
【受胎告知】エル・グレコ
さて、随分長い前振り(?)になってしまいましたが、ここからはパレアナが実践していた<喜びの遊び>を今現実に存在しているわたしたちにもすることが出来るのかどうかについて、考えてみたいと思います。
わたしが『少女パレアナ』を読んだ時は、「素敵な、面白いお話だったな。村岡先生のお訳も最高にgood!!
」といったような、そんな読後感だったのですが、実際にパレアナの<喜びのゲーム>を自分でしてみようとまでは思いませんでした(^^;)
ところがその後、マーリン・キャロザース先生の『獄中からの讃美』や『讃美の力』といった御著書のことを知り――「いつも喜んでいる」ということこそ、神さまの御心であるということを知ったというか。
パレアナ自身も物語の中でこう言っていますよね。
>>「喜びの句を勘定してみようと思いついた時から、気持ちが少しよくなったって言いました。神さまが八百回も楽しめとか喜べとかおっしゃってるのは、あたしたちが喜ぶことを望んでいらっしゃるからにちがいないって、お父さんは言いました。もっと喜ぶはずだとお父さんは言って恥ずかしがっていました。だから、うまくいかない時でも、こういう考えかたでずいぶん助かったんですの」
(第二十二章『お説教と薪の箱』より)
と……。
ここで、聖書の中から喜びに関して書かれた箇所をいくつか抜粋してみたいと思います♪(^^)
私はあなたのみことばを見つけ出し、
それを食べました。
あなたのみことばは、私にとって
楽しみとなり、心の喜びとなりました。
(エレミヤ書、第15章16節)
聞いてください。主よ。
私をあわれんでください。
主よ。私の助けとなってください。
あなたは私のために、
嘆きを踊りに変えてくださいました。
あなたは私の荒布を解き、
喜びを私に着せてくださいました。
私のたましいがあなたをほめ歌い、
黙っていることがないために。
私の神、主よ。
私はとこしえまでも、あなたに感謝します。
(詩篇、第30章10~12節)
私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。
そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、
喜ぶことでしょう。
御顔を私の罪から隠し、
私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。
神よ。私にきよい心を造り、
ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から、投げ捨てず、
あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを、私に返し、
喜んで仕える霊が、私をささえますように。
(詩篇、第51章8~12節)
私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、
私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。
ああ、私は床の上であなたを思い出し、
夜ふけて私はあなたを思います。
あなたは私の助けでした。
御翼の陰で、私は喜び歌います。
私のたましいは、あなたにすがり、
あなたの右の手は、私をささえてくださいます。
(詩篇、第63章5~8節)
主は私たちのために大いなることをなされ、
私たちは喜んだ。
主よ。ネゲブの流れのように、
私たちの捕われ人を帰らせてください。
涙とともに種を蒔く者は、
喜び叫びながら刈り取ろう。
種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、
束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。
(詩篇、第126編3~6節)
天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。
人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、
持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
(マタイの福音書、第13章44節)
御使いは彼らに言った。
「恐れることはありません。
今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです」
(ルカの福音書、第2章10~11節)
「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」
イエスは言われた。
「私が見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。
確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。
ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」
(ルカの福音書、第10章17~20節)
すると、御使いは女たちに言った。
「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。
では、これだけはお伝えしました」
そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
(マタイの福音書、第28章5~8節)
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
(ペテロの手紙第一、第1章5~9節)
むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。
それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
(ペテロの手紙第一、第4章13節)
あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。
(ルカの福音書、第15章4~10節)
……ここに列記したものは、あくまでもほんの一部でしかありませんが、一応参考のために(^^;)
そして、確かに聖書を読んでいると、自分の周囲で何が起こっていようと、どんな揺るがしがあろうとも、「神さまにあって平安であること」、「神さまを喜び感謝すること」が、一番大切なことなのかなという気がします。
もちろん人は、自分の体に火が燃えついている時に「平安」でなどとてもいられないでしょうし、パレアナのように轢き逃げにあってなお「神さま、感謝します」、「このことを喜びます」などとは言えないものです。そしてそういう時に信仰者は神さまにあってどういう態度を取るべきなのか――ということを、次回以降取り上げてみたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
さて、随分長い前振り(?)になってしまいましたが、ここからはパレアナが実践していた<喜びの遊び>を今現実に存在しているわたしたちにもすることが出来るのかどうかについて、考えてみたいと思います。
わたしが『少女パレアナ』を読んだ時は、「素敵な、面白いお話だったな。村岡先生のお訳も最高にgood!!


