょうか。また、わたし昔から(十代の頃から)日本語に翻訳された海外作家さんの本を読むのが大好きでしたすると、登場人物が聖書の言葉を引用していたりですとか、あるいは文章内に詩篇の言葉が出てくるですとか、一応(※)みたいな感じで、「マタイ伝七章~節からの引用」と書いてあったりはするわけですけど、その言葉の前後に書かれたことや本当の意味について知りたい……みたいなことがたくさんあったわけです。

 

 でも、こういう時たぶん、もし仮に図書館などで聖書を手に取り、そのマタイ伝の引用箇所を前後を含めた数章読んだとしても、「う゛~ん。なんかよくわかんにゃい」みたいになったりするのではないでしょうか。少なくともわたしはそうでしたし、かといって旧約聖書の創世記から順に読もうとしても、「なんでこれが神の言葉なわけ?」という感じで、どうしても途中で挫折してしまうわけです。

 

「神が七日で天地を創造した?」――まあ、とりあえず一旦そういうことにしておくか。「アダムとイヴから人類は増え広がった?」――人間は近親相姦で増え広がったってこと?なんか変じゃないそんなの……けどまあ、この問題も一旦置いておこう。ところがその後、字が小さく細かいせいもあるし、だんだん読むのが創世記のどこかでつらくなってくる……となると、「もうやーめた。キリスト教ってなんかよくわかんな~い」で話終わっちゃうんですよ(笑)。

 

 またわたし、以前テレビにて世界遺産に登録されているような教会で、大きな香炉が前後に揺れ、カトリックの神父さんや信者の方が集まっている場面というのを見たことがあったんですけど……わたしの場合ようするに、そうした壮麗な教会の片隅にいて、ただ神聖な宗教的気分に浸りたいであるとか、その香炉の由来であるとか、どんな香りがするのかその調合法について知りたいであるとか――大体、そんなことを経験したいといったことであって、「本当に本気でキリスト教徒になりたい」とか、そうしたことではまったくなかったわけです、もともとは。。。

 

 でも、今はわかります。キリスト教について「本当にわかる」ということは、それは信者になるということであり、教会でイエスさまのことを信じる信仰告白をし、聖霊さまを受けることが出来れば、聖書の理解その他についてもさくさく進み、教会と呼ばれる場所が必ずしも世界遺産に登録されるような壮麗な場所である必要はないこと、見せかけではない心からの祈りや賛美を、それが仮にどんな見すぼらしいような場所であれ、捧げることのほうがよほど大切なことなど……前にもどこかに書いた気はするものの、わたしが(キリスト教的な言い方をすれば^^;)「召された」ように感じたのは、図書館の聖書の解説書に挟まっていたある言葉だったりします。

 

 汝、聖書の言葉の美しさゆえに聖書を読む者を友とするなかれ。

 

 いやまー、ちょっと……どころでなく、かなりのところギクッ☆としました何分、キリスト教徒になるつもりはまったくないんだけれども、知識としてだけ詳しくなりたい――みたいなことだったわけですから。そして、そのために図書館でそんな本を借りて、一緒に当然聖書も借りて、自分なりに勉強してみよう……とか思ってたら、やはり前と同じくまったく歯が立たず、途方に暮れていたらその冊子の言葉が目に飛び込んできたわけです

 

 というわけで、「これは教会へ行かないとダメだ」ということで結論が出、ただわたし、小さな頃から祈るのが好きな子供だったので、この時珍しく久しぶりに祈ったりしたのです。「教会へ行ってみますが、もしそこが何か教えその他おかしなところだったら、わたしはもう二度とキリスト教の神は神でないとして、絶対信じません」みたいに。

 

 こうして、現在は「ザ・ライト・オブ・エターナル・アガペー教会」、当時はまだ「主の十字架クリスチャンセンター」と呼ばれていた教会へ行って救われました

 

 神さまの限りない愛と恵みと慈しみに、心から感謝します♪

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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