
>>人の心は何よりも陰険で、
それは直らない。
だれが、それを知ることができよう。
わたし、主が心を探り、思いを調べ、
それぞれの生き方により、
行ないの結ぶ実によって報いる。
(エレミヤ書、第17章9~10節)
>>見よ。あなたがたは無に等しい。
あなたがたのわざはむなしい。
あなたがたを選んだことは忌まわしい。
(イザヤ書、第41章24節)
>>私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値いするものです。私はその罪人のかしらです。
(テモテへの手紙第一、第1章13~15節)
忌まわしい子らを神は愛される……タイトルだけ見ると、「どゆこと?

いえ、他の方のことはまったく関係ないのです。ただ、自分のことに関して言うとすれば……聖パウロが自分のことを「罪人のかしら」と言っているように、ほんと、自分に関しては忌まわしい子の代表なんじゃないかと思う、というそうした話です

この間、「人生は虚しく、無意味で無価値」という言葉が心にやって来て、「う゛~ん。どういうことかな?

けれども、クリスチャンになった方には、「イエスさまと出会って、本当の意味で人生から虚しさが去っていった



わたし自身は、自分が充足した人生を生きていれば、自然と「むなしさ」というものは去っていくとクリスチャンになる前は思ってましたし、問題はその方向性に向かっていかに自分が努力するかだと思っていました。また、自分的には「ある程度満たされていて、幸せなはずなのに」、「それほど強い困難や問題、ストレスがあるわけでもないのに」、何かむなしい――みたいな場合でも、わたし自身の対処法は「まあ、一時的な気分障害でしょ


でも、人に聞くと――というより、友達や仕事の同僚の方などが話してくれたところによると、「人生がむなしい」、「神さまっているんだろうか」、「わたしの生きてる意味って何?」、「生きてることに意味なんてあるの?」、「死んだら人ってどうなるんだろう?」……みたいなことについては、割と小さい頃から「ふとした瞬間」に考えるって、ほとんどみんな共通らしいです(^^;)
わたしがそうした話を聞いたことのある方ってみんな、日本の平均的な葬式仏教徒ですから、やっぱり一時的にふとそんなふうに思っても、「まあ、神さまがいるかいないかなんて、いくら考えたってわかるわけでもないんだし」とか「今日明日、死にそうな病気にかかってるわけでもないんだし」、「生きてることに意味があるのかどうか考えるより、とりあえずお腹すいたからごはんでも食べよう


