
(時代錯誤?笑)
>>幸いなことよ。
悪者のはかりごとに歩まず、
罪人の道に立たず、
あざける者の座につかなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、
水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。
悪者は、それとは違い、
まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、
罪人は、正しい者のつどいに立てない。
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。
しかし、悪者の道は滅びうせる。
(詩篇、第1編)
これはあくまで、わたし個人がそう思う、ということなんですけど……聖書全体を読むと、「神さまって悪人に案外寛容なんじゃないかな~
」と思うことがあります。
何分、本当に心から悔い改めた罪については、イエスさまの十字架の血潮ですべて赦していただけるわけですし、また、それが大悪人であればあるほど、悔い改めた時――つまり、イエスさまの愛がどういった意味を持つものであるかがわかった時……もう一生、あなたのことだけを主として崇めます、といったように涙を流して悔い改めるわけですよね
これもまたわたしが思うに、ということなんですけど、
>>わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
(ヨハネの黙示録、第3章15~16節)
と聖書にあるとおり、イエスさまのことを信じてはいるが、信仰熱心でないのなら、むしろ自分が目を留める必要もないくらい、冷めた信仰者であって欲しい、と何故神さまが思われるのか、ちょっとわかる気がしますよね(^^;)
いえ、わたしも自分に心当たりがあるからわかる……ということなんですけど、神さまに祈るが聞き従う気はないっていうこと、あると思うんですよね。日曜礼拝を守ったり、毎日聖書を読んで祈ったり、献金もしたり――それで、「わたし、結構信仰的にがんばってると思うんですよね、神さま。だから、これこれのものをくださいな
」といった自己満足的な信仰を押しつけられるよりは、神さまは自分の道を守り行い聞き従う者であって欲しいと思っておられるわけですから。
でも、神さまの道を踏み行なうつもりのない者でも、「イエスの御名によって祈る者」のことというのは見捨てるわけにもいきませんし、旧約時代のイスラエルの人々が「出来る限りの悪を行ないつつ、『でも私は神に戻る』」と言っていたように……こうした偶像礼拝、またそうしたものに付随して神さまから外れた道を歩む者であっても、
>>彼のむさぼりの罪のために、
わたしは怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。
しかし、彼はなおそむいて、
自分の思う道を行った。
わたしは彼の道を見たが、彼を癒そう。
わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、
慰めを報いよう。
(イザヤ書、第57章17~18節)
と、神さまは御自身の愛にかけて守ってくださる方なわけですから……。
そして、神さまのおっしゃる<悪>というのは、そうしたことなのかなって思ったりします。
旧約聖書の十戒はとても有名と思いますが、
1.主が唯一の神であること。
2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)。
3.神の名をみだりに唱えてはならないこと。
4.安息日を守ること。
5.父母を敬うこと。
6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺すなかれ)。
7.姦淫をしてはいけないこと。
8.盗んではいけないこと。
9.隣人について偽証してはいけないこと。
10.隣人の財産を貪ってはいけないこと。
大体、6~10の戒めについては、多くの方が頷かれることと思います
殺人・姦淫(不倫など)・盗み・偽証(嘘)の禁止、他人の財産を騙しとる……などは、あえてそう言われなくても、「そりゃそーだろ
」と誰しも納得されることだと思います。
ただ、1~5のうち、5はもちろんわかるにしても、1~4はクリスチャン、キリスト教徒以外の方にとっては「なんでそーなの?
」っていう感じのことだと思うんですよね(^^;)
それでも、もしそれがキリスト教で言うところの神でなかったとしても(わたしにはこの方以外に神はないのですが)、もしそのような宇宙・万物・天地創造の主がおられた場合、「あなたこそ神です!
」となると思いますし、これがまず1番目の戒めということ。
そして、この方を神と認めつつ、「いや、わたしは仏陀とマホメットも神である可能性があると思ってるから、キリスト教の神だけが神というのでなく、そちらの神も拝んで運気倍増♪」といったような、「主こそ唯一の神」と言いながら、他の神の神殿を拝んだり、お守りを身に着けたり、道祖神その他、色んな神さまのことをちょっとずつ信仰してるとか、そういうのが偶像崇拝の罪ということなんですよね。
事実、このような戒めがあり、さらに偶像礼拝を行なうたびに神さまからの裁きがあったにも関わらず、旧約時代のイスラエルの人々は「主こそ神」という信仰に立ち切ることが出来ず、その心は虚しい偶像に心乱され、そちらに迷わされがちでした(そして、主への信仰に立ち続けた人々だけが祝福されたのです)。
「神の名をみだりに唱えてはならない」、これは字義通りの意味の他に、主の名をみだりに唱えて誓いを立ててはならないの意、ということでもあったと思います。つまり、もし仮にわたしが「主の御名によってこれこれのことを必ず行なうと誓う」と言ったとしても、それが実行できればいいですけど……「わたしは今年、必ずごしゃくまんえん神さまに捧げることを、主の御名によって誓います
