神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

もし、ただ毎年五千万円が入ってくるのだとしたら……。

2021年05月10日 | キリスト教


 前に、なんの本でだったのかは、例によって忘れてしまったんですけど……わたしの不確かな記憶によれば、大体年収として2千5百万円くらいだったでしょうか。そのくらいの収入があれば、あとは大体横倍的にその状態が続いていく見通しさえあるのであれば――年収が3千万円になるために、それ以上何か必死に努力するとか、そうした欲望は低くなるということでした。

 もちろん、年収として2千5百万円稼ぐというだけでも大変なことでないかと思うのですが、自分的にその文章を読んだ時に思ったのは「そんなものかなあ?」ということだったでしょうか(^^;)

 そして、ふと思ったのです。もしその倍の5千万円が特に働かずとも、ただ自動的に収入として一年に一度入ってくるとしたら……人間の欲望といったものは大体止まるのだろうか、なんて。。。

 いえ、これはただの低劣な思考実験みたいなものですが(笑)、もちろん、その5千万円が全人類ひとりにつき必ず一定の収入として毎年入ってくると仮定した場合――果たして犯罪はなくなるか、あるいは犯罪率は相当低くなると見ていいものなのでしょうか?

 自分的に、「それならそれで、たぶん別の問題が出てくるんだろうな~」と、何かそんな予感がするんですよね。というのも、人間の欲望には際限がないもので、常に自分の人生にプラスアルファを求めようとするっていうのでしょうか。隣人よりもより立派な家に住みたいですとか、理想のインテリアをすべて揃えるにはこれこれこれだけの金がかかる……などなど。その上、自分が十分持っているにも関わらず、誰かからさらに五千万、強奪してでも自分の資産を増やそうとする人だっているかもしれません。

 で、ですね。結局のところ何が言いたいかといいますと、わたしはクリスチャンになる前、神さまに関してこんなふうに考えていました。今、地球の人口って七十億以上って言いますから、この七十億もの人間すべてを、同時に幸福にする義務が神さまにはあると思ったのです。

 もし、神さまがこの人間なる生き物をこの地球上に存在させるようにしたのだとしたら、当然その責務があるはずではありませんか。ところが、地球には自分の状態に至極満足して暮らしている人なぞというのは実際のところ全体の割合としてそんなに多くないわけです。それでわたし、思ったんですよね。「ああ、そりゃ神なんぞこの世にいるわけがない」と……。

 それに、全人類を同時に幸福にするというのは――大体のところを言って、次のようなことなわけです。暑かったら暑かったで、「おい、神。おまえの生みだした人間が暑くないように涼しくしやがれ」と言い、寒かったら寒かったで、「おい、神!我々を生みだすだけ生みだしておいて、凍死させる気が!もっとあったかくしろ」と文句を言う……こうなるともう、神さまというのはただの、人間にとって都合がいいか悪いかだけの、エアコンの如き存在です(^^;)

 そんな、人間がコンビニのように軽く扱うような存在が、神などであるはずがない。そして実際のところ、こんな気難しい人間どもが目に見えない神さまという存在を信じることが出来るための<道>を神さまは用意されていました。

 それが父なる神のおひとり子である、イエス・キリストを信じるということです。


 >>人の心は何よりも陰険で、
 それは直らない。
 だれが、それを知ることができよう。

 わたし、主が心を探り、思いを調べ、
 それぞれの生き方により、
 行ないの結ぶ実によって報いる。

(エレミヤ書、第17章9~10節)


 もちろん、イエスさまはわたしたちの行ないによってではなく、信仰の結ぶ実によって報いてくださる方ですが、とにかく、神さまは人間の心がいかに陰険で、救いようのない暗いものであるか、ご存知であられるわけです。

 たぶんわたしは、毎年ただ黙って5千万円が入ってきたとしたら――ひたすら自分の欲望のために費やし、あとは金銭感覚がバカのようになってしまい、最終的にはギャンブルですべてするなどして、「来月になったらまた、来年の分の5千万円が入ってくるから!」とか、暴力団にでも首根っこを押さえられてそうです(^^;)

 そして、こんな馬鹿なしょうもない、生きている価値のない人間のためにも、その人が真実心から悔い改めるなら……イエスさまはわたしたちのために御手を動かし、代わりにわたしたちのための贖い金をすべて支払ってくださる方なわけです。

 わたしが神さまならまあ、こう思うと思います。「おまえら人間が、ひとりにつき5千万ももらえれば、みな心地好く平和に、戦争も喧嘩もせず幸せに暮らしてゆけます」と言うのでその通りにしてやったというのに――これでは昔と何も変わりないではないか、と。

 あ、でも、世の中には本当に心の綺麗な方っていますから、そうした方というのは、自分の預金通帳にいくらお金が入ろうと関係なく、山奥にでもこもってひっそり暮らし、毎日神さまに祈り感謝し讃美する生活を送ってのち……生きたまま天国へ上げられるような、そんな清らかな生涯によって終わりを迎えられるものなのかもしれません。。。

 それではまた~!!






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