【オリーブ山の祈り】アンドレア・マンテーニャ
信仰を使う時、神様の勝利が私たちの人生の中に豊かに現されます。
そして、クリスチャンなら誰もが「信仰」を持っています。
ある人は大きい信仰、ある人は小さい信仰、また、ある人は強い信仰、ある人は弱い信仰、とその信仰の大小、強弱は別として「信仰」を持っています。
では、大きい、強い信仰を持っている人の方が、小さい、弱い信仰を持っている人より、多く勝利を見るのでしょうか?
そうではありません。
勝利を見るのは、信仰の大きさや強さではなく、使っているか、使っていないかがポイントになります。
では、信仰を使うこととは具体的に言いますと、神様に祈り聞き従い、感謝し、賛美し、悔い改め、求め、喜び、告白し、そして教会にしっかりとつながることです。
これら一つひとつの信仰を人生の只中で、そして許されてくる問題や困難の中で使うなら、圧倒的な勝利を見、神様から恵みと祝福を豊かに受け取るでしょう。
(『雲の間にある虹』2015年10月号、山下敦史牧師のメッセージより)
さて、世に差があるように、信仰にも差があることに気がつきます。
例えば、信仰が強い人弱い人、また信仰のある人ない人等々です。明らかに信仰の強い人弱い人、信仰のある人ない人がいます。
【中略】
もちろん信仰は強いに越したことはないのですが、問題はそれよりもその信仰を使うかどうかです。
私はかつて、ここのことが、よく分かっていなかったのです。
信仰が小さくても弱くても、使えば山をも動かすのです。
ギデオンは、イスラエル史上、最大の勇者の1人です。
彼は臆病者であり、同時に信仰も小さく、弱い人でした。
しかし、彼は300人でミデヤン人12万5千人を破るという大奇跡を行います。
つまり、450倍の敵を打ち破ったことになります。
こんな大きな差の敵に打ち勝った例は、歴史上聞いたことがありません。
【中略】
また、興味深いことに、彼の弱い者から、勇者になるまでの期間が非常に短いのに気がつきます。
どうして、臆病者が急に勇気ある者に変わったかと言うと、彼が信仰を使ったからこそ短い間に勇者になったと思われます。
そして、その結果、大勝利大奇跡が起こったのです。
彼の場合は、神様の言われる通りにするという形で信仰を使いました。
神様の働きが現れるために、信仰が強い弱い、あるないは、最も重要なポイントではありません。
信仰が強くても、弱くても、それを使うかどうかが問題となります。
使う時に、主はわざを現され、使わない時に、主はわざを止められるのです。
ギデオンが信仰を使わなくては、ただの臆病者で終わったでしょう。
(『信仰が強まる7つの秘訣~第二回、信仰を使う~パウロ秋元牧師』、<雲の間にある虹>2015年10月号より)
主の十字架クリスチャンセンターのインターネット主日礼拝でも、同じ内容のメッセージを何度かお聞きした記憶があります(^^;)
その、一般的(?)なクリスチャンの方、信徒の方にとっては、一瞬「アレ?」って思いますよね。
信仰はもちろん、大きくて強いほうがいいはずだ、と……。
けれど、「信仰は使うか使わないか」と聞いて、新約聖書のパウロと同じように目からうろこが落ちるという方は多いのではないでしょうか(^^;)
もちろん、すべてのクリスチャン、キリスト教徒にとって、信仰は基本的にあるものだと思います。
欧米諸国では、親がクリスチャンで赤ん坊の頃に洗礼を受けはしたけれども、その後成長してからは特に宗教的なことに熱心になったことはない……といったことがあるかと思いますけれども、日本の場合は教会へ通ってる時点でかなり信仰深い方のほうが圧倒的多数なのではないかという気がします。
そして「わたしなど、信仰が弱くて、とてもとても……」とお互いに日本人らしく(?)謙遜し合ったりしてる気がするのですが、でも、信仰というのは仮に100%完璧なものを心の内に秘めていたとしても、使わなければ意味がないというのが、からし種のたとえ話における山をも動かす信仰ということなのだと思います
逆に信仰がたったの1%しかなかったとしても、使えば神さまの業が起きるということですよね。
たとえば、お父さんを手伝いに来いと言われて、「行きます、お父さん」と言っておきながら結局行かなかった兄よりも、「ううん、行かない」と言っていて、やっぱりお父さんを手伝いに行った弟とでは、当然信仰的に優れているのは弟のほうだと思います。
