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【盲目の乞食】ローレンス・アルマ=タデマ
信仰を失うのは
地所を失うにまさる
地所は買い戻しも
出来ようが 信仰はそうはゆかぬ
生命と共に
信ずることはただ一度受け継がれるのみ――
わずか一か条でも破るなら
もう「存在の乞食」だ
(『エミリ・ディキンスン詩集~続自然と愛と孤独と~』中島完さん訳/国分社刊)
きっと天の御国では
乞食はみんな大会社の社長で
物乞いたちはみな
貴族の子息か御令嬢――
ホームレスたちはみんな
総督か大統領だ
わたしはそんなふうに想像するのが好き――
たとえ地上の富んでいる人々が
わたしのそんな考えを
「貧しい」と言って笑ったとしても――
下のほうの詩はわたしの書いたものですが、乞食とホームレスの方っていうのは、正確には意味が違うと思うのですが、大体のところ意味はわかっていただけるものと思って、お話を進めたいと思います(^^;)
マザー・テレサもおっしゃっていたとおり、この世界には物凄い『飢え』というものがあると思います。一般にいう後進国における飢えというのは、食べ物や衣類など、おもに物質的なことであるのに対して、先進国の飢えというのは、衣食住が概ね満たされてのち、誰にも必要とされていないという孤独を感じるという飢えであったり……前者がある程度単純であるのに対し、後者の悩みは複雑で、説明するためには話も長くなる場合が多いというか。
衣食住が満たされてなくても、同じような人がまわりにもたくさんいて助けあえるといった場合、そうした方というのは仮に物乞いというか、乞食をされていたとしても、少なくとも存在の乞食ということは絶対にないと思うんですよね。
そして、その日たまたま誰かが少し多めに缶にお金を入れてくれたといった場合――そのお金を家族の元に持って帰って「やったよ、母ちゃん!!」といったように分け合える喜びがあるとしたら、そのお金でお米を買った上、さらに隣近所の人たちとも分け合えるとしたら、このことは精神の上において、むしろとても豊かだと思います。
けれど、日本において駅周辺などで見かけるホームレスの方が物乞いをされてるところって見たことがありません。
ずっと同じ場所に座っているとしたら、何か缶でも前のほうに置いていたほうが、時々百円くらい入れてくれる人がいるかもしれないし……などと、個人的には思ってしまうのですが、もちろん気持ちはわかります。わたしも自分が逆の立場だったとしたら、絶対にそんなことはしないとわかっているので(^^;)
わたしが以前、某アルバイトのためにある駅を利用していたところ、いつもその駅の△番出口のところにはホームレスの男の人がいました。割と人通りの多い場所なので、朝夕のラッシュ時などは、人の流れで物凄いことになります。けれど、その男の人がまったく見えていないように目の前を通りすぎていき、わたしもそうした群れを構成する一員だったわけですが、やっぱり気になりますよね(^^;)
それで、たったの二回くらいなんですけど、おにぎり二個とお茶、それとお弁当とお茶という組み合わせで、コンビ二で買ったものをお渡ししたことがありました。その時にその方が、「お茶が有難い」みたいなことをおっしゃっていて、それ以上詳しく聞いたわけではないのですが、やっぱりおにぎり単品とか、お弁当を単品でもらうよりも、一緒に何か飲み物があったほうがいいのかな……と漠然と思ったり。
そして、そこのアルバイトへ行かなくなってから少し時が過ぎて――その時おにぎりやお弁当を買った駅構内のコンビ二の前を通りかかった時のことでした。たぶん、ホームレスの方ではないかと思われるものの、かといってただ柱に寄りかかってじっとしている方のことをホームレスと言ってしまっていいものか……といった雰囲気の方が(五十台くらいの男性でした)そのコンビ二のすぐそばにいたのです。
正直、その方のその時の目つきを今も忘れることが出来ません。
全体として、物凄く飢えているというか、お腹がすいているというのがはっきりわかる感じなんですよね。
かといって、身なりなどからいっても、ホームレスかどうかというのは少し微妙であり(先の方は、自分の荷物などを後ろにたくさん展開しているため、それでホームレスの方だとわかりました)、それで果たして何かお弁当やおにぎりを渡したとして、ホームレスじゃなかったらどうするのか……という迷いがわたしの中であったため、そのまま通りすぎてしまったのです。
