
【眠りと異母兄弟の死】ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
さて、人間の意識というものを今の科学技術で調べられるだけ調べてみた――といったことが、「意識はいつ生まれるのか」という本の中には書かれていると思うのですが、こうした科学的事実を前に、それでもなおわたしがイエス・キリストへの信仰をまったく変化なく保ち続けている、「まったく問題ないね☆
」という態度なのは何故なのか、最後にその答えについて書きたいと思います。
まず、人間の<意識>というものについてですが、生物の機能的な面からいうと、意識などというものはあるよりもないほうが生きるのにより単純で楽だ、というのはよく知られている事実だと思います。
もちろんそのかわり、人間にだけ特有の心の豊かさというものは失われるものの……人間以外の動物や動く生物というのは、ざっくり言ったとすれば、「食べることと生殖(自分のDNAを次世代に伝えること)」がその行動原理の多くを占めていると思います。
人間も働くのは自分や自分の家族が食べていくためであったり、自分の生命を次世代に伝えるということも、とても大切なこととして生きているとはいえ――他の動物や昆虫といった生物では、この部分がより本能的ですよね。もちろん、食べることのためにどんなに努力しても、いつでも必ず食べ物が見つかるとは限らない、番いになろうとメスに一生懸命アピールしたのに断られたり、あるいは機を逸するなどして自分のDNAを伝えられずに終わる……ということもあるというのは、動物のドキュメンタリー番組などで時折目にする場面と思います。
そして、人間も人間以外の動物も昆虫といった生物も――DNAに支配されており、昆虫などはDNAに組み込まれたほぼその通りに振るまっていると言っていいのではないでしょうか。また、人間以外の動物もそこから大体のところ大きく踏み外すことはないと思うんですよね。人間も、本人の自由意志よりもこのDNAに支配されている度合いが強いと聞いたことがありますが、「そういう部分もあるのだろうが、が、しかし……」という、この「が、しかし」のほうを支持する方のほうが、おそらくは多いだろうと思います(^^;)
他に、人間と他の動物や生物の違いとして、<社会性>ということがあると思うのですが、もちろんイルカやゾウやオオカミなど、他の動物たちにも彼らにとっての社会というのがあるにせよ、それは人間ほど複雑ではないと思うんですよね。
かといって、だから彼らは人間より劣っているというのではなく、わたしなどはこの人間に特有の社会性といったものを憎んでいるといっていいくらいですが(笑)、たとえば「あんなに一生懸命がんばったのに、メスとつがえなくて可哀想ね」とか、そういった感情をお互いの間で抱きあって格付けするとか、あるいはリスの社会でなら、冬に備えてあんなに蓄えがあるだなんて、あいつはこの森一番の金持ちだ……だのいう、そうした複雑な尺度によってお互いを計りあうであるとか、そういった種類の<意識>は持っていないわけですよ(^^;)
人生というものが、ただ食べることと飲むこと、また次世代にDNAを伝えることこそ人間の最重要課題だ――という本能だけで人間が生きるとしたら、究極、<意識>というものはいらないとも言えると思います。むしろ、<意識>というものがあって色々考えて決断するからこそ何かを決定してそれを行動に移すまでに時間がかかるわけですから、何を食べるか何を飲むか、どんな異性を選ぶかなど、人間が<意識>というものを持った時点で、「こういう可能性もあればああいう可能性もある、またこのような組み合わせも可能である」と想像する力を得たことで――思考を決定し、それを行動に移すまでには時間がかかるという意味で、生命体としては「効率」という観点から見た場合、これは間違いなくプラスではなくマイナスなはずなんですよね。
その点、人間そっくりのアンドロイドが今後誕生した場合、彼らの決定というのはまず迅速と思います。ただし、「人間らしさ」という機能をさらに加えて、選択に迷うしぐさを見せたりだとか、そんなことはあるかもしれませんけども、彼らの中ではある選択肢を並べてそこからどれを選ぶのが最善かという答えをだすまでに……人間のような「思考する」過程はないわけですから、とにかく時間的には人間よりも情報処理が速いはずと思います。