」と、わたしが年頭に誓ったとしても、その後なんやかんやあって捧げられなかったとしたら――よほどの宗教的熱意を持って、「必ず絶対それを行ないます」と言えない限りは、主の御名によって軽々しく誓わないほうがよい……ということになるのではないでしょうか(主の御名は聖であり、その聖なる御名にかけて誓った以上、あなたは必ずそれを行なわなければならない、ということですよね)。
>>神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。
誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。
あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。使者の前で「あれは過失だ」と言ってはならない。神が、あなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。
(伝道者の書、第5章4~6節)
そして第四戒、安息日というのは日曜日のことですが、これは天地創造の際、七日目に神さまが休まれたことの記念ですが、もちろん、イエスさまが復活されたことを祝い、毎週信徒たちが礼拝を守る、ということでもあります。
以前、「毎週日曜日に礼拝を守らなかったら地獄へ行くとか、極端すぎない?」、「流石に毎週はちょっとねえ。人とのつきあいもあるし
」といった意見を聞いたことがあります。=そんなふうに強制してくる神って、ちょっとおかしいんじゃない?、また、その神さまが真実本当の神なら、人には色々な事情もあることを鑑みて、ある程度融通を利かせるべきだ……といったことだったと思います。
でも、このあたりは自分的には信者としてあくまで「体験の領域」と思います(^^;)
「教会へなんか、行っても行かなくても、俺の人生変わらないよ
」、「以前誘われて通ったこともあったけど、よく意味わかんなかった
」など、人によって事情は色々あるかもしれません。
でも、自分的に(それがインターネット礼拝といった形でも)、真摯に神さまのために時間を取って日曜礼拝を守ると……結局、それが聖霊さまが一番お喜びになることだと、実感を通してよくわかるのです。また、聖霊さまは毎日24時間眠りもせず、わたしたち主の御名を信じる者に良くしてくださるわけですが、これほど良くしてくださる方に何かお返ししようにも、聖霊さまが喜ぶことといったら、日曜礼拝を守ることや神さまに感謝し賛美することや、喜びの心をもって清い捧げものとしての献金をすることとか……結局、他には何もないんですもの(^^;)
この神さまからの聖霊さまを通しての祝福の循環をもし感じられなかったとすれば――やっぱりわたしも思ったかもしれません。「教会へなど行ってなんになるのだろう
」と。
>>神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
(エペソ人への手紙、第1章20~23節)
さて、神さま、あるいは聖書における<悪人>ということですが、これはこうした十戒を気にも留めず、どれでも簡単に破る者……ということなのではないでしょうか。
また、逆に、一度クリスチャンになると、「1~10まで十戒を守るだなんて、あったり前田のクラッカーじゃな~い?
」(古っ☆)みたいにもなるわけですが、わたし自身はこの1~10をすべて守るためには、神さまの聖霊さまによる守りが必要不可欠と、いつもそのように思っています(^^;)
いえ、一度イエスさまのことを信じた身となると、神社仏閣等に神はいないとわかりますので、たとえば「イスラム教の寺院へ観光へ行ってみようかしら?
」なんて思うこともなくなるわけですが(いえ、昔はそうした世界遺産のすべてに行ってみたいと思っておったとですよ!笑)、偶像って、他にも色々ありますからね(^^;)
つまり、心の中のランクとして、神さまのことよりも仕事のことが第一に来る、あるいはお金や預金通帳のほうがよほど大事だ
……また、仕事やお金のことを第一にして初めて生活が成り立つのだし、献金もできる――というのは、実は神さまの御前に不信仰と受け止められることなんですよね
何故といって、神の国と神の義を第一とする時、それ以外のわたしたちの必要は必ず満たされるわけですから……このあたりが中途半端だと、やっぱりあまり神さまの愛を実感しないとか、中途半端に祝福されるとか、一番痒いところに手が届かなくても仕方がない、だってわたしも神さまが<ここ>と言われるポイントを外してるんだから――みたいな信仰生活になるわけです。。。
結局のところ、神さまが悪人に寛容なのは、「真実の悔い改めに進んだ時、それは中途半端に主の道を守り行なっている信仰者よりも、物凄いエネルギーによって神さまのことを熱烈に愛するようになる」、その機会が残されているためなのかな~って時々思ったりします(あくまでも私見、ということですけど^^;)。
なんにしてもわたしたちは、詩篇などでよく悪人と対比されている善い信仰者であり続けましょう!(笑)
それではまた~!!
>>幸いなことよ。
悪者のはかりごとに歩まず、
罪人の道に立たず、
あざける者の座につかなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、
水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。
悪者は、それとは違い、
まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、
罪人は、正しい者のつどいに立てない。
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。
しかし、悪者の道は滅びうせる。
(詩篇、第1編)
これはあくまで、わたし個人がそう思う、ということなんですけど……聖書全体を読むと、「神さまって悪人に案外寛容なんじゃないかな~