それでも先を歩いていきながら考えました。今からでも引き返していって、せめて何か買って渡したほうがいいんじゃないか、といったようには。でももしホームレスじゃなかったら?とも思ったため、先を急いでいたこともあり、結果としてはようするに何もしなかったということです。
でも、その時のその方の前を一瞬通りすぎた時に見えたものっていうのは、結構怖かったです。
というのも、コンビ二って色々なものが綺麗にパッケージングされて揃ってますし、その方の手にせめて百円でもあれば、食べ物は何か買うことが出来ます。でもあんなにも効率的な手段によって物の揃っている場所があるのに、そのほんの百円がないゆえに当たり前のように物を買っては人が出て来るのをただじっと見ていなくてはならない……というのは、どれほどのことなんだろうと思ったというか。
その方はそのコンビ二の物凄く近くの柱に寄りかかっていて、物凄い目でじっとそのコンビ二を睨むように見ていたんですよね。それは誰かそこから物を買った人が自分に何かくれないだろうかと待っているようでもあり、以前は自分もああしてなんでも普通に買っていたのに……と、半ば恨んでいるように見える視線でもありました。
今回のタイトルは「存在の乞食」なのですが、ようするに、このホームレスの方と、ただ何もせずに黙って通りすぎたわたしと、果たしてどちらが「存在の乞食」なのかという、そういう話です(^^;)
もちろん、その時一回きり、コンビ二の幕の内弁当とお茶を渡したところで、なんの根本的な解決にもならないとおっしゃる方は多いと思います。でもあれだけ人通りの多い場所で、もし仮に一日に三人、「お弁当を買って渡してあげようかな」という人がいたら、とりあえずその日だけでも凌げるのではないでしょうか。
これももちろん、根本的な解決には程遠いことであるにしても、あれだけ食欲的に今飢えているとはっきり感じるくらいの方を無視して通りすぎたというのは、わたしにとってはかなり胸の痛む出来ごとでした。
そして神さまの目から見た場合、お金を持っている人がお金を持っているからという理由によって乞食でないということはないような気がします。むしろそうした隠れた乞食のほうが、神さまの目にはより惨めな乞食だということがあるでしょうし、ホームレスの方の中には今貧しい生活をせざるをえないがゆえに、神さまが目を留める方が多いのではないだろうか……という気がしたり。
もちろん、だったら「その神さまとやらが彼らを助ければいいじゃないか」、「彼らがここまで生活を落とす前に何故神は彼らを助けなかったのか」という話になるかもしれませんが、個人的にそうしたことは賢い議論とは言えないと思っています。聖書ではイエスさまが十字架にかかった時、「神が彼を助けたらいい。神の子だと言っているのだから」と言って、ローマの兵士がイエスさまのことを嘲弄する場面がありますが、それと似たようなことだと感じるというか(^^;)
ところでその後、わたしがたったの二度ほどおにぎりとお弁当を渡したおじさんは、いつも必ずその場所にいたのに、暫くしてからそこへ行ってみるといなくなっていました。というのも、そのおじさんがいつもいた場所でかなり大規模な工事があって、場所がすごく新しく生まれ変わったんですよね。おそらくそのせいで、行政の方などが「ここは公共の場所だけど、おじさんがいつもいていい場所じゃないんだよ」的に言ったりしたのかなあ、なんて想像し……この時に生活保護を受けるとか、そうした相談窓口へ行くことになって、今は屋根のあるおうちで暮らされてるといいなあと思ったりしたんですよね。。。
ただ、本当に偶然なんですけど、その後ホームヘルパーの資格を取りに某所へ通っていたところ、そこの講師の先生のひとりが、授業でこのおじさんのことに言及していたんですよね。「あなたたちも見たことあるでしょ!?駅の△出口の近くにいるあのおじさんよ!」といったように。それで、このおじさんのことで役所のほうに苦情の電話をかけたということを話していました。この場合の苦情というのはもちろん、役所のほうに「そういう男性がいつも△出口のところにいるのを把握しているか?またもし把握しているとすれば、何故何もしないのか」という、そうした話なんですけど、こうした電話をしたというのはこの先生が初めてというわけではなかったらしく、たぶん福祉課だと思うのですが、そちらのほうでもそのおじさんと話をしにいったことがあるそうです。けれど、「生活保護を受けるのは嫌だ」とのことで、そのままになっているということでした。