もちろん、こういうところに<神>という概念を持ちだされることに抵抗のある方は多いでしょうけれども、神さまは人間がそのような<意識>を持つ生きものであることを望まれたのだと思います。前回、石に意識はあるのかとか、昆虫はどうだとか、ユーレイというやつは肉体が滅んだにも関わらず、そこに宿っていた意識の残滓なのかとか、随分馬鹿げたことを書きましたけれども(笑)、でもそのくらい人間の<意識>といったものは驚異に満ちていてわけがわからない、ということに同意される方もいらっしゃると思います。
そして自分的に……神さまになら可能なのでないかと想定されることに、ある人の意識を取りあげて至高の世界(天国)を経験させることも出来れば、その反対の地獄へ突き落とすことも出来、実際に神がそのようなことをなさる、というのではなく――人間A(黒人)と人間B(白人)の意識を取り替えたりだとか、あるいは石や宝石などの鉱物にある特定の人の意識を閉じ込めるなど、神と呼ばれる全能の方がもしいるとしたのなら、それは出来ることなのではないか、というのがあると思います。
「意識はいつ生まれるのか」もそうですが、他の脳科学系の本なども読んでいて思うに……人間の脳が健全に働くためにはどうも、実際本当に神という存在がいるかどうかは別として、「神というものがいるかもしれないし、いないかもしれない」という仮定が絶対的に必要なのではないか、というのを感じます。
神という存在は、それはどの宗教の神と呼ばれるものでも、その実在というのは人間の<意識>と同じく、科学的に証明するのが不可能と思います。でも、人間の脳が健全に機能するためには、そうした全能の、この全宇宙や全世界を造った<神>という概念が、しかも絶対にいると証明することは出来ないというそのことが、非常に重要なのだと思うんですよね。
そして、神という事柄に関しては「信じている」、「いるともいないとも、どちらともいえない」、「信じていない・信じない」のいずれかの態度に分かれると思うのですが、ここからさらに個人的な答えとして、ひとりの「信じている」人間の答えについて書いてみたいと思います。
わたしの書くことに対して反証できる科学的事実などいくらもあるでしょうが、そんなことは個人的にどうでもよく――まず、わたしは「(イエス・キリストを信じている)あなたがたの生命はすでに、天国に移されているのです」という、キリスト教の教義を、真実なものとして信じています。言い換えるとしたらこれは、「あなたの名前はすでに天国の書物に書き記されている」、「だからそのことを喜びなさい」という聖書の言葉になると思いますが、事実、わたしは今この瞬間もそのことをとても喜んでいます。
わたしがイエス・キリストのことを信じたのは、「人間は死んだらどうなるのだろう」という不安のためではありませんでしたし、天国へ行けるというのも、信じた結果、そのように教えていただいた……といった形であって、「死んだら天国へ行けるというからイエス・キリストを信じよう」といったことではありませんでした。
ただ、長く信仰生活を送ってきて思うに、精神的・内在的な意味でとても豊かで幸福な世界を日々主によって味わわせていただいていると思います。イエスさまのことを信じて、信仰生活を歩みはじめたばかりの頃にはまだわからないことも多かったのですが――とにかく毎日祈っているうちに、ある時はっきりわかったことがありました。
このこともわたし個人は特段、こちらで祈れば祈るほど、死後に自分は立派な家に住めるとか、そうした意識はなかったのですが、ある時から「ああ、どうも城が建っているようだ」ということがわかりました。もちろん、その礎を据えたのはイエスさまであり、わたしが何をしたかというと、毎日どこかからうんしょ、うんしょ☆と石を運んでくるとか、何かそんな程度のことしかしてはいないのです。
その建物のためにあれこれ考えて設計図を引いたのはわたしではありませんし、運んできた石を「こんなのどうするんですか、神さま?
