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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

どこまで苦しみ悩み傷つき、どこから苦しみ悩み傷つくべきでないか。

2021年05月08日 | キリスト教


 今回のタイトル、「どこまで苦しみ悩み傷つき、どこから苦しみ悩み傷つくべきでないか」については、おそらく人の誰しもが悩むことでないかと思います。

 先日、ネットで全然関係のないワードについて検索していたら、「ひきこもり死」という言葉が出てきて、一瞬ドキッ☆としました。そしたら、これは8050問題とも呼ばれていて、親御さんの世代が80歳くらい、そして息子(娘)さんが引きこもりになって何年にもなり、今大体50歳代くらい――という、このくらいの世代の方の間で、親御さんが生きておられる間は生活のほうはどうにかなった、でもお父さん・お母さんが亡くなり、年金なども途絶え、生活に行き詰まる……といった問題のこととお聞きしました。

 それで、ですね。引きこもりの方というのは、ただの「怠け」によって引きこもっているというイメージで捉えられがちな気がするのですが、その中で、「働けるだけ働いて、一生懸命がんばったけどダメだったから引きこもりになった」方というのも、物凄く多いと思います。

 わたし、前にゴミの回収をされている方の仕事を通りすがりに見て、一度びっくりしたことがありました。もう、まるでヤクザかというくらい、「オラァ!ちんたらやってんじゃねえ!!」、「もっと早くしろ!!」、「さっさとやれやあ!!」みたいに、ゴミ収集車に乗ってる方が、とにかくひたすら怒鳴り続けている。それも、中程度の恐怖心を感じる……くらいの怒鳴り方でなく、もう骨にしみいるくらいの物凄い怒鳴り声。「もしかして元暴力団員か?」というくらいの、聞いた人誰もが震えを感じるくらいの声色でした。

 もしわたしだったら、たぶん次の日にはやめてるな……と思ったくらいですが、こういう時、もしこの翌日にやめたと聞いたとしたら、「ゴミ収集の仕事って大変だものねえ。無理ないわよ」といったイメージを多くの方が持たれると思います。ところがですね、こういう種類の運が悪い人ってほんとにいるんですよ。次こそ長続きするよう頑張ろうと思って、今度は別の職場の違う仕事に就職したとしますよね。すると、そこにも常軌を逸したような鬼のような上司が存在していたとか……で、暫くの間耐えていたものの辞める。そしてまた次こそは……と思い、一生懸命就職活動して再就職するものの、なんとも言えない複雑な人間関係の職場で神経をすり減らす。でも、この方はがんばりました。「そうだ。これが世の中、社会で生きていくということなんだ」と自分に言い聞かせて本当にがんばった。でも、ある日体の調子が悪くなったり、精神のほうがやられて鬱病になったりして、退職することに――以降、働く気力が湧いてこず、引きこもりへ。。。

 もちろん、こう書いても、ある方は必ず言われます。「そのくらいの苦労、誰だって経験してるよ!」、「でもみんな、そういう色々を乗り越えてがんばって生きてるんじゃないか!」と……で、親御さんのほうでも思いますよね。鬱病と聞いたから、最初は仕方ないかと思ったけど、それがもう四年、五年となるにつれて――息子(娘)の将来がだんだん心配になってきた、みたいには当然。

 それで、不登校の子供さんも「どこまで苦しみ悩み傷つき、どこから苦しみ悩み傷つくべきでないか、もう自分にはわからない」と言うことがあると思いますし、こうした引きこもりの問題についても、同じことを思ってる方は多いと思います。

 たとえば、神さまのような人がいて、「おまえはここまで頑張れるはずだから、もう少し頑張れよ」と言うなら、もう少しがんばろうかとも思える。また、「これ以上がんばったらおまえ、ほんとに頭がおかしくなっちゃうよ。だから、もうこんな生活、やめたほうがいい」と言われたなら……「そうか。じゃあ僕も、これ以上は限界だと思ってたから、ほんとに肩の荷を下ろしていいんだ」と決断できる。

