神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

でこぼこの十億マイル。

2016年03月09日 | キリスト教
【羊飼いの礼拝】アーニョロ・ブロンズィーノ


 
 救い主ってとても
 すなおな紳士にちがいない
 小さな友達のために
 はるばる寒い日に来るなんて

 ベツレヘムへの道は
 あのひととぼくが子供の頃よりも
 ずっと平らにならされてきた
 でなければまだ でこぼこの十億マイルだ

(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編/思潮社より)


そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」

 この人は預言者イザヤによって、

「荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意し、
 主の通られる道をまっすぐにせよ』」

 と言われたその人である。

(マタイの福音書、第3章1~3節)


<罪>という言葉の原語は、ヘブライ語ではハッタート、ギリシャ語ではハマルティアで、どちらも『的を外す』という意味があるそうです。

 つまり、その人にとって神が望まれたのではない『的を外した生き方』をしていることが<罪>といっていいのではないでしょうか。

 そうした意味でわたしも、随分的を外した生き方をしてきたなあというか、的を外した生き方しかして来なかったのではないかという気さえします

 わたし個人の罪の習性として、神さまの道と、人間的に見て正しく、自分にとって得になるような道が目の前にふたつあった場合――まあ、大抵選ぶのは後者です。実に残念なことに(^^;)

 そして、自分にとってお得な、自分の欲を満たすための道を選んだ結果として、罪の刈り取りが待っているわけですが、あとから「ああ、やっぱり神さまの道を選んでいたら良かったな」と後悔していると、神さまはまた根気強く同じことをしてくださいます。

「さあ、またスタート地点に戻ってきましたよ。今度こそはあなた自身の意志で私の道を選びなさい」といったように。

 ところが、罪の刈り取りの最中に色々苦労したにも関わらず、まるでトムとジェリーのトムが美人猫を目の前にした時のように――またも「自分の欲望第一!!」というようになって同じことを繰り返す……というのを何度繰り返してきたことかと思います(^^;)

 実際、罪の刈り取りというのは苦しいものです。それが「自分が悪い」とわかっていることであれば、「ああ、何故あの時わたしは……」といったような後悔をすることもあるでしょうし、他人や状況から考えて自分には他に選択肢がなかったような場合でも、「本当にそうだっただろうか」などと思い悩むことになるのですから。

 そして、こうした神さまの御前に道が真っ直ぐでない生き方を仮に十億マイルほども押し進めていった場合、一体どうなるのでしょうか。

 まず、人が神さまの御前から離れる過程というのがその前にあるかと思うんですよね。

「毎度毎度神さまの道なんてのを選んでたんじゃ窮屈だし、わしゃもちっと自由ってもんが欲しいのよ☆」と思い、そこならば神さまが見ていないかもしれないと考え(もちろんそんなことはないのですが・笑)、人は深い森の中へと迷いこんでゆきます。

 よくゲームなどで、次は右へ行くか左へ行くか真っ直ぐに行くか――という選択肢を選んで、右へ行ったら宝物があったり左へ行ったら行き止まりだった……みたいことがあるものですが、状況としてはそれととてもよく似ているかもしれません。

 わたしたちはゲーム機のコントローラーを手に持ち、自分たちの人生もまた同じようにコントロールできるし、またコントロールする権利があるとさえ考えます。

 けれど、実際はこの方法によって幸せになれる人というのは数としてそんなに多くないのではないか……という気が、歳を経るにつれてわたしが思うようになってきたことでした(^^;)

 もちろん、「あなたはクリスチャンだからそういう考えなんだよ☆」と多くの方は思うかもしれません。

 でも本当は――道が分かれたところに出るたびごとに神さまに祈り、どちらへ行くべきなのか、それとも暫くここで立ち止まるべきなのかと、聞くべきなのだろうという気がします。けれどやはり、聖霊さまが「右へ行きなさい」と言ってる時でも「えー、でもさっき通りかかった人が「左へ行けば財宝があるって行ってたもん☆」といったようなことによって、左へ曲がってまんまと自分から不幸になる……といったことはよくあることだと思います(^^;)

 そしてこうした生き方を続けていくと、次第に神さまの声というのは聴こえなくなってきますし、祈っても自分に都合の悪いことしか聖霊さまが囁かないので、やがて祈ることもやめ、自分の力、自分の努力の力、自分なりに正しい道を選択して人は生きるようになっていくのではないでしょうか。