」と聞いたりしているわたしを見て、イエスさまも聖霊さまも、「まったく馬鹿だな、この子は」とお笑いになっていたことでしょう。
とにかく、わたしが毎日しているのは大体そんなことです。でも、ただ石を運んだたけで(自分に出来ることをしただけで)、次にはもうその石によって建物の礎は組まれ、いつの間にかどんどん建物は出来上がり、「このへんに出来れば窓が欲しいですだ
」とお願いしてもいないのに、ちょうどいいところに窓が嵌まっており、中のほうはまだ見させていただいていませんが、それは外観としては相当立派な建物であるように見えます。
わたしのほうでは「そろそろ中が見てえですだよ、神さま」と言うでもなく、今は外の庭のあたりを整備しています。というのも、雑草がよく生えるもので、しょっちゅう引き抜かなくてはならないんですよね。でも、自分では大体のところ――「ここまで来れば大丈夫
」という、死後の輪郭を見させていただいていることで、とても安心なのです。
もちろん、自分が実際に死ぬという時、そんなことも忘れて色々ジタバタ☆するのかもしれませんが、個人的にはそうした種類の<意識の消滅問題>についてはほとんど悩んでいないといっていいと思います。
わたしが思うに<死>というのは、大きな意識の転換点のことではないかという気がしています。もしその時点でわたしたちの意識というものが消滅し、無の世界へ帰するというのであればむしろそれは幸福で、もしそうではなく、キリスト教の教義が教えるとおり、わたしたちの死後もわたしたちの意識というのは存続する、とした場合――たとえば、祈りの石しか通貨として意味をなさないとか、真実の愛や真心といったものしか価値がないといった世界、生前は目に見えなくて、でもそうしたものが一番大切だよと言われたものしか意味をなさない世界があったとして……今の肉体を持った存在として、そのような世界に住みたいと感じる方はあまりいらっしゃらないのではないでしょうか。
けれど、いつか意識だけの存在になったとしたら、それ以外の世界はすべて地獄だということがわかると思います。そして、神さま、イエスさまというのは、その最善の世界へ来るようにと招いてくださる方なわけですけど――悲しいことですが、そうした意識のパラダイムシフトを経験したらどうするのか、ということは、あまり「本当にあること」としてはこの世ではそう論議されない傾向にあるような気がします(^^;)
まあ、わたし個人がいくら「神は霊であり、わたしはそのことを聖霊さまによって確信している」的なことを書いても、受け容れられない方にとっては結局わからないというか、理解できない問題として留まるわけです。
それでも、科学的にも答えは出ないにしても、「人間の<意識>とは何か、そして<死>とは?」ということに関して、「あなたの答えはそうでも、わたしはこう思う」など、色々と考える一助にでもしていただけたらと、そんなふうに思います
では、まだもう少し補足したいことがあったりするので(汗)、次回もまたこうした事柄に関連したことを書いてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
さて、人間の意識というものを今の科学技術で調べられるだけ調べてみた――といったことが、「意識はいつ生まれるのか」という本の中には書かれていると思うのですが、こうした科学的事実を前に、それでもなおわたしがイエス・キリストへの信仰をまったく変化なく保ち続けている、「まったく問題ないね☆

まず、人間の<意識>というものについてですが、生物の機能的な面からいうと、意識などというものはあるよりもないほうが生きるのにより単純で楽だ、というのはよく知られている事実だと思います。
もちろんそのかわり、人間にだけ特有の心の豊かさというものは失われるものの……人間以外の動物や動く生物というのは、ざっくり言ったとすれば、「食べることと生殖(自分のDNAを次世代に伝えること)」がその行動原理の多くを占めていると思います。
人間も働くのは自分や自分の家族が食べていくためであったり、自分の生命を次世代に伝えるということも、とても大切なこととして生きているとはいえ――他の動物や昆虫といった生物では、この部分がより本能的ですよね。もちろん、食べることのためにどんなに努力しても、いつでも必ず食べ物が見つかるとは限らない、番いになろうとメスに一生懸命アピールしたのに断られたり、あるいは機を逸するなどして自分のDNAを伝えられずに終わる……ということもあるというのは、動物のドキュメンタリー番組などで時折目にする場面と思います。
