神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神のみぞ知る。-【補足~霊魂の城~】-

2019年09月07日 | キリスト教
【ピレネの城】ルネ・マグリット

 先にお書きしましたMさんのことなのですが……あのお話のどこが恐ろしいかというと、二十四時間看護をうたっている病院に入院する時、当の患者さんや患者さん家族は当然、それが真夜中であろうとなんであろうと、<何かちょっとでも異変があったら、病院というところは最善を尽くしてくれるはずだ>という信頼の元に入院しているにも関わらず、実際はそうでないというところだと思います(^^;)

 わたし自身もその時はわかりませんでしたが、「自分が自分でなくなっていくのがわかる」というのは、実は<死>そのものを目の前にした人間の、断末魔の叫びにも等しいものでなかったか……という、今にして思うと「そのような人を何もせずに放っておいた」ということに対し、なんとも言えない恐ろしさを感じた、ということなんですよね。

「何もしなかった」と言っても、今となってはわたしもかなり記憶あやふやですが、看護師さんたちは睡眠薬や鎮静剤のような薬をMさんに飲ませていたのではないかと思いますし、わたしにしても慰めの言葉というか、何かそういった種類の言葉をかけるといったことは相当しました。

 でも、わかりますよね?わたしが当のMさんだったらその時思うのは、「わたしが欲しいのはそんなもんじゃねぇんだよォっ。いいから早く医者を呼べェっ!!」ということだというのは。またその後、「どうしてこんなふうになる前に私(医者)を呼ばなかったんだ」といったことがあったかどうかというのもわかりません。。。

 ただ、前々回書きましたとおり、かといって看護師さんたちのことを責められないというのがどうしてもあるんですよね(^^;)もちろん科にもよるとは思いますが、とりあえず脳外科における看護師さんの仕事というのは「よくこんなことやってるな」、「むしろ、医療ミスが起きないのが不思議なくらいなところがある」、と傍から見ていてもよくわかる種類のものでしたから。

 なので、これも【3】のところで書きましたとおり、手術後に尿導カテーテルを抜いてもらえないのが、仮に患者さんの不快を訴える叫びよりも、そのほうが術後コントロールがしやすくて楽だからという医療者側の事情が上にくるものであったとしても……なんと言いますか、自分が当の患者さんでなく、看護師さんなどの立場に一度立ってしまえば、「そのくらい我慢してください」ってどうしてもなっちゃうと思うんですよね(^^;)

 ですから、色々なことを含めてすごく大変なのに、横からなんの資格も持っていない人間が「いや、あの時看護師さんはあーすべきだった」的なことは絶対に言えないという部分があるというか。それでも人の命が懸かっていたという意味では、わたしも「明らかにMさんの状態はおかしいじゃないですか。こんな時に医者が来ないだなんて、なんのための24時間看護なんですか。看板に偽りありじゃないですか」――みたいに言うべきだったのだ、ということにはなると思っていて。。。

 でも、そうした種類の「人間関係的な空気を読んだがゆえに起きた医療事故」or「ヒヤリーハット事例」っていうのは実際結構あるんじゃないかなと思ったりします(^^;)

 たとえば、看護師さん同士の意思伝達にしてもそうだなって見ていて思うことがありました。仲のいい看護師さんに申し送りする時には、理想的なくらい事細かに伝えるのに対し、これが気に入らない、自分があまり好きじゃない看護師さん相手だと、情報として必要最低限のことを事務的に伝えるだけになるとか……こういった種類のこと(伝達不足)によって医療ミスかそれに近いことが起きた場合、報告書的なものにはこうした裏の事情といったことまで書かれることはまずない、というか。

 話のほうが本題から少し逸れてしまいましたが、その後ターミナルと呼ばれる状態になってしまったMさん。でも、「意識がまるでなくなってしまった」ような状態のMさんの脳細胞の駄目になってしまったところを、再生医療の技術によって甦らせることが出来ると仮定した場合――Mさんはもしかして、あの状態からでも意識を取り戻すことが出来たのではないか……と、「意識はいつ生まれるのか」という本を読んでいてふと思ったのです(^^;)