 このやり方でも、運のいい人はある程度うまくいくと思います。でもわたしが思うには、数としてはほんの一握りくらいの人のような気がします。大抵の人というのはこのやり方を押し進めていった結果として不幸になったり病気になったり、何かの災いにあったりしているように見える場合が多いというか。。。

 そもそも、人間が神さまから離れて自分独自の道を歩みはじめた時、その先にはきっと幸福があると人間は考えていたと思います。わかりやすい例としては、科学の力がそうかもしれません。人間がここまで進化するまでに、繰り返された残酷な動物実験のことなどを思うと、個人的に「実は自分は原罪に取り囲まれて生活しているのではなかろうか」と思ったことがあります。

 そうした数々の犠牲があって今日、多くの先進国の人々はハイテクな生活を送っていても、「そういう動物実験を行った奴ら自身が悪いのであって、その結果として生まれたものを我々が使うのは至極当然なことだと思うね」という感じなのかもしれません(もちろんこの点、わたしも同罪なのですが^^;)

 けれど、原子力の問題などもそうだと思いますが、人間が神さまから離れ、「わたしたちは自分たちの力だけでここまでのことが出来る」というバベルの塔を打ち立てていった結果として――近ごろはあちこちに<行き止まり>の標識を見かけることが多くなってきたような気がします。

 これはあくまでも仮に、ということなのですが、人間が神さまから離れる道を選んで、そろそろ十億マイルほどの距離に今わたしたちがあるのだとして……わたしたちは科学の力で未開のでこぼこの道を強力なローラーで開発し、整地してきました。

 これをもし人間の人生に例えるとしたら、神さまの道から離れて十億マイルもやって来てしまってわたしはどうしたらいいのだろうという場合、心から悔い改めて祈るなら、その翌日にはそのでこぼこの十億マイルもの道が一気に整えられているかもしれません。

 ようするに、神さまの御前に道を整えるっていうのはそういうことですよね。人間の肉の力、努力の力によっても、確かに道を整地しようと思えばできることにはできるのです。むしろ、こちらのやり方に慣れている方の場合、「えんやこら☆」土木工事して、行き止まりの道さえも樹木をばっさばっさ伐採し、「オラオラ!」とばかり前へと進んでいく……こちらのほうが楽でさえあるかもしれません。

 けれど実際、「そこまでのことをして、最終的に何がどうなるのか」、人は知らないことのほうが多いのではないでしょうか。とりあえず目先の欲望を叶える手段としては、いくらでもどんな労力でも払おう――でもいつか、ゲームの画面でいったとすれば、右に行っても左に行っても真っ直ぐ行ってもすべて行き止まり……という地点が必ず現れるのではないでしょうか。

 そしてもう十億マイルも自分の肉の力や努力の力、あるいは運の力などによってここまで進んできてしまったら、今さら「神さま、助けてください!!」だなんて、ちょっと調子よすぎるかもしれません(^^;)

 でも神さまの偉大なところはそうしたところですよね。そんな愚かな人間を助けるためにこそ、神さまはイエスさまを地上にお遣わしになったのですし、人間の側ではただ、彼が神さまの子であることを告白しさえすれば救いが与えられる……むしろ、「たったのそれだけのことで?」といったような嘘くさささえ感じるくらいかもしれません。

 やはり、ロードローラーを使って自分の道を十億マイルも整地していき、「わたしのこのやり方は絶対正しい。進むべき方角も間違っていない☆」といったような生き方をするより、最初からというか、出来るだけ人生の早い段階で「わたしが何もしなくても信仰の道を選び続けさえすれば、道ははじめからとても真っ直ぐだ」といった生き方に切り替えていったほうが、人は間違いなく幸せになれると思うのです。

 もちろん、こんなことをエラソーに書いてる割に、わたしもしょっちゅう間違えるんですけどね(笑)

 大体三回目くらいまで神さまに聞いて信仰の道を選んだのに、「あー、このあたりでちょっと楽がしてーなー☆」といったようなつまらない怠け心から「あれ?道に迷っちゃった」というようになり、「神さまー、たすけてー」とかお祈りして、また元の道に出る……といったように(←馬鹿すぎ

 実際、人間が何千回この種のことを繰り返し行おうとも、神さまのほうでは何十万回でも聖霊さまを通して助けてくださろうとするということ――このことこそが、神さまの偉大さのひとつに思えてなりません(^^;)

 それではまた~!!





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