そして、人間も人間以外の動物も昆虫といった生物も――DNAに支配されており、昆虫などはDNAに組み込まれたほぼその通りに振るまっていると言っていいのではないでしょうか。また、人間以外の動物もそこから大体のところ大きく踏み外すことはないと思うんですよね。人間も、本人の自由意志よりもこのDNAに支配されている度合いが強いと聞いたことがありますが、「そういう部分もあるのだろうが、が、しかし……」という、この「が、しかし」のほうを支持する方のほうが、おそらくは多いだろうと思います(^^;)
他に、人間と他の動物や生物の違いとして、<社会性>ということがあると思うのですが、もちろんイルカやゾウやオオカミなど、他の動物たちにも彼らにとっての社会というのがあるにせよ、それは人間ほど複雑ではないと思うんですよね。
かといって、だから彼らは人間より劣っているというのではなく、わたしなどはこの人間に特有の社会性といったものを憎んでいるといっていいくらいですが(笑)、たとえば「あんなに一生懸命がんばったのに、メスとつがえなくて可哀想ね」とか、そういった感情をお互いの間で抱きあって格付けするとか、あるいはリスの社会でなら、冬に備えてあんなに蓄えがあるだなんて、あいつはこの森一番の金持ちだ……だのいう、そうした複雑な尺度によってお互いを計りあうであるとか、そういった種類の<意識>は持っていないわけですよ(^^;)
人生というものが、ただ食べることと飲むこと、また次世代にDNAを伝えることこそ人間の最重要課題だ――という本能だけで人間が生きるとしたら、究極、<意識>というものはいらないとも言えると思います。むしろ、<意識>というものがあって色々考えて決断するからこそ何かを決定してそれを行動に移すまでに時間がかかるわけですから、何を食べるか何を飲むか、どんな異性を選ぶかなど、人間が<意識>というものを持った時点で、「こういう可能性もあればああいう可能性もある、またこのような組み合わせも可能である」と想像する力を得たことで――思考を決定し、それを行動に移すまでには時間がかかるという意味で、生命体としては「効率」という観点から見た場合、これは間違いなくプラスではなくマイナスなはずなんですよね。
その点、人間そっくりのアンドロイドが今後誕生した場合、彼らの決定というのはまず迅速と思います。ただし、「人間らしさ」という機能をさらに加えて、選択に迷うしぐさを見せたりだとか、そんなことはあるかもしれませんけども、彼らの中ではある選択肢を並べてそこからどれを選ぶのが最善かという答えをだすまでに……人間のような「思考する」過程はないわけですから、とにかく時間的には人間よりも情報処理が速いはずと思います。
もちろん、こういうところに<神>という概念を持ちだされることに抵抗のある方は多いでしょうけれども、神さまは人間がそのような<意識>を持つ生きものであることを望まれたのだと思います。前回、石に意識はあるのかとか、昆虫はどうだとか、ユーレイというやつは肉体が滅んだにも関わらず、そこに宿っていた意識の残滓なのかとか、随分馬鹿げたことを書きましたけれども(笑)、でもそのくらい人間の<意識>といったものは驚異に満ちていてわけがわからない、ということに同意される方もいらっしゃると思います。
そして自分的に……神さまになら可能なのでないかと想定されることに、ある人の意識を取りあげて至高の世界(天国)を経験させることも出来れば、その反対の地獄へ突き落とすことも出来、実際に神がそのようなことをなさる、というのではなく――人間A(黒人)と人間B(白人)の意識を取り替えたりだとか、あるいは石や宝石などの鉱物にある特定の人の意識を閉じ込めるなど、神と呼ばれる全能の方がもしいるとしたのなら、それは出来ることなのではないか、というのがあると思います。
「意識はいつ生まれるのか」もそうですが、他の脳科学系の本なども読んでいて思うに……人間の脳が健全に働くためにはどうも、実際本当に神という存在がいるかどうかは別として、「神というものがいるかもしれないし、いないかもしれない」という仮定が絶対的に必要なのではないか、というのを感じます。
神という存在は、それはどの宗教の神と呼ばれるものでも、その実在というのは人間の<意識>と同じく、科学的に証明するのが不可能と思います。でも、人間の脳が健全に機能するためには、そうした全能の、この全宇宙や全世界を造った<神>という概念が、しかも絶対にいると証明することは出来ないというそのことが、非常に重要なのだと思うんですよね。
そして、神という事柄に関しては「信じている」、「いるともいないとも、どちらともいえない」、「信じていない・信じない」のいずれかの態度に分かれると思うのですが、ここからさらに個人的な答えとして、ひとりの「信じている」人間の答えについて書いてみたいと思います。