 ここからはさらに仮定の話、といっても、実際にアメリカなどではそうしたことが現実に起きているらしいのですが、自分の死後の体を冷凍保存して、死の原因となった病気を治す技術が誕生したら甦らせてもらうという話を、聞いたことのある方は多いと思います。

 その、再生医療というのが今後どのくらいかかるかはわからないにしても、いつかは最大限に発達する段階というのがやって来ると思うんですよね。つまり、こうしたことを「仮に」という設定でも、Mさんのことを例にとって書くのは、何か死者に対する冒瀆という気もするのですけど(ごめんなさい、Mさん)……Mさんがターミナルと呼ばれる状態になった時、彼女の体を冷凍保存しておいて、今後一度死んだら甦らないとされてきた脳細胞ですらも甦る技術が誕生した時に――その再生医療の技術によってMさんは元の通り医学的な意味で元気になられるのかどうか。

 もちろん、元はあった左半身麻痺がなくなった体で甦ることが出来てさえ……Mさんはこうおっしゃるかもしれません。「あのまま死なせておいてくれたら良かったのに」と。

 でも本当にわからないですよね。最初はそう思っていたのに、そうした種類の無料による生活支援を受けて、現代を生きてみはじめた時――自分の曾孫や玄孫の顔まで見ることが出来、彼らにも大切にしてもらって、昔は考えてもみなかった未来を生きはじめてみると、また新しく友達も出来たりして、「最初はつらいと思ったけど、慣れてくると人生が昔以上に楽しくなった」ということだって、ありえるかもしれないのですから(^^;)

 それで、ですね。これはあくまでわたし個人の死生観ですが、わたし自身は自然に死を迎えたとしたら、そのあとは死んだままにしておいてほしい、と思っています。そして、わたしが書いてきたことにはちょっと矛盾があるのですが……それは、植物状態の方などが、一度死んだ脳細胞の復活などによって元の意識を取り戻すというのなら、わたしが昔書いた「はるかな国の兄弟」の、意識だけナンギヤラやナンギリマに行っているのではないか説は否定されるということになる、ということです。

 わたしも、「意識はいつ生まれるのか」を読んでいて、「うーむ。そういうことになるのかな……」と最初は思ったのですが、結局そうはなりませんでした(^^;)

 ――何故か。

 前回、わたしが「どうやら城が建っているようだ」と書いたことで、「あなたの信仰は、そんな堅固な城が建つくらい立派ってことですか」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、これはそうした話ではないのです。

 わたしも最初はてっきり、死んだあとに自分があのお城に住むのかな……くらいの、漠然としたイメージだったのですが、ああしてある程度城やそのまわりの庭などの整備が住むと、「さて、そろそろ移動しよう」といったようにイエスさまは言われるのです。

 まあ、最初に思うのは「えっ!?」っていうことですよね。だって、もうそこまでいい建物が建ってるのに、また最初の荒野の開墾からはじめてとか、正直、「冗談じゃねえや☆」という話。。。

 でも、マーリン・キャロザース先生の「(神さまへの)感謝と賛美」を実践されている方ならおわかりのことと思いますが、何が起きようとも、最初は意味がまるでわからなくとも、こうした神さまの御指示には従うべきだということが(^^;)

 そして、わたしにしても、びっくりしたり、ブツブツ☆文句言ったりしたのは最初の時くらいではなかったかと思います。何故かというと、そんなふうに一から荒野を開墾して城を建て、また別に移る……ということには、意味があるからなのです。

 そうした城の中には、わたしではなく、別の人の霊魂が住むらしい、ということが今はわかっていますし、そうした事柄を通してわたし自身は「自分が祈っていたことは無駄でなかった」ということを主に教えていただいたということなのです。

 日本は日曜に礼拝にきちんと通うクリスチャンの率というのが、全人口の大体0.2%くらいだ……というのを以前聞いたことがありますが、そうなると、日本に住むクリスチャンの方が祈る対象というのは、大体がノンクリスチャンのことに対して、ということになると思います。

