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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

主にある霊的祝福。

2019年01月26日 | キリスト教
(画像にある砂漠の樹木はむろの木ではありませんが、むろの木とは杜松(ねず)のことを差すというのを、実は割と最近知りました^^;)


 >>主はこう仰せられる。

「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、
 心が主から離れる者はのろわれよ。

 そのような者は荒地のむろの木のように、
 しあわせが訪れても会うことはなく、
 荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

 主に信頼し、
 主を頼みとする者に
 祝福があるように。

 その人は、水のほとりに植わった木のように、
 流れのほとりに根を伸ばし、
 暑さが来ても暑さを知らず、
 葉は茂って、
 日照りの年にも心配なく、
 いつまでも実をみのらせる」
 
(エレミヤ書、第17章5~8節)


「神になど祈ってなんになる」という方の気持ちが、わたしにもよくわかります(^^;)

 そして、クリスチャン、イエスさまを信じる人々の聖霊さまを通しての祈りというのは、何が違うかというと、やはり、日曜礼拝を守る、十分の一献金を守る、聖書を読み祈る、マーリン・キャロザース先生の神さまへの感謝と賛美を実践する……など、聖書的原則を守る時、明らかにはっきりした違いが現れてくるということだと思います。

 以前、某大型本屋さんでスピリチュアル系の本をぱらぱら☆めくっていると――その中に「祈っている人は運がよくなる」とあって笑ってしまったのですが、祈りというのは、基本的に神さまへの清い捧げもの……という部分が大きいだろうと個人的には思います。

 もちろん、だからといって経済的に困窮している時にそのことを神さまにお願いしてはいけないとか、冷蔵庫が欲しいとかクーラーが欲しいと祈ってはいけないということではなく……「○△さんが明日骨折しますように」といった、人を陥れるタイプの祈り以外についてはなんでも祈っていいわけです。

 そして、聖霊さまを通して祈ることによって、はっきり大きな業を経験することもありますが、日常生活レベルのことについては、何より「思考が祝福される」といった面も大きいと思います。

 このことには、「すべてのことを感謝し、賛美する」というマーリン・キャロザース先生の教えも大きく関わってきますが、たとえば、同じ30度という暑さの中にいても、「暑さを知らず」、「神さま、暑いことを感謝します」と祈ることで――実際に祈りの効果として汗は流れてきてもさほど暑いとは感じない……そうした種類のことはよく経験すると思います。

 わたしは北海道に住んでいますので、冬は「寒いことを感謝します」とよく心に感じるのですが、すると相当寒くても割合平気だったり、全然風邪をひかなかったりします(わたし自身は「風邪をひきませんように」と祈ったことはないのですが、そのかわり他の方の癒しのためにとても祈ってますので、そのように神さまが祝福してくださっていると日々感じています)。

 以前、確か「小さなことにくよくよするな!」という本の中に、「レンガを積む」仕事についてのエピソードがあったと思います。つまり、「地道にちまちま毎日レンガを一個一個積むなんてつまらない仕事だ」と感じる人がいる一方、「毎日レンガを積むことの出来る仕事はなんて楽しいんだろう♪」と思える人とでは、絶対に後者の方のように思えるほうが幸福なわけです(^^;)

 わたしが何より、イエスさまに聖霊さまを通して祈っていて幸せだなと感じるのは、そうした形で思考が祝福されるということもそうですし、ここまでなら「その人の心がけ次第」というだけ、神に祈ってるとかなんとか関係ない、心理学では……といったように色々思われる方もいるでしょう。

 けれども、キリスト教の聖書的原則を働かせた時、それ以外にも「これは神さまのなさったことだ」といった種類の、大小両方を合わせた神さまの愛と恵みと祝福が現れ、結局そのことをまた神さまに祈り感謝し賛美する……といった、幸せのルーティンワークともいうべきものが出来上がると思います。

 そして、そのことを通してわかるのです。イエスさまの十字架を信じてクリスチャンになるということは――「あなたをわたしの瞳のように守る」、「わたしは手のひらにあなたを刻んだ」、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と聖書の御言葉にあるように、「あ、自分は確かに神さまの視界に入っている」と感じられることでもあると思うんですよね。

 わたしのノンクリスチャン時代のことを思っても、「神はいるのかいないのか~」みたいに悩んでいることがありましたけれども、わたしのような塵・あくた・砂(笑)のような存在のものでも、イエスさまは愛をもって「心に留めている」ということを、祈ったり聖書的原則を実践する中で、必ず知らせてくださるのです。

 それは、現代風にいうなら、ラインやメールといった機能に、聖霊さまというネットワークを通して、イエスさまからメッセージがしょっちゅうくるということに似ているかもしれません。

 すると、わたしのほうでは「あ、神さまから連絡きた!祈りを聞いてくださっていたんだ。嬉しいな」となり、ますます祈ったり、神さまを感謝したり賛美するのが嬉しく、楽しくなってくるわけです。

 そして逆に、そうしたことが少なくなる時というのは、わたしが神さま以外のことを第一にしていたり、他のことに心が逸れている時だと思うんですよね

 時々、キリスト教徒、クリスチャンになるというのは、イエスさまと知り合いになる、まずはその連絡先を知ることに似ているのかな、と思ったりすることがあります。神さまが真実平等な方なら、すべての人間に最初からその連絡先を公開すべきだ……と思われる方もたくさんいらっしゃるでしょう。