このおじさんはもしかしたら、自分のことをとても孤独だと感じているかもしれませんが、人って孤独になりたくても、本当はそう孤独でもないのかな、という気がしなくもなかったり(^^;)おそらくこのおじさんのほうではそんなふうに誰かが気にかけてくれているということについてはあまり意識していないでしょうし、わたし、このおじさんに会って以来ずっとお祈りしているのですが、そんな人間がいるといったようにも考えることはないと思います。
ホームレスの方の中で生活保護を受給するのが嫌だと拒む理由のひとつに、「衣食住がある程度安定したら働かねばならない」ということがあると聞いたことがあります。「そんなの当たり前じゃねえか」と思われるかもしれませんが、個人的に気持ちは物凄くわかります。そもそもホームレスにまでなる過程のひとつに、おそらくは人間関係というのがあり、働くこと自体が嫌だというのではなく、そうした人間同士の摩擦や軋轢に疲れきってホームレスになったのに、また同じ場所へ戻っても同じことが繰り返されるだけ……といった絶望感があるのではないでしょうか。
以前、テレビで元はホームレスだった方々だけで、何か働くといった事業をはじめるところを拝見したことがあったのですが、やっぱり元ホームレスの方同士の間にも人間関係があり、そこから脱落した結果として、またホームレスに戻ったという方がいて、その場面を見ていて「ああ、人間って……」と思ったりもしました
わたしも何か現実的にホームレスの方を助けるボランティアをしているというわけではないので、何かエラソーなことを言えたりはしないのですが、何か実際的な活動をしていなくても、わたしと同じように「機会があれば助けあえるといい」みたいに感じている方の潜在的な数っていうのはかなりのところ多いと思うんですよね。人生の歯車が二つか三つ噛み合わなくなったら、明日は自分だってホームレス……といったような危機感を感じる方も多いと思いますし、とりあえずはそのうちまたビッグイシューでも買ってみようかなと思っています(^^;)
それではまた~!!
信仰を失うのは
地所を失うにまさる
地所は買い戻しも
出来ようが 信仰はそうはゆかぬ
生命と共に
信ずることはただ一度受け継がれるのみ――
わずか一か条でも破るなら
もう「存在の乞食」だ
(『エミリ・ディキンスン詩集~続自然と愛と孤独と~』中島完さん訳/国分社刊)
きっと天の御国では
乞食はみんな大会社の社長で
物乞いたちはみな
貴族の子息か御令嬢――
ホームレスたちはみんな
総督か大統領だ
わたしはそんなふうに想像するのが好き――
たとえ地上の富んでいる人々が
わたしのそんな考えを
「貧しい」と言って笑ったとしても――
下のほうの詩はわたしの書いたものですが、乞食とホームレスの方っていうのは、正確には意味が違うと思うのですが、大体のところ意味はわかっていただけるものと思って、お話を進めたいと思います(^^;)
マザー・テレサもおっしゃっていたとおり、この世界には物凄い『飢え』というものがあると思います。一般にいう後進国における飢えというのは、食べ物や衣類など、おもに物質的なことであるのに対して、先進国の飢えというのは、衣食住が概ね満たされてのち、誰にも必要とされていないという孤独を感じるという飢えであったり……前者がある程度単純であるのに対し、後者の悩みは複雑で、説明するためには話も長くなる場合が多いというか。
衣食住が満たされてなくても、同じような人がまわりにもたくさんいて助けあえるといった場合、そうした方というのは仮に物乞いというか、乞食をされていたとしても、少なくとも存在の乞食ということは絶対にないと思うんですよね。
そして、その日たまたま誰かが少し多めに缶にお金を入れてくれたといった場合――そのお金を家族の元に持って帰って「やったよ、母ちゃん!!」といったように分け合える喜びがあるとしたら、そのお金でお米を買った上、さらに隣近所の人たちとも分け合えるとしたら、このことは精神の上において、むしろとても豊かだと思います。
けれど、日本において駅周辺などで見かけるホームレスの方が物乞いをされてるところって見たことがありません。
ずっと同じ場所に座っているとしたら、何か缶でも前のほうに置いていたほうが、時々百円くらい入れてくれる人がいるかもしれないし……などと、個人的には思ってしまうのですが、もちろん気持ちはわかります。わたしも自分が逆の立場だったとしたら、絶対にそんなことはしないとわかっているので(^^;)