 キリスト教の教義では、今生きている間にもしイエスさまのことを信じなかったとすれば……死後に救われる機会はないし、そして生前信じなかった魂は、地獄へ行くことになる――と言われています。

 このことについては、ノンクリスチャンの多くの方が「そんな変なことを言う神は神じゃない」と反発を覚えるところだと思うのですが、神さまというのは結局、この全宇宙、地球のすべて、その他すべての存在を造る源となった方ですから、そのような方というのは「自分のものを好きにできる」という権利と権威をお持ちなのです。

 そして、正直なところをいって、わたしは自分の祈ってることのうちの多くが、キリスト教の教義にのっとったとすれば、虚しく無意味で不毛なところが大きいと思っています。

 というのも、たとえば北朝鮮は、イエスさまのことを伝えられることのない、霊的暗黒の地と呼ばれたりするわけですけれども、自分的にはその北朝鮮の隅々にまでイエスさまの福音の光が届いて、北朝鮮の人々がみな、イエスさまのことを信じますようにとか、そうしたことを祈ったりしているわけですから(ちなみに、この救霊の祈りについては、日本より韓国の方のほうがより熱く熱心に祈られていることと思います)。

 その他、どこかで人が死んだと聞けば、その方が天国へ行けますようにと祈るにしても、日本の人口比率的に、キリスト教徒というのは0.2%なわけですから、そのうちの多くの方はノンクリスチャンということになるわけですよね。

 でも、東日本大震災などの大きな自然災害が起きた時や、あるいは身近な人でどなたかが自殺した、といった話を聞いた場合でも……やはりその方のためにイエスさまに祈っています。

 それは表面的で偽善的な祈りかと言えばそんなこともなく(主はご存知です)、キリスト教の教義とは相反するとわかってはいても、「それでも祈らずにはいられない」といった種類のものなのです。

「結局、今ここでわたしがどんなに祈ったとしても、あの方は生きている間にイエスさまを信じなかったわけだから、死後に望みはない」とか、「自殺者の魂は天国へ行けないんだよ」と思うでもなく、とにかくそれでも「神さまの御心にかなうのでしたら、お救いください」と祈るわけです。

 そうした意味で、日本でキリスト教徒でいる、クリスチャンでいるというのは、よく考えるとちょっと(かなり?)恐ろしい部分があるなと思ったりします。何故かというと、教会のために祈るとか、教会員の方のどなたかの体の不調のために一致して祈るといった場合は別として――普段の個人的な祈りの大半が、おおよそ教義には反したことについてや、「え?そんなことほんとに起きるもんかいなww」といったことについて、いつまでも執拗に祈っていなくてはならないわけですから。

 おそらく、「アフリカの難民の方のために祈る」と聞いた場合、多くの方はそうした祈りは長続きしないか、実際にその地へ行って直接援助する行為を行わない限りは、どこか偽善的だと感じられることでしょう。けれどもその方が一時的でなく継続的に何年もそうしたことについて祈り続けるなら、その方の祈りというのは天に届いていないということはないだろうと個人的には思います。

 もちろん、「そこまで偽善的に自分の心を騙すのがうまいのだろう」と言う方もあるかもしれませんが、わたしも最初はそうした種類のことを少し考えました。でも、ある時思ったんですよね。マザー・テレサも、お金や物といったことならどうにかなる。それよりも祈ってくださいとおっしゃっていたと思いますが、祈りつつ寄付するということには大きな力があると思いますし、わたしが祈ったことである貧しい家庭が突然金持ちになることはないかもしれない。それでも――聖書に書いてある「収支をつぐなってあまりある祝福」によって、神さまがある家庭を包むということはあるだろう……そう考えると、祈っていることに意味がないということは絶対的にないなと思うようになりました。