ところが、わたしもそうですが、クリスチャン生活も長くなると、「行きます、お父さん」といったように神さまに約束しておきながら、意外に実行しないことが多かったりしませんか?(わたしだけかな・笑)
もし仮に日曜日に特に何も用事がなくても、「明日、礼拝に行くの面倒くさいな……」といったように思ったとして、教会の友人にも「明日は都合が悪いから、行けないよ」、「どうしても抜けられない用があるから」と言っていたにしても、直前になって気が変わり、「やっぱり聖霊さまが行けって言ってるから行こう」みたいになったとしたら、これがたぶん1%の信仰を使ったということなのだと思います。
教会には、そこでしか受けられない肉体的・精神的・霊的祝福があるので、結局礼拝から帰って来てみると霊的に強められ「やっぱり行っておいてよかった」、「守っておいてよかった」みたいになると思うんですよね(主の十字架流に言えば、仮に礼拝の最中ずっと寝ていたとしても、来ただけで、その場にいるだけで受けられる祝福、恵みがあるということなのだと思います)。
逆に、「明日は絶対日曜礼拝に行こう!」と心に決めていたにも関らず、M子ちゃんから「映画のただ券あるから、一緒に見にいこう」と誘われ、心がぐらついて日曜礼拝を守らなかった場合……内にどんなに素晴らしい信仰があったにしても、その信仰心は0%ということかもしれません。
もちろん、年ごろの子供さんだったらお友達とのつきあいも大切だし、大人には大人で会社の同僚とのなんとか(?)もあるしっていうのが現実なので、そのかわり夜の礼拝を守る、あとでインターネットで礼拝を守るといった対応もあると思うのですが、この場合はあくまでたとえ話ということで(^^;)
わたしもつくづく、信仰はあれども「使っていない」ことのほうが圧倒的に多いなと思わされます
たとえば、毎日聖書or信仰に関係する書籍などを読む、お祈りするといったことを継続して続けていたにしても……具体的に「使う」ということがないなあ……と反省することしきりですww
もちろん、聖書を読んだりお祈りしたりというのも、「信仰を使う」ということではあるのですが、他に「神さまの御心に従う」ということをしているかといえば――「いえ、わたしにはアレアレ(?)の事情があって、コレコレのことは出来ないのです」とか、「わたしにはコレコレの事情があってアレアレ(?)出来ないのです。すみません」、「だからなんか他のわたしでも出来そうなことをさせてください」、「よろしくお願いします」……みたいな感じで、神さまの言葉を第一にしていないということは本当に多いのです。
やっぱり、神さまの言葉を第一にすると、信仰の道は自然と整ってくる気がします。
自慢ではありませんが、わたしもかなりのところ自分をダメ信者と思っているのですが、「アレできません」、「すみません。コレも出来ません」みたいな感じで、そんな中でも「自分で出来ることってなんだろう?」と思って、小さなことからはじめようと思いました。まあこれも、「自分の出来る範囲内のことでがんばる」といった小さな信仰の踏み出しだったのですが、それでもその小さな一歩を踏み出しただけでも、自分的には全然違ったと思います。
そしてこれが「アレできません」、「コレもできません」と言ったわたしにとって、最後に残ったひとつのことだったのですが、神さま、イエスさまは本当に恵み深い方だとあらためて思いました。「ある程度それなりに(?)忠実な信仰心はあるけど、神さまのために具体的に出来ることが何もない」と思い、そのことに対して罪悪感があったのですが、とにかく「何もしてないよりはいいんじゃないかな」と思ってはじめたことが、やはり益になるのですから。
わたしが信仰のお証しの中でよく聞くというか、よくある信仰の型が、「えっ、そんなこと出来ません、神さま!!」ということを語られて、最初は出来ないと思い、神さまにもそう申し上げるけれども、なんにしても信仰の踏み出しを一歩しはじめた時に、何かが変わってきた……というパターンでしょうか。
牧師さんのメッセージでもよくそうしたことを聞いていたし、信仰のお証しなどでもよく読んでいたものの、自分に関しては「なかなか従えないなあ」というか、神さまの言葉を落とすことのほうが本当に多かったのですが、まずは1、神さまに聞き従ってみるということを行ってみると、神さま、イエスさまの御前に自分の人生が少しずつ整ってくるという側面があるみたいです。