 また、ある人には知らせて、別の人には知らせないだなんて不平等じゃないか――との論争もあると思います。けれど、自分が一度クリスチャンとなり、まずは「訳がわからない」ながらも、とにかくイエスさまの十字架を信じ、その血が自分のために流されたものであることを告白すると……その後の人生で大きく変化が起きてくると思うんですよね。

 もちろん、常に「神さまに喜び感謝し賛美する」という精神状態でばかりもいられない……という時というのは、誰しもあると思います。けれどもそうした時でも、「チェッ☆」とか「面倒だな」、「なんでわたしばっかり嫌なことが起きるんだろう」、「他の人は運がいいのに、わたしは悪い」――などなど、そうした負の感情についても聖霊さまに預けて、神さまに祈り感謝していくなら……つまり、良いことだけではなく、人生における悪いことをも神さまに委ね感謝していくことで、神さまにとっての最善の御業がわたしたちの人生に現わされてくるというか。

 もっとも、神さまの最善の業とわたしたち自身の人生の方針は異なっている場合が多いですし、そのあたりを自分のほうで合わせていく……つまり、これが神さまに祈り聞き従うの聞き従いの部分なのですが、このあたりについてはなかなか難しく、わたしもよく失敗します(^^;)

 何故といって、やっぱり「自分はこっちの道へ行きたいんだ!」という時、聖霊さまに「そちらへは行かないほうがいいよ。あとで後悔するから」と示されても、自分的には「なんで~?なんで駄目なのよお~。ブツブツ☆」みたいになって、自分の思う道のほうへと進んでいくとか、今まで何度あったかと思うんですよね。。。

 そして、>>「荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む」というほどひどくはなくても、あとから「そっか。神さまはこのことをおっしゃりたかったんだ……」と実際本当に自分で罪の刈り取りをしつつ後悔することになるわけです


 >>私は山に向かって目を上げる。
 私の助けは、どこから来るのだろうか。

 私の助けは、天地を造られた主から来る。

 主はあなたの足をよろけさせず、
 あなたを守る方は、まどろむこともない。

 見よ。イスラエルを守る方は、
 まどろむこともなく、眠ることもない。

 主は、あなたを守る方。
 主は、あなたの右の手をおおう陰。

 昼も、日が、あなたを打つことがなく、
 夜も、月が、あなたを打つことはない。

 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
 あなたのいのちを守られる。

 主は、あなたを、行くにも帰るにも、
 今よりとこしえまでも守られる。

(詩篇121編)


 けれども、聖書的原則を働かせる時(祈り、聞き従う力を正しく働かせる時)――必ず神さまは霊的な祝福を与えてくださるだけでなく、霊肉ともに祝福してくださいます。

 霊的祝福というと、「そんな、目に見えない高尚な理想論だけ話されてもねェ☆」といった向きがあると思いますが、もちろん神さまはわたしたちにとっての肉の必要、たとえば経済的祝福ですとか、目に見える現金、今月分の家賃、家計の食費、光熱費など、そうした肉体的なはっきりと目に見える必要がものすごぉぉく必要であることもご存じなわけです。

 けれども、霊的祝福と肉的祝福とどちらが大切かといえば、やっぱり先に来るのは霊的祝福と個人的には思います。また、神さまはそうした人の子らの気持ちもよくご存じの上で――わたしたちをテストされるんですよね(^^;)

 べつにこれは意地悪☆でしてるっていうわけではなく、どのくらい神さまに信頼して何を捧げ、何を捧げられないのか(本当は霊的な全焼の生贄として、すべてを捧げる必要があるのに)、また何をわたしたちが神さまの御前にケチるのか……そうした信仰の試練を通してわたしたちの心を深く探るところがあるわけです。


 >>するとサムエルは言った。

「主は主の御声に聞き従うことほどに、
 全焼のいけにえや、その他のいけにえを
 喜ばれるだろうか。

 見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
 耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

 まことに、そむくことは占いの罪、
 従わないことは偶像礼拝の罪だ。
 あなたが主のことばを退けたので、
 主もあなたを王位から退けた」

(サムエル記第一、第15章22~23節)


 そして、兄カインに殺されたアベルのように――わたしたちがどのくらい何を喜んで捧げるかを神さまはお知りになりたいわけですよね。創世記のこの部分を読むと、「え!?神さまって何気に不平等じゃね?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、カインはカインで神さまの守りを受け、また別の意味での祝福があり、けれどもそれは自分の欲しいまま、思ったままを行なうといった、そうした延長線上にある道でもあったわけです。

 聖書的原則をいつでも必ず正しく働かせるというのはなかなか難しいことですし、神さまに祈り聞き従い続けることも、なかなかに困難を伴います。けれど、神さまはそのように弱いわたしたちをご存じであればこそ聖霊さまを送ってくださったのですし、わたしたちが何かの罪に躓いても、必ず助けてくださる方でもあるわけです。

 この方に、霊肉すべてを預け、お委ねして人生の道を一緒に進んでいきましょう!

 自分の努力の力で人生を極めることに挫折し、生き方に迷っている時こそ、チャンスです。そうした虚しさを経験し、「何故人は生きるのか」、「なんのために生きるのか」といった根源を見つめることになった時こそ、イエスさまの御言葉が魂・霊・心・精神といったものに沁みとおりやすくもなるのですから……。

 それではまた~!!





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