わたしが以前、某アルバイトのためにある駅を利用していたところ、いつもその駅の△番出口のところにはホームレスの男の人がいました。割と人通りの多い場所なので、朝夕のラッシュ時などは、人の流れで物凄いことになります。けれど、その男の人がまったく見えていないように目の前を通りすぎていき、わたしもそうした群れを構成する一員だったわけですが、やっぱり気になりますよね(^^;)
それで、たったの二回くらいなんですけど、おにぎり二個とお茶、それとお弁当とお茶という組み合わせで、コンビ二で買ったものをお渡ししたことがありました。その時にその方が、「お茶が有難い」みたいなことをおっしゃっていて、それ以上詳しく聞いたわけではないのですが、やっぱりおにぎり単品とか、お弁当を単品でもらうよりも、一緒に何か飲み物があったほうがいいのかな……と漠然と思ったり。
そして、そこのアルバイトへ行かなくなってから少し時が過ぎて――その時おにぎりやお弁当を買った駅構内のコンビ二の前を通りかかった時のことでした。たぶん、ホームレスの方ではないかと思われるものの、かといってただ柱に寄りかかってじっとしている方のことをホームレスと言ってしまっていいものか……といった雰囲気の方が(五十台くらいの男性でした)そのコンビ二のすぐそばにいたのです。
正直、その方のその時の目つきを今も忘れることが出来ません。
全体として、物凄く飢えているというか、お腹がすいているというのがはっきりわかる感じなんですよね。
かといって、身なりなどからいっても、ホームレスかどうかというのは少し微妙であり(先の方は、自分の荷物などを後ろにたくさん展開しているため、それでホームレスの方だとわかりました)、それで果たして何かお弁当やおにぎりを渡したとして、ホームレスじゃなかったらどうするのか……という迷いがわたしの中であったため、そのまま通りすぎてしまったのです。
それでも先を歩いていきながら考えました。今からでも引き返していって、せめて何か買って渡したほうがいいんじゃないか、といったようには。でももしホームレスじゃなかったら?とも思ったため、先を急いでいたこともあり、結果としてはようするに何もしなかったということです。
でも、その時のその方の前を一瞬通りすぎた時に見えたものっていうのは、結構怖かったです。
というのも、コンビ二って色々なものが綺麗にパッケージングされて揃ってますし、その方の手にせめて百円でもあれば、食べ物は何か買うことが出来ます。でもあんなにも効率的な手段によって物の揃っている場所があるのに、そのほんの百円がないゆえに当たり前のように物を買っては人が出て来るのをただじっと見ていなくてはならない……というのは、どれほどのことなんだろうと思ったというか。
その方はそのコンビ二の物凄く近くの柱に寄りかかっていて、物凄い目でじっとそのコンビ二を睨むように見ていたんですよね。それは誰かそこから物を買った人が自分に何かくれないだろうかと待っているようでもあり、以前は自分もああしてなんでも普通に買っていたのに……と、半ば恨んでいるように見える視線でもありました。
今回のタイトルは「存在の乞食」なのですが、ようするに、このホームレスの方と、ただ何もせずに黙って通りすぎたわたしと、果たしてどちらが「存在の乞食」なのかという、そういう話です(^^;)
もちろん、その時一回きり、コンビ二の幕の内弁当とお茶を渡したところで、なんの根本的な解決にもならないとおっしゃる方は多いと思います。でもあれだけ人通りの多い場所で、もし仮に一日に三人、「お弁当を買って渡してあげようかな」という人がいたら、とりあえずその日だけでも凌げるのではないでしょうか。
これももちろん、根本的な解決には程遠いことであるにしても、あれだけ食欲的に今飢えているとはっきり感じるくらいの方を無視して通りすぎたというのは、わたしにとってはかなり胸の痛む出来ごとでした。
そして神さまの目から見た場合、お金を持っている人がお金を持っているからという理由によって乞食でないということはないような気がします。むしろそうした隠れた乞食のほうが、神さまの目にはより惨めな乞食だということがあるでしょうし、ホームレスの方の中には今貧しい生活をせざるをえないがゆえに、神さまが目を留める方が多いのではないだろうか……という気がしたり。