「(神さまのために)あれも出来ないし、これも出来ない」、「あれにも聞き従えないし、これにも聞き従えない」ということが長~く続いて、それ以外の、「それでも自分なりに出来ることをほんのぽっちり☆」行うという、わたし自身は実に貧しい信仰者なのですが、その本当に小さな1聞き従ったという部分を神さまが取り上げてくださって、残りの99をどうにかしてくださる……というのは、本当にただ、神さまの一方的な恵みだなと思わされます(^^;)
そしてその時ちょっとハッとしたのです。自分はたったの1%、こんなものしかありません……といったように捧げただけなのに、神さまは残りの99%をどうにかしてくださろうとする方なんだなと、この法則については、十分の一献金を通して学んでいるつもりでいたのですが、わたしは自分で一生懸命、神さまにお捧げするものが1%しかないだなんてとんでもない、もっとこの割合を10%、20%、30%……と一生懸命増やしていくことが、神さまのためになることなのだとずっと思いこんできたのです。
けれども、あまりに当たり前のことですが、この地上にあるものはすべて神さまのものであり、わたしひとりがその中で「神さまのために1%以上のことを、もっともっと」と努力したところで、神さまにはわたしにとっての1%も30%の努力も、そんなに差があるっていうわけじゃないんだということに気づいたというか(^^;)
そして、つい先日ブログの名前を「聖書&キリスト教関係」から、「神の手は力ある働きをする」に変えました。
何故かというと、人間の側でたったの1%、純粋で混じりけのない完璧な信仰心を持ってさえいれば、あとの99%は神さまが成してくださるということがわかったからです。そのように御言葉が示されたのは数日前のことなのですが、なんというかこう……ブログのタイトル見ただけで回れ右する人のほうが多そうな気がする……との人間的な思いもあって、ちょっと先のばしてにしてたんですね
先にブログ名をこういう理由で変えました――みたいな記事も書かなくちゃと思ってて(^^;)
なんというかまあ、そういった理由からブログの名前が変わったのですが、次回は「神の手は力ある働きをする」の聖書箇所について少し取り上げてみたいと思います♪(^^)
それではまた~!!
信仰を使う時、神様の勝利が私たちの人生の中に豊かに現されます。
そして、クリスチャンなら誰もが「信仰」を持っています。
ある人は大きい信仰、ある人は小さい信仰、また、ある人は強い信仰、ある人は弱い信仰、とその信仰の大小、強弱は別として「信仰」を持っています。
では、大きい、強い信仰を持っている人の方が、小さい、弱い信仰を持っている人より、多く勝利を見るのでしょうか?
そうではありません。
勝利を見るのは、信仰の大きさや強さではなく、使っているか、使っていないかがポイントになります。
では、信仰を使うこととは具体的に言いますと、神様に祈り聞き従い、感謝し、賛美し、悔い改め、求め、喜び、告白し、そして教会にしっかりとつながることです。
これら一つひとつの信仰を人生の只中で、そして許されてくる問題や困難の中で使うなら、圧倒的な勝利を見、神様から恵みと祝福を豊かに受け取るでしょう。
(『雲の間にある虹』2015年10月号、山下敦史牧師のメッセージより)
さて、世に差があるように、信仰にも差があることに気がつきます。
例えば、信仰が強い人弱い人、また信仰のある人ない人等々です。明らかに信仰の強い人弱い人、信仰のある人ない人がいます。
【中略】
もちろん信仰は強いに越したことはないのですが、問題はそれよりもその信仰を使うかどうかです。
私はかつて、ここのことが、よく分かっていなかったのです。
信仰が小さくても弱くても、使えば山をも動かすのです。
ギデオンは、イスラエル史上、最大の勇者の1人です。
彼は臆病者であり、同時に信仰も小さく、弱い人でした。
しかし、彼は300人でミデヤン人12万5千人を破るという大奇跡を行います。
つまり、450倍の敵を打ち破ったことになります。
こんな大きな差の敵に打ち勝った例は、歴史上聞いたことがありません。
【中略】
また、興味深いことに、彼の弱い者から、勇者になるまでの期間が非常に短いのに気がつきます。
どうして、臆病者が急に勇気ある者に変わったかと言うと、彼が信仰を使ったからこそ短い間に勇者になったと思われます。
そして、その結果、大勝利大奇跡が起こったのです。
彼の場合は、神様の言われる通りにするという形で信仰を使いました。
神様の働きが現れるために、信仰が強い弱い、あるないは、最も重要なポイントではありません。
信仰が強くても、弱くても、それを使うかどうかが問題となります。
使う時に、主はわざを現され、使わない時に、主はわざを止められるのです。
ギデオンが信仰を使わなくては、ただの臆病者で終わったでしょう。
(『信仰が強まる7つの秘訣~第二回、信仰を使う~パウロ秋元牧師』、<雲の間にある虹>2015年10月号より)
主の十字架クリスチャンセンターのインターネット主日礼拝でも、同じ内容のメッセージを何度かお聞きした記憶があります(^^;)
その、一般的(?)なクリスチャンの方、信徒の方にとっては、一瞬「アレ?」って思いますよね。
信仰はもちろん、大きくて強いほうがいいはずだ、と……。
けれど、「信仰は使うか使わないか」と聞いて、新約聖書のパウロと同じように目からうろこが落ちるという方は多いのではないでしょうか(^^;)
もちろん、すべてのクリスチャン、キリスト教徒にとって、信仰は基本的にあるものだと思います。
欧米諸国では、親がクリスチャンで赤ん坊の頃に洗礼を受けはしたけれども、その後成長してからは特に宗教的なことに熱心になったことはない……といったことがあるかと思いますけれども、日本の場合は教会へ通ってる時点でかなり信仰深い方のほうが圧倒的多数なのではないかという気がします。
そして「わたしなど、信仰が弱くて、とてもとても……」とお互いに日本人らしく(?)謙遜し合ったりしてる気がするのですが、でも、信仰というのは仮に100%完璧なものを心の内に秘めていたとしても、使わなければ意味がないというのが、からし種のたとえ話における山をも動かす信仰ということなのだと思います
逆に信仰がたったの1%しかなかったとしても、使えば神さまの業が起きるということですよね。
たとえば、お父さんを手伝いに来いと言われて、「行きます、お父さん」と言っておきながら結局行かなかった兄よりも、「ううん、行かない」と言っていて、やっぱりお父さんを手伝いに行った弟とでは、当然信仰的に優れているのは弟のほうだと思います。
ところが、わたしもそうですが、クリスチャン生活も長くなると、「行きます、お父さん」といったように神さまに約束しておきながら、意外に実行しないことが多かったりしませんか?(わたしだけかな・笑)
もし仮に日曜日に特に何も用事がなくても、「明日、礼拝に行くの面倒くさいな……」といったように思ったとして、教会の友人にも「明日は都合が悪いから、行けないよ」、「どうしても抜けられない用があるから」と言っていたにしても、直前になって気が変わり、「やっぱり聖霊さまが行けって言ってるから行こう」みたいになったとしたら、これがたぶん1%の信仰を使ったということなのだと思います。
教会には、そこでしか受けられない肉体的・精神的・霊的祝福があるので、結局礼拝から帰って来てみると霊的に強められ「やっぱり行っておいてよかった」、「守っておいてよかった」みたいになると思うんですよね(主の十字架流に言えば、仮に礼拝の最中ずっと寝ていたとしても、来ただけで、その場にいるだけで受けられる祝福、恵みがあるということなのだと思います)。
逆に、「明日は絶対日曜礼拝に行こう!」と心に決めていたにも関らず、M子ちゃんから「映画のただ券あるから、一緒に見にいこう」と誘われ、心がぐらついて日曜礼拝を守らなかった場合……内にどんなに素晴らしい信仰があったにしても、その信仰心は0%ということかもしれません。
もちろん、年ごろの子供さんだったらお友達とのつきあいも大切だし、大人には大人で会社の同僚とのなんとか(?)もあるしっていうのが現実なので、そのかわり夜の礼拝を守る、あとでインターネットで礼拝を守るといった対応もあると思うのですが、この場合はあくまでたとえ話ということで(^^;)
わたしもつくづく、信仰はあれども「使っていない」ことのほうが圧倒的に多いなと思わされます
たとえば、毎日聖書or信仰に関係する書籍などを読む、お祈りするといったことを継続して続けていたにしても……具体的に「使う」ということがないなあ……と反省することしきりですww
もちろん、聖書を読んだりお祈りしたりというのも、「信仰を使う」ということではあるのですが、他に「神さまの御心に従う」ということをしているかといえば――「いえ、わたしにはアレアレ(?)の事情があって、コレコレのことは出来ないのです」とか、「わたしにはコレコレの事情があってアレアレ(?)出来ないのです。すみません」、「だからなんか他のわたしでも出来そうなことをさせてください」、「よろしくお願いします」……みたいな感じで、神さまの言葉を第一にしていないということは本当に多いのです。
やっぱり、神さまの言葉を第一にすると、信仰の道は自然と整ってくる気がします。
自慢ではありませんが、わたしもかなりのところ自分をダメ信者と思っているのですが、「アレできません」、「すみません。コレも出来ません」みたいな感じで、そんな中でも「自分で出来ることってなんだろう?」と思って、小さなことからはじめようと思いました。まあこれも、「自分の出来る範囲内のことでがんばる」といった小さな信仰の踏み出しだったのですが、それでもその小さな一歩を踏み出しただけでも、自分的には全然違ったと思います。
そしてこれが「アレできません」、「コレもできません」と言ったわたしにとって、最後に残ったひとつのことだったのですが、神さま、イエスさまは本当に恵み深い方だとあらためて思いました。「ある程度それなりに(?)忠実な信仰心はあるけど、神さまのために具体的に出来ることが何もない」と思い、そのことに対して罪悪感があったのですが、とにかく「何もしてないよりはいいんじゃないかな」と思ってはじめたことが、やはり益になるのですから。
わたしが信仰のお証しの中でよく聞くというか、よくある信仰の型が、「えっ、そんなこと出来ません、神さま!!」ということを語られて、最初は出来ないと思い、神さまにもそう申し上げるけれども、なんにしても信仰の踏み出しを一歩しはじめた時に、何かが変わってきた……というパターンでしょうか。
牧師さんのメッセージでもよくそうしたことを聞いていたし、信仰のお証しなどでもよく読んでいたものの、自分に関しては「なかなか従えないなあ」というか、神さまの言葉を落とすことのほうが本当に多かったのですが、まずは1、神さまに聞き従ってみるということを行ってみると、神さま、イエスさまの御前に自分の人生が少しずつ整ってくるという側面があるみたいです。
「(神さまのために)あれも出来ないし、これも出来ない」、「あれにも聞き従えないし、これにも聞き従えない」ということが長~く続いて、それ以外の、「それでも自分なりに出来ることをほんのぽっちり☆」行うという、わたし自身は実に貧しい信仰者なのですが、その本当に小さな1聞き従ったという部分を神さまが取り上げてくださって、残りの99をどうにかしてくださる……というのは、本当にただ、神さまの一方的な恵みだなと思わされます(^^;)
そしてその時ちょっとハッとしたのです。自分はたったの1%、こんなものしかありません……といったように捧げただけなのに、神さまは残りの99%をどうにかしてくださろうとする方なんだなと、この法則については、十分の一献金を通して学んでいるつもりでいたのですが、わたしは自分で一生懸命、神さまにお捧げするものが1%しかないだなんてとんでもない、もっとこの割合を10%、20%、30%……と一生懸命増やしていくことが、神さまのためになることなのだとずっと思いこんできたのです。
けれども、あまりに当たり前のことですが、この地上にあるものはすべて神さまのものであり、わたしひとりがその中で「神さまのために1%以上のことを、もっともっと」と努力したところで、神さまにはわたしにとっての1%も30%の努力も、そんなに差があるっていうわけじゃないんだということに気づいたというか(^^;)
そして、つい先日ブログの名前を「聖書&キリスト教関係」から、「神の手は力ある働きをする」に変えました。
何故かというと、人間の側でたったの1%、純粋で混じりけのない完璧な信仰心を持ってさえいれば、あとの99%は神さまが成してくださるということがわかったからです。そのように御言葉が示されたのは数日前のことなのですが、なんというかこう……ブログのタイトル見ただけで回れ右する人のほうが多そうな気がする……との人間的な思いもあって、ちょっと先のばしてにしてたんですね
先にブログ名をこういう理由で変えました――みたいな記事も書かなくちゃと思ってて(^^;)
なんというかまあ、そういった理由からブログの名前が変わったのですが、次回は「神の手は力ある働きをする」の聖書箇所について少し取り上げてみたいと思います♪(^^)
それではまた~!!
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