ところがその後、マーリン・キャロザース先生の『獄中からの讃美』や『讃美の力』といった御著書のことを知り――「いつも喜んでいる」ということこそ、神さまの御心であるということを知ったというか。
パレアナ自身も物語の中でこう言っていますよね。
>>「喜びの句を勘定してみようと思いついた時から、気持ちが少しよくなったって言いました。神さまが八百回も楽しめとか喜べとかおっしゃってるのは、あたしたちが喜ぶことを望んでいらっしゃるからにちがいないって、お父さんは言いました。もっと喜ぶはずだとお父さんは言って恥ずかしがっていました。だから、うまくいかない時でも、こういう考えかたでずいぶん助かったんですの」
(第二十二章『お説教と薪の箱』より)
と……。
ここで、聖書の中から喜びに関して書かれた箇所をいくつか抜粋してみたいと思います♪(^^)
私はあなたのみことばを見つけ出し、
それを食べました。
あなたのみことばは、私にとって
楽しみとなり、心の喜びとなりました。
(エレミヤ書、第15章16節)
聞いてください。主よ。
私をあわれんでください。
主よ。私の助けとなってください。
あなたは私のために、
嘆きを踊りに変えてくださいました。
あなたは私の荒布を解き、
喜びを私に着せてくださいました。
私のたましいがあなたをほめ歌い、
黙っていることがないために。
私の神、主よ。
私はとこしえまでも、あなたに感謝します。
(詩篇、第30章10~12節)
私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。
そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、
喜ぶことでしょう。
御顔を私の罪から隠し、
私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。
神よ。私にきよい心を造り、
ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から、投げ捨てず、
あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを、私に返し、
喜んで仕える霊が、私をささえますように。
(詩篇、第51章8~12節)
私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、
私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。
ああ、私は床の上であなたを思い出し、
夜ふけて私はあなたを思います。
あなたは私の助けでした。
御翼の陰で、私は喜び歌います。
私のたましいは、あなたにすがり、
あなたの右の手は、私をささえてくださいます。
(詩篇、第63章5~8節)
主は私たちのために大いなることをなされ、
私たちは喜んだ。
主よ。ネゲブの流れのように、
私たちの捕われ人を帰らせてください。
涙とともに種を蒔く者は、
喜び叫びながら刈り取ろう。
種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、
束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。
(詩篇、第126編3~6節)
天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。
人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、
持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
(マタイの福音書、第13章44節)
御使いは彼らに言った。
「恐れることはありません。
今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです」
(ルカの福音書、第2章10~11節)
「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」
イエスは言われた。
「私が見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。
確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。
ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」
(ルカの福音書、第10章17~20節)
すると、御使いは女たちに言った。
「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。
では、これだけはお伝えしました」
そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
(マタイの福音書、第28章5~8節)
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
(ペテロの手紙第一、第1章5~9節)
むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。
それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
(ペテロの手紙第一、第4章13節)
あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。
(ルカの福音書、第15章4~10節)
……ここに列記したものは、あくまでもほんの一部でしかありませんが、一応参考のために(^^;)
そして、確かに聖書を読んでいると、自分の周囲で何が起こっていようと、どんな揺るがしがあろうとも、「神さまにあって平安であること」、「神さまを喜び感謝すること」が、一番大切なことなのかなという気がします。
もちろん人は、自分の体に火が燃えついている時に「平安」でなどとてもいられないでしょうし、パレアナのように轢き逃げにあってなお「神さま、感謝します」、「このことを喜びます」などとは言えないものです。そしてそういう時に信仰者は神さまにあってどういう態度を取るべきなのか――ということを、次回以降取り上げてみたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!

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