もちろん、だったら「その神さまとやらが彼らを助ければいいじゃないか」、「彼らがここまで生活を落とす前に何故神は彼らを助けなかったのか」という話になるかもしれませんが、個人的にそうしたことは賢い議論とは言えないと思っています。聖書ではイエスさまが十字架にかかった時、「神が彼を助けたらいい。神の子だと言っているのだから」と言って、ローマの兵士がイエスさまのことを嘲弄する場面がありますが、それと似たようなことだと感じるというか(^^;)
ところでその後、わたしがたったの二度ほどおにぎりとお弁当を渡したおじさんは、いつも必ずその場所にいたのに、暫くしてからそこへ行ってみるといなくなっていました。というのも、そのおじさんがいつもいた場所でかなり大規模な工事があって、場所がすごく新しく生まれ変わったんですよね。おそらくそのせいで、行政の方などが「ここは公共の場所だけど、おじさんがいつもいていい場所じゃないんだよ」的に言ったりしたのかなあ、なんて想像し……この時に生活保護を受けるとか、そうした相談窓口へ行くことになって、今は屋根のあるおうちで暮らされてるといいなあと思ったりしたんですよね。。。
ただ、本当に偶然なんですけど、その後ホームヘルパーの資格を取りに某所へ通っていたところ、そこの講師の先生のひとりが、授業でこのおじさんのことに言及していたんですよね。「あなたたちも見たことあるでしょ!?駅の△出口の近くにいるあのおじさんよ!」といったように。それで、このおじさんのことで役所のほうに苦情の電話をかけたということを話していました。この場合の苦情というのはもちろん、役所のほうに「そういう男性がいつも△出口のところにいるのを把握しているか?またもし把握しているとすれば、何故何もしないのか」という、そうした話なんですけど、こうした電話をしたというのはこの先生が初めてというわけではなかったらしく、たぶん福祉課だと思うのですが、そちらのほうでもそのおじさんと話をしにいったことがあるそうです。けれど、「生活保護を受けるのは嫌だ」とのことで、そのままになっているということでした。
このおじさんはもしかしたら、自分のことをとても孤独だと感じているかもしれませんが、人って孤独になりたくても、本当はそう孤独でもないのかな、という気がしなくもなかったり(^^;)おそらくこのおじさんのほうではそんなふうに誰かが気にかけてくれているということについてはあまり意識していないでしょうし、わたし、このおじさんに会って以来ずっとお祈りしているのですが、そんな人間がいるといったようにも考えることはないと思います。
ホームレスの方の中で生活保護を受給するのが嫌だと拒む理由のひとつに、「衣食住がある程度安定したら働かねばならない」ということがあると聞いたことがあります。「そんなの当たり前じゃねえか」と思われるかもしれませんが、個人的に気持ちは物凄くわかります。そもそもホームレスにまでなる過程のひとつに、おそらくは人間関係というのがあり、働くこと自体が嫌だというのではなく、そうした人間同士の摩擦や軋轢に疲れきってホームレスになったのに、また同じ場所へ戻っても同じことが繰り返されるだけ……といった絶望感があるのではないでしょうか。
以前、テレビで元はホームレスだった方々だけで、何か働くといった事業をはじめるところを拝見したことがあったのですが、やっぱり元ホームレスの方同士の間にも人間関係があり、そこから脱落した結果として、またホームレスに戻ったという方がいて、その場面を見ていて「ああ、人間って……」と思ったりもしました
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わたしも何か現実的にホームレスの方を助けるボランティアをしているというわけではないので、何かエラソーなことを言えたりはしないのですが、何か実際的な活動をしていなくても、わたしと同じように「機会があれば助けあえるといい」みたいに感じている方の潜在的な数っていうのはかなりのところ多いと思うんですよね。人生の歯車が二つか三つ噛み合わなくなったら、明日は自分だってホームレス……といったような危機感を感じる方も多いと思いますし、とりあえずはそのうちまたビッグイシューでも買ってみようかなと思っています(^^;)
それではまた~!!
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