神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神の言葉は堅く立つ。

2018年06月04日 | キリスト教


「すべての人は草、
 その栄光は、みな野の花のようだ。
 主のいぶきが、その上に吹くと、
 草は枯れ、花はしぼむ。
 まことに、民は草だ。
 草は枯れ、花はしぼむ。
 だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」


(イザヤ書、第40章6~8節)


 ヨハネの福音書は、とても有名な書き出しで始まります。


 >>初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 この方は、初めに神とともにおられた。

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 神から遣わされたヨハネという人が現われた。

 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

 私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

(ヨハネの福音書、第1章1~14節)


 そして、わたしたちキリスト教徒が<神>という時、それは三位一体の神を意味しており、この三位一体というのは、第一位格が父なる神、第二位格が子なる神イエス・キリスト、第三位格が聖霊ということになります。

 わたしがもし今クリスチャンでなかったら、たぶん理屈としてこう聞かされたら、「え?なんかそれ、変じゃない?」みたいに絶対思った気がします(^^;)

 いえ、その……なんていうか、<神>、神さまという存在は、そんなふうに人間の側で理屈として捉えられるはずがないとか、たぶんそんなふうに人間的に考えて「やっぱりキリスト教って絶対変だ~!」みたいに、そういうところで躓いていたと思います。。。

 そして、この神の第二位格、「ことば」でもあられる方がこの世に受肉されたのがイエス・キリストということなんですけど、イエスさまのことを信じた時に、キリスト教信者には聖霊が与えられます。そしてこれが神さまの第三位格ということなんですね(^^;)

 この<聖霊>さまが実際に与えられてみると――色々なことがわかってきます。教会の礼拝に参加したりすることでの学びを通して、聖書を読むことを通して、それまでよくわからなかったキリスト教に関することについて、聖霊さまが教えてくださるので、「あ、そっか!そういうことなんだ~」みたいにどんどん学びが進んでいくというか。

 逆に、この聖霊さまを通すということがないと、人間的な努力の力によって聖書を読んだり、キリスト教について書かれた本を読んでも、キリスト教についてはよくわからない気がします(^^;)

 いえ、もちろんこの世界には宗教学者と呼ばれる方がいて、キリスト教やイスラム教についても勉強しつつ、仏陀を神と崇めているわけではないけれども、まあ、自分としては仏教寄りかな……といった方もいらっしゃいますし、また、そうした宗教に関して教える学問もありますよね(=学問として学ぶだけで、そのうちどれかの宗教の信者ではない、というか)。

 そして、今回のタイトルの「神の言葉は堅く立つ」なのですが、これは実はキリスト教ではなくて、日本における「ことば」の成り立ちということなんですけど……わたしたちが普段何気なく話している「ことば」というものを今度は目に見える形で「文字」として表そうという時――ようするに日本人にとって生まれて初めての「文字」の誕生は、神さまととても深い関係があったそうです(あくまでも一説、ということだとは思うのですが)。

 つまり、神さまのことを祀った場所で、その祭司階級にある人々が神さまのことを「ことば」として表そうとしたがゆえに、わたしたちが普段使っている「文字」の由来を紐解いていくと「神さま」との関わりが文字の由来になっている場合が非常に多いそうです。また、これは日本だけではなくて、世界の言語のもともとの最初の意味といったものを辿っていくと、「神さま」ということが関わっていることがとても多いということでした。

 そして、そんな誕生の背景を持つことから、「文字」の誕生の最初期というのは、祭司といったような神さまと深い関係にある人々しか、これを使うことは出来なかった……といったよーなことを、かなり昔、テレビでやっていたのをぼんやり覚えています。。。

 今という現代、この「文字」に対する敬いというのは、本当に薄くなってしまったんじゃないかな~とわたしは時々思ったりするんですけど、これは時代の移り変わりとともに仕方ないのかな……と感じるのと同時、でもやっぱり、「ことば」というものを「神さま」を背景として捉えるってとても大切な感覚じゃないかな、と思ったり(^^;)

 また、大切というだけでなく、そのあたりの感覚に鋭いということは、神さまの臨在の素晴らしさについてもその分豊かに注がれるという領域があると思うので、キリスト教徒、クリスチャンにとっても大切なことですよね。

 ようするにそれは聖霊さまの臨在ということですけれども、聖書を読んでいて神さまの霊、神さまからの霊(聖霊)に捉えられることがあるというのもこうしたことが関係しているわけですし、そうなると自分的にはやっぱりしゃべり言葉=文字が同列になっている今の世の中って、実は違和感があるんですよね(^^;)

 わたしの中ではとりあえず、普段しゃべっている言葉よりも書き言葉のほうがより重要だなっていうのが感覚的にあって、やっぱり書いた言葉って、パッと考えてついぺろっとしゃべってしまった――というよりも、最低でもワンクッションあるという意味で、ちょっと責任が重くなるっていうんでしょうか。

 でも今はチャットとかだと、ほとんど普段しゃべってるのと同じ感覚ですし、この部分って、あくまでもわたしの直感的に……そこの「違い」というのは、しゃべり言葉と書き言葉は違うって分けたほうがいい気がするんですよね(^^;)

 わたしはどうしても携帯が必要になるギリギリ☆まで持たなかったという人なので、こう書くとたぶん、「そのせいだよ~☆」って思われると思うんですけど、今の時代はもうラインやメールなどで傷つけあうっていう過程を十代の子はみんな通るそうです

 やっぱり、直接相手の顔を見て話す時と、相手の存在が直接なくて文字だけで会話する場合と――その部分は「違う」っていうのはみんなわかってるんですよね。だから、顔を合わせた時には出てこないだろう言葉が、携帯の画面の文章ではつい出てきてしまってトラブルになる、というか。。。

 相手の顔の表情とか雰囲気を感じとって会話していたら、「まずそんなことは言ってない」ことを文章として打ちこんでしまったり、相手の存在がないとつい相手が傷つくかもしれない言葉についても言いやすい部分があるというか。

 前にテレビで、学校の保健の先生が「ラインやメールの会話で友達とトラブルになって……」っていうことで相談に来ることがとても多いと言っていたことがありました。

 これ、ものすごーくよくわかる気がします(^^;)

 相手がグサッと来るようなことを書いて、そのあとメールで「ごめん」とか書いてもめっちゃ軽い感じだし、そうなるともう顔を見てあやまるしかないわけですけど、「今はあんたに会いたくない」としか返事が返ってこないとか――いえ、わたしが十代の頃って、ここまで人類が発達(?)するとは、想像も出来ませんでした。。。(おばさんだなあ・笑)

 そして、未来の超科学について書かれた本というのがたくさんあるわけですけど……そうしたSFの分野で唯一、今わたしたちが持っている「携帯」というのは、誰も発想できなかったそうですよね(^^;)

 科学が進むにつれて、人間はますます神さまと距離が出来た……といったように言いますけれども、神さまのことを敬うとしたら、自然「ことば」というものも大切にするようになるし、命を大切にするようにもなり、自分以外の人間のことも大切にするようになる――何故そうなのか、というのは感覚的なことなので説明が難しいんですけど(^^;)、でもなんとなくわかる、という方はとても多いのではないでしょうか。

 そして、聖書には「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイの福音書、第6章33節)とあるとおり、神さまのことを一番大切にするなら、他のことはなんとかなる……というのは自分的に経験を通しても本当にそのとおりだなと思わされることがとても多いです♪

 それではまた~!!





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