でも、人生の困難や問題が生きるか死ぬかの瀬戸際というくらい、深刻なものである時……もう、ほんとに考えますよね。そもそも、「何か美味しいもの食べよう


>>見よ。あなたがたは無に等しい。
あなたがたのわざはむなしい。
あなたがたを選んだことは忌まわしい。
(イザヤ書、第41章24節)
と、神さまは旧約聖書においてそうおっしゃっています。
でも、これでいくと思いますよね。「むなしいわざしか生まない、無に等しい忌まわしい者」を、神さまは何故この世界に誕生させたのだろう、と。
神さまは常に現在進行形の神であり、人間が<今>のような状態になる可能性もある――ということは予見しつつ、最終的に御自身の御子をこの世に遣わされる計画も、かなり早い段階で立てておられた……といったように聖書から読めると思うのですが、これでいくと神さまにも「計算外」ということがあるということなのか、との疑問が生じなくもありません。
この全宇宙や全世界を創造し、未来のすべてをも見通せるというのが、キリスト教の神と思うんですよね。最後の「未来のすべてを見通せる」というのは、聖書にそうした記述があるというより、聖書の行間を読むとすれば当然そうなるであろう――という、教理・教義的なことのように(自分的には)思うのですが、でもこれは、あくまで「人間の選択の可能性の問題」であって、だからそれで「未来がすでに完全にこうと決まっている」というのとは違うわけです。
たとえば、神さまの人間に対する贈り物のひとつとして「自由意思」ということがあると思います。つまり、地球上の人類すべてに与えられたその「(環境や生まれなどによって限られているにせよ)自由意思」に基づき、この地球上では「ありとあらゆることが起きる可能性がある」ということなわけです。そのあたり、神さまは「このままいったらひどいことが起きるにしても、人間の自由意思による選択の結果について止めはしない」というのでしょうか。
もちろん、その方がクリスチャンであり、日々真摯にイエスさまに祈っていたとすれば……聖霊さまを通して行くべき道を示されることは当然あると思います。でも、地上の独裁者の心を変えて、これからは国民のことを第一に考えるような正しい心を与えるとか、もちろん神さまにそうすることは簡単であるにも関わらず、そうした話っていうのはほぼ聞いたことがないですよね(聖書には、ネブカデネザルという王さまの話があったりはしますけども^^;)。
>>見よ。あなたがたは無に等しい。
あなたがたのわざはむなしい。
あなたがたを選んだことは忌まわしい。
(イザヤ書、第41章24節)
この前節には、
>>持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。
先にあった事は何であったのかを告げよ。
そうすれば、われわれはそれに心を留め、
また後の事どもを知ることができよう。
または、来たるべき事をわたしたちに聞かせよ。
後に起ころうとする事を告げよ。
そうすれば、われわれは、
あなたがたが神であることを知ろう。
良いことでも、悪いことでもしてみよ。
そうすれば、われわれは共に見て驚こう。
(イザヤ書、第41章22~23節)
とあります。
まあ、これはわたしのただの推論ですけれども、人間を創造した当初、神さまは人々が「もっと善い生き方をするだろう」と期待されていたのではないでしょうか。
ところが、人間が「自由意思」によって>>「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことにだけ傾く」のを見て――創世記の第6章には>>「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」とさえ書いてあったりします(^^;)
けれど、ご自身が造った存在のことを、神さまは完全に見捨てるということまではなさらず、その後もご自身の選びの民であるイスラエルの歴史に関与し、彼らが罪に罪を犯して本当にどうしようもなくなるまでは救おうとしようとされ続けた。そして、ここでもイスラエル以外にも地球上に民族はたくさんいたのに、何故神さまはそこにだけ特に強くはっきり関与したのかとの疑問があると思います(=このイスラエルの神と、他の国々の神々とで、一体どんな違いがあるというのか)。
ここもわたしが思うに、神さまに選ばれた民族はイスラエルじゃなくて他のどの民族でも、辿った道は同じだったと思うんですよね。そして結局のところ預言者を通した神さまの御声に聞き従えず、国は滅び、世界中にばらばらにされてしまうという……イスラエル民族(ユダヤ人)の人々でなくても、神さまがもし仮にヨーロッパのある特定の民族を選んでいたとしても、結果として起きたことは似たりよったりだったのではないかと思うわけです(^^;)
こうして神さまは、人間がご自身を信じるための「雛型」、あるいは単に「型」を形作られ、この基本の形(デフォルト)を信じる者は、その人がその前までどんな悪に加担し、悪いことをしている悪人であろうとも……イエス・キリストを信じて悔い改めるなら、その罪をなかったことにし、降ったばかりの白い雪のようにその人を清い者としてくださいます。
たとえば、人を殺すような悪いことをしていても、悔い改めるなら赦されるとか……その亡くなった方の遺族の方はどう思うのだろうとは、わたしも思います。けれど、信仰というのはあくまで神対その人という、あくまでも1:1の関係において論じられることであって、その遺族の方にとっては遺族の方にとっての神さまとの1:1の関係があって、そこには誰か他の人が口を差し挟める余地はないわけです。
確か、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だったでしょうか。今、本棚見たら上巻しかありませんでしたので(汗)、ちょっと正確に本文のほう確かめられないとはいえ……息子さんを犬のボルゾイに裂き殺されたお母さんがいて、到底そんなひどいやり方で自分の子供を殺されたら(それも、過失というのではなくわざとなんですよね、確か)、到底赦すことなんて出来るわけがない。でも、このお母さんがその相手を同じようにボルゾイで噛み殺されればいいと思い、同じ手法で復讐を果たそうとするのは間違いだということでした。もし、その殺した相手を裁けるとすれば、死んだ息子さん自身であって、あなたではない……でも、その息子さんはすでに亡くなっているのだから、どうするのが正しいのか、みたいな話(かなりのところうろ覚えでごめんなさい

今、広大な宇宙の海原を魂というか、精神体だけの存在になってさまよう主人公……みたいな小説を読んでるのですが、彼は自分がずっとそのままで、「これが自分にだけ特別にあつらえられた地獄」だったらどうしよう、みたいに語る箇所があるんですよね。それでわたし、そのあたり読んでてこう思ったわけです。これでいくと、人が死んで肉体を失った魂(精神体)になったとしたら、神さまが人を殺して悔い改めなかった人間のことを、宇宙にピンで虫を留めるみたいにさらし者にし……恥で赤く燃えているその人を、他の人たちがじっと眺める――なんていうことが、本当にあるのかもしれない……なんていうふうに(いえ、本当に優れた小説というのはたくさんの示唆を与えてくれるものです^^;)。
話が少し逸れてしまいましたが、聖パウロは、神さまの召命を受けてパウロになる前――まだ彼がサウロという名前だった頃、敬虔なユダヤ教徒として、イエス・キリストを信じる信者たちを迫害する者でした。それが、イエスさまから「サウロ、サウロ。何故わたしを迫害するのか」という呼びかけを受け……キリストが確かに神さまの御子であると知ってからは、180度すっかり態度が変わり、今度はイエス・キリストを熱心に宣べ伝える者となったのでした。
パウロは、以前は「神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者」だったけれども、「信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けた」と言っています。
わたしも、神さまにしてみれば、「忌まわしい子の代表」でも、それでもイエスさまのことを信じているがゆえに、悔い改めた罪については赦していただけます。本当に、パウロの言うとおり、>>「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値いするもの」です。そして、そのイエスさまの愛が満ちあふれるように祈ることのできる信仰というものもまた、そのような信仰を持てるというそのこと自体が「恵み」に他ならないのだと思います。
>>恵みは何もない空間を埋めるが、受け取れる隙間がある場合しか恵みは入れない。
そしてその隙間を作るのは恵みそのものである。
(シモーヌ・ヴェイユ)
それではまた~!!

P.S.『カラマーゾフの兄弟』について軽くググってみたところ、本文の訳を一部掲載されてる方がいらっしゃったので読んでみました。そしたら、ちょっと意味が違ってたんですよね

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