 そして、わたしが祈ることによって、霊魂の城がすでにいくつか建ちました。そこに一体死後に誰が住むのか、あるいは今現在すでに住んでいるのか、わたしは知りませんし、死んだあとにようやく知ることが出来るのでしょうが、個人的に――「地上の教義的なことで言えば、天国には入れないはずの方々」の誰かがいるか、これから住む予定なのではないかという可能性があると思っています(何故といって、わたしが祈っていることの大半が大体そうしたことなのですから)。

 こうしたことに関しては、キリスト教の教義と照らし合わせると、「それは異端の考え方だよ☆」とみなされるかもしれませんので、わたしはこのことを教会で話そうといったようには考えませんが、「あなたの祈っていることには意味がある」とイエスさまが知らせてくださったことについて、とても感謝しているのです。

 そして、今のところは誰が住むことになるのかわかりませんが、とにかくまたひとつ霊魂の城が出来て次に移るという時には……今はもう喜びしかないと言っていいと思います。再び一から荒野を開墾して、といったところからはじめるにしても、設計図を引いたりなんだり、難しいことについてはイエスさまが受け持ってくださるのですし、何もわたしが一から百まで石を削って積み上げるだのいうことをしているわけでもなんでもないのですから。

 ここまでやって来ると、霊的な意味では大分肩の荷が下りて楽になったように思いますし、イエスさまが大工である聖ヨセフを父として持っておられ、また、わたしたちが住むべき住まいを先に用意してくださる方であることに、思い至られる方も多いでしょう。

 神さまが人間のために、何故ここまでよくしてくださるのかはわからないほどですが、人間的な言い方をすれば、わたしたちは死後にしかこうしたことの答え合わせをすることが出来ないというのが問題なのだと思います(わたしは問題とは思いませんが、この世の科学者と呼ばれる方であればそう言うだろうという意味です)。

 人間の意識の問題もそれと同じで、大脳のあのぬめっとした灰色っぽいような物質に、<意識>という非物質的なものが宿っている、それは間違いのないことなのに……ここまで科学が発達しても、その「接着面」のようなものを人間は目で見るということは決して出来ないわけです。

 そしてわたし個人は、「それを見、また触り、好きなように出来る方は神さまだけだ」といったように考えているという、そうしたことなのです。このことが、人間の<意識>というものについて、科学的にここまでのことがわかっているということを前にしても――わたしがなんの問題も一切感じることなく、イエス・キリストの十字架を信じていられる理由といっていいと思います。

 また、植物状態の方の意識についてですが、わたしだって毎日、祈っている間、あるいは寝ているような間は、<向こう>へ行っているわけですよ。そう考えた場合、再生医療によって壊死した脳細胞を新しくすることが出来、そのことによって重度の植物状態の方がこちらへ甦ってきたとしても――わたしはこのことにそう矛盾を感じないというか、ゆえにやはり死後は<永遠の無>なのである……といったようにはまったく感じません。

 わたしが今後、何かの不幸な事故によってそうした状態になってしまい、「あの人は毎日神に祈ってるとか言ってたのに、このザマはどうだろう」と人が言ってさえ、それは他のクリスチャンの方が信仰を捨てる理由にさえならないと思います。

 何故なら、その時のわたしの意識の状態というのは、腰に何か一本細い糸がついていて、霊魂の城にいるような状態なのでしょうし、健康な状態の時というのはその腰紐がもっと太くてしっかりした状態なのだと言っていいのではないでしょうか。

 そして、わたしが霊魂の城ですることといえば、前と変わらず同じでしょう。そしていつか、地上で仮に三十年が過ぎてようやくわたしの肉体が死に、腰から細い糸が知らない間に切れていても、もしかしたら大して気にも留めないか、あるいは気づきさえしない可能性もあると思います。

 もちろん、こんなふうに書いてしまえば、今現在植物状態の方の介護をしている方が、奇跡が起きて戻ってきて欲しいと思っている願いを否定しているように思われるといけませんので、あくまでこのことは「そうした可能性もある」、また、科学的にはこうしたことは証明できないことなわけですから、そう深くお考えになる必要はないといったようにお受けとめください(^^;)

 それではまた~!!





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