わたしの書くことに対して反証できる科学的事実などいくらもあるでしょうが、そんなことは個人的にどうでもよく――まず、わたしは「(イエス・キリストを信じている)あなたがたの生命はすでに、天国に移されているのです」という、キリスト教の教義を、真実なものとして信じています。言い換えるとしたらこれは、「あなたの名前はすでに天国の書物に書き記されている」、「だからそのことを喜びなさい」という聖書の言葉になると思いますが、事実、わたしは今この瞬間もそのことをとても喜んでいます。
わたしがイエス・キリストのことを信じたのは、「人間は死んだらどうなるのだろう」という不安のためではありませんでしたし、天国へ行けるというのも、信じた結果、そのように教えていただいた……といった形であって、「死んだら天国へ行けるというからイエス・キリストを信じよう」といったことではありませんでした。
ただ、長く信仰生活を送ってきて思うに、精神的・内在的な意味でとても豊かで幸福な世界を日々主によって味わわせていただいていると思います。イエスさまのことを信じて、信仰生活を歩みはじめたばかりの頃にはまだわからないことも多かったのですが――とにかく毎日祈っているうちに、ある時はっきりわかったことがありました。
このこともわたし個人は特段、こちらで祈れば祈るほど、死後に自分は立派な家に住めるとか、そうした意識はなかったのですが、ある時から「ああ、どうも城が建っているようだ」ということがわかりました。もちろん、その礎を据えたのはイエスさまであり、わたしが何をしたかというと、毎日どこかからうんしょ、うんしょ☆と石を運んでくるとか、何かそんな程度のことしかしてはいないのです。
その建物のためにあれこれ考えて設計図を引いたのはわたしではありませんし、運んできた石を「こんなのどうするんですか、神さま?

とにかく、わたしが毎日しているのは大体そんなことです。でも、ただ石を運んだたけで(自分に出来ることをしただけで)、次にはもうその石によって建物の礎は組まれ、いつの間にかどんどん建物は出来上がり、「このへんに出来れば窓が欲しいですだ

わたしのほうでは「そろそろ中が見てえですだよ、神さま」と言うでもなく、今は外の庭のあたりを整備しています。というのも、雑草がよく生えるもので、しょっちゅう引き抜かなくてはならないんですよね。でも、自分では大体のところ――「ここまで来れば大丈夫

もちろん、自分が実際に死ぬという時、そんなことも忘れて色々ジタバタ☆するのかもしれませんが、個人的にはそうした種類の<意識の消滅問題>についてはほとんど悩んでいないといっていいと思います。
わたしが思うに<死>というのは、大きな意識の転換点のことではないかという気がしています。もしその時点でわたしたちの意識というものが消滅し、無の世界へ帰するというのであればむしろそれは幸福で、もしそうではなく、キリスト教の教義が教えるとおり、わたしたちの死後もわたしたちの意識というのは存続する、とした場合――たとえば、祈りの石しか通貨として意味をなさないとか、真実の愛や真心といったものしか価値がないといった世界、生前は目に見えなくて、でもそうしたものが一番大切だよと言われたものしか意味をなさない世界があったとして……今の肉体を持った存在として、そのような世界に住みたいと感じる方はあまりいらっしゃらないのではないでしょうか。
けれど、いつか意識だけの存在になったとしたら、それ以外の世界はすべて地獄だということがわかると思います。そして、神さま、イエスさまというのは、その最善の世界へ来るようにと招いてくださる方なわけですけど――悲しいことですが、そうした意識のパラダイムシフトを経験したらどうするのか、ということは、あまり「本当にあること」としてはこの世ではそう論議されない傾向にあるような気がします(^^;)
まあ、わたし個人がいくら「神は霊であり、わたしはそのことを聖霊さまによって確信している」的なことを書いても、受け容れられない方にとっては結局わからないというか、理解できない問題として留まるわけです。
それでも、科学的にも答えは出ないにしても、「人間の<意識>とは何か、そして<死>とは?」ということに関して、「あなたの答えはそうでも、わたしはこう思う」など、色々と考える一助にでもしていただけたらと、そんなふうに思います

では、まだもう少し補足したいことがあったりするので(汗)、次回もまたこうした事柄に関連したことを書いてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!

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