 でも、現実はやっぱりそうではありませんよね。特に若くて精神力・体力ともにある間は、「みんな同じような思いをしてがんばってるんだから」、「自分だけ怠けるなんて許されないんだ」……何かそんなふうに自分に言い聞かせて、限界を越えるくらい頑張ってしまいます。

 それで、体を壊すなり、あるいは何か精神的な病気などにかかったりしてからようやく――「がんばりすぎた結果がこれか」ということに気づくわけです。こうした場合、努力して何かになったかといえば、「いや、なんにもならなかった」という虚しさしか残らなかったとか、よくあると思うんですよね(わたしも経験があるのでよくわかります^^;)。

 また、今は大分時代の状況も変わったとは思いますが、わたしくらいの世代だと、まず不登校は許されないというか、親御さん自身も「もしそうなったら自分たちもどうしていいかわからない」というのがあって、とにかく二言目には「なんでもいいから学校いってくれ」的な感じだったと思います。それで、がんばって学校をどうにか卒業する……でも、就職して、それなりにいいところと呼ばれる企業などで働いていたとしても――人間関係その他で躓き、やめることになってしまう……などなど。

 こうした話って今、物凄く多いらしく、仮に学校生活でつまずかず、どうにかうまくバランスを取ってどこかの会社で働いたにしても、「自分もギリギリどうにかうまくやれてるというだけで、何かひとつ歯車がおかしくなったら、学校では不登校になっていたかもしれないし、社会生活に馴染めなくて引きこもりとか、今そうなっても全然おかしくないと思ってる」くらいの危うい意識を持ってる方もたくさんいます。


 また、これはわたしが勝手に名づけたものなんですけど、今は「ガンバル・アレルギー」の方も随時増加中……といった感じの時代のような気がします。小さい頃から学校を卒業するまで、みんな周囲に気を遣いつつ、微妙な空気を読み、不安や緊張に身をすり減らしつつ、どうにかこうにか卒業する。そして、社会人になって以降も、大体似たような緊張状態というのがつづくとしたら――まあ普通、なりますよね。「オレ/ワタシ、なんのために生きてるんだろう?」みたいな、虚ろな眼差しに……。

 つまり、「ガンバッテ・ガンバッテ・ガンバッタ」結果、これだけ疲弊しきっているというのに――再びまた、「もう少しだけガンバッタラ?」みたいな状況が出てくると、もう一切受け付けないということです(これがガンバル・アレルギー)。これは、当人がまたガンバロウと思っても、精神力でどうにか出来るといった領域のことではない……そういうことだと思うんですよね。

 その、わたしが見かけた記事ページにも書いてあったんですけど、「とにかく、生活のためにも働かないと……」みたいな意向のことを言われると、まずこうした引きこもりの方は心を開こうとしないということでした。ですから、まずは「働く云々」ということは一切口に出さず、その方が興味を持てそうな何かの集まりに行ってみてはどうかと勧めてみたり――そうしたところから社会復帰の糸口を掴む、ということだったと思います。

 ここはキリスト教について何か書くといったブログですが、「どこまで苦しみ悩み傷つき、どこから苦しみ悩み傷つくべきでないか」、わたしも神さまに聞いてみたり、祈ってみたりしたことはないかもしれません(^^;)

 でも、教会である種の解放を受ける方もいらっしゃいますし、精神病の病いからの解放、霊的な領域の縛りからの解放……と書いたりすると、何かあやしげに聞こえるかもしれませんが、このあたりは理由や理屈ではなく、神さま、イエスさまからの癒しというのは、突然フワッと来て、その日から何かが変わっていった――ということもありますから、自殺することをお考えになったりする前に、イエスさまの福音の言葉について知ってほしい……といったように、思ったりしました

 それではまた~!!






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