何分、本当に心から悔い改めた罪については、イエスさまの十字架の血潮ですべて赦していただけるわけですし、また、それが大悪人であればあるほど、悔い改めた時――つまり、イエスさまの愛がどういった意味を持つものであるかがわかった時……もう一生、あなたのことだけを主として崇めます、といったように涙を流して悔い改めるわけですよね

これもまたわたしが思うに、ということなんですけど、
>>わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
(ヨハネの黙示録、第3章15~16節)
と聖書にあるとおり、イエスさまのことを信じてはいるが、信仰熱心でないのなら、むしろ自分が目を留める必要もないくらい、冷めた信仰者であって欲しい、と何故神さまが思われるのか、ちょっとわかる気がしますよね(^^;)
いえ、わたしも自分に心当たりがあるからわかる……ということなんですけど、神さまに祈るが聞き従う気はないっていうこと、あると思うんですよね。日曜礼拝を守ったり、毎日聖書を読んで祈ったり、献金もしたり――それで、「わたし、結構信仰的にがんばってると思うんですよね、神さま。だから、これこれのものをくださいな

でも、神さまの道を踏み行なうつもりのない者でも、「イエスの御名によって祈る者」のことというのは見捨てるわけにもいきませんし、旧約時代のイスラエルの人々が「出来る限りの悪を行ないつつ、『でも私は神に戻る』」と言っていたように……こうした偶像礼拝、またそうしたものに付随して神さまから外れた道を歩む者であっても、
>>彼のむさぼりの罪のために、
わたしは怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。
しかし、彼はなおそむいて、
自分の思う道を行った。
わたしは彼の道を見たが、彼を癒そう。
わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、
慰めを報いよう。
(イザヤ書、第57章17~18節)
と、神さまは御自身の愛にかけて守ってくださる方なわけですから……。
そして、神さまのおっしゃる<悪>というのは、そうしたことなのかなって思ったりします。
旧約聖書の十戒はとても有名と思いますが、
1.主が唯一の神であること。
2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)。
3.神の名をみだりに唱えてはならないこと。
4.安息日を守ること。
5.父母を敬うこと。
6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺すなかれ)。
7.姦淫をしてはいけないこと。
8.盗んではいけないこと。
9.隣人について偽証してはいけないこと。
10.隣人の財産を貪ってはいけないこと。
大体、6~10の戒めについては、多くの方が頷かれることと思います

殺人・姦淫(不倫など)・盗み・偽証(嘘)の禁止、他人の財産を騙しとる……などは、あえてそう言われなくても、「そりゃそーだろ

ただ、1~5のうち、5はもちろんわかるにしても、1~4はクリスチャン、キリスト教徒以外の方にとっては「なんでそーなの?

それでも、もしそれがキリスト教で言うところの神でなかったとしても(わたしにはこの方以外に神はないのですが)、もしそのような宇宙・万物・天地創造の主がおられた場合、「あなたこそ神です!

そして、この方を神と認めつつ、「いや、わたしは仏陀とマホメットも神である可能性があると思ってるから、キリスト教の神だけが神というのでなく、そちらの神も拝んで運気倍増♪」といったような、「主こそ唯一の神」と言いながら、他の神の神殿を拝んだり、お守りを身に着けたり、道祖神その他、色んな神さまのことをちょっとずつ信仰してるとか、そういうのが偶像崇拝の罪ということなんですよね。
事実、このような戒めがあり、さらに偶像礼拝を行なうたびに神さまからの裁きがあったにも関わらず、旧約時代のイスラエルの人々は「主こそ神」という信仰に立ち切ることが出来ず、その心は虚しい偶像に心乱され、そちらに迷わされがちでした(そして、主への信仰に立ち続けた人々だけが祝福されたのです)。
「神の名をみだりに唱えてはならない」、これは字義通りの意味の他に、主の名をみだりに唱えて誓いを立ててはならないの意、ということでもあったと思います。つまり、もし仮にわたしが「主の御名によってこれこれのことを必ず行なうと誓う」と言ったとしても、それが実行できればいいですけど……「わたしは今年、必ずごしゃくまんえん神さまに捧げることを、主の御名によって誓います


>>神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。
誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。
あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。使者の前で「あれは過失だ」と言ってはならない。神が、あなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。
(伝道者の書、第5章4~6節)
そして第四戒、安息日というのは日曜日のことですが、これは天地創造の際、七日目に神さまが休まれたことの記念ですが、もちろん、イエスさまが復活されたことを祝い、毎週信徒たちが礼拝を守る、ということでもあります。
以前、「毎週日曜日に礼拝を守らなかったら地獄へ行くとか、極端すぎない?」、「流石に毎週はちょっとねえ。人とのつきあいもあるし

でも、このあたりは自分的には信者としてあくまで「体験の領域」と思います(^^;)
「教会へなんか、行っても行かなくても、俺の人生変わらないよ


でも、自分的に(それがインターネット礼拝といった形でも)、真摯に神さまのために時間を取って日曜礼拝を守ると……結局、それが聖霊さまが一番お喜びになることだと、実感を通してよくわかるのです。また、聖霊さまは毎日24時間眠りもせず、わたしたち主の御名を信じる者に良くしてくださるわけですが、これほど良くしