神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神の手は力ある働きをする。

2016年05月11日 | キリスト教
【ゲッセマネの祈り】コッラード・ジアキント


 主に感謝せよ。
 主はまことにいつくしみ深い。
 その恵みはとこしえまで。
 さあ。イスラエルよ、言え。
「主の恵みはとこしえまで」と。
 さあ。主を恐れる者たちよ、言え。
「主の恵みはとこしえまで」と。

 苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。
 主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。
 主は私の味方。私は恐れない。
 人は、私に何ができよう。
 主は、私を助けてくださる私の味方。
 私は、私を憎む者をものともしない。
 主に身を避けることは、
 人に信頼するよりもよい。
 主に身を避けることは、
 君主たちに信頼するよりもよい。

 すべての国々が私を取り囲んだ。
 確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。
 彼らは私を取り囲んだ。まことに、私を取り囲んだ。
 確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。
 彼らは蜂のように、私を取り囲んだ。
 しかし、彼らはいばらの火のように消された。
 確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。
 おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、
 主が私を助けられた。
 主は、私の力であり、ほめ歌である。
 主は、私の救いとなられた。

 喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。
 主の右の手は力ある働きをする。
 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。
 私は死ぬことなく、かえって生き、
 そして主のみわざを語り告げよう。
 主は私をきびしく懲らしめられた。
 しかし、私を死に渡されなかった。

 義の門よ。私のために開け。
 私はそこからはいり、主に感謝しよう。
 これこそ主の門。正しい者たちはこれよりはいる。

 私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、
 私の救いとなられたからです。

 家を建てる者たちの捨てた石。
 それが礎の石になった。
 これは主のなさったことだ。
 私たちの目には不思議なことである。
 これは、主が設けられた日である。
 この日を楽しみ喜ぼう。

 ああ、主よ。どうぞ救ってください。
 ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。

 主の御名によって来る人に、祝福があるように。
 私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。
 主は神であられ、私たちに光を与えられた。
 枝をもって、祭りの行列を組め。
 祭壇の角のところまで。

 あなたは、私の神。私はあなたに感謝します。
 あなたは私の神、私はあなたをあがめます。

 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
 その恵みはとこしえまで。

(詩篇118編、第1~29節)


 ブログ名の由来である、「神の手は力ある働きをする」は、15~16節の「主の右の手は力ある働きをする」のところです♪(^^)

 また、22~23節の、

 家を建てる者たちの捨てた石。
 それが礎の石になった。
 これは主のなさったことだ。
 私たちの目には不思議なことである。


 に関連した聖書箇所としては、マタイの福音書第21章やマルコの福音書12章などの他に、


 >>そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。

「民の指導者たち、ならびに長老の方々。

 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。

 この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。

『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石になった』というのはこの方のことです。

 この方以外には、だれによっても救いはありません。

 世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」

 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。

 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。

(『使徒の働き』第4章8~14節)


 >>主のもとに来なさい。

 主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。

 そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

 なぜなら、聖書にこうあるからです。

「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、
 尊い礎石を置く。
 彼に信頼する者は、
 決して失望させられることがない」

 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、

「つまずきの石、妨げの岩」なのです。

 彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。

(『ペテロの手紙第一』第2章4~8節)


 また、マタイの福音書第21章に、>>この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます」(44節)とあります。

 大工さんは家(宮殿)を建てる時、家の礎石として、当然のことながらしっかりとした立派な大きい特別に素晴らしい石を選ぶものだと思います。けれど、神さまはそうした人間的基準によってでは人を選ばず、「え?何故その人が??」、もっと言えば「何故あんな奴が」と周囲に蔑まれている人をさえ、時に用いられることがあると思います。

 また、イエスさま御自身、時の権力者たちやパリサイ人をはじめとする宗教的権威者たちにとっては「あんな奴がメシアのはずはない」として蔑まれたのであり、今現在もそうした立場にある方を理解し、守り、手助けしてくださる方だと言っていいでしょう。

 個人的な語りかけとしては、この箇所ともうひとつ、15~16節、「主の右の手は力ある働きをする」のところです。

 前回、「1%の信仰を使う時に現される神の業」のところでも書いたのですが、この1の信仰、1の聞き従いをしていくなら、残りの99%は神さまが成し遂げてくださるということです。でもこれって、一応理屈によってコツがわかっても、信仰的体験として掴んでいくのはなかなか難しいことだったりもします(^^;)

 少しおかしなたとえかもしれませんが、まったくの意識不明の寝たきりの方を体位交換する時、その方は意識がまるでありませんから、体のどこにも力が入っていないという意味では、体位交換しやすいかもしれません。

 けれど、たとえば意識のある方で、手術後にそうしたケアが必要になった方の場合というのは、体のあちこちに力が入りますし、「こんなにお世話になって申し訳ない」ということやある種の「恥かしい」といった気持ちから、むしろ意識のまるでない方よりも排泄のケアなどがコミュニケーション含め、難しいかもしれません。

 でも、神さまに完全に身を委ねるなら、大体1%完全な信仰を働かせて「神さま、本当にありがとうございます」、「御名を崇めます」、「こんなに良くしてくださってありがとうございます」と感謝するなら、本当に残り99%のことは神さまの御手の中にあるのです。

 たとえて言うなら、ルカの福音書の第16章に出てくるラザロのようなものかもしれません。

 ここでラザロはアブラハムのふところに抱かれているわけですが、彼は生前、全身おできの貧乏人で、世間一般の人々に賞賛される何かを行ったとか、そうしたことはなかったのではないかと思われます。

 >>金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。とあるとおり、毎日食べるのに困るほどの貧乏人であったればこそ、おそらく神さまに頼る気持ちが日々100%に近いくらいあったのではないでしょうか。

 そして、アブラハムのふところに抱かれて永遠の安息――天国に入ることが出来たのは、ラザロがいつもその門の前にいたであろう金持ちの家の住人ではなく、彼だったのです(^^;)

 おそらく、この金持ちの家に住む人々にも、ラザロをはじめとする貧乏な人々を自分の食卓に招くというチャンスは、それこそ日々与えられていたことでしょう。けれど、神さまが御自身の神殿の礎石としてお選びになるのは、むしろラザロのような人だとは言えないでしょうか。

 それでは、最後にルカの福音書第16章より、この箇所を引用して、この記事の終わりとしたいと思いますm(_ _)m

 ではまた~!!



 >>ある金持ちがいた。

 いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。

 犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。

 金持ちも死んで葬られた。

 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムがはるかかなたに見えた。

 しかも、そのふところにラザロが見えた。

 彼は叫んで言った。

『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。
 私はこの炎の中で、苦しくてたまりません』

 アブラハムは言った。

『子よ。思い出してみなさい。

 おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。

 しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。

 ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです』

 彼は言った。

『父よ。ではお願いです。

 ラザロを私の父の家に送ってください。

 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください』

 しかしアブラハムは言った。

『彼らには、モーセと預言者があります。
 その言うことを聞くべきです』

 彼は言った。

『いいえ、父アブラハム。
 もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません』

 アブラハムは彼に言った。

『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない』

(ルカの福音書、第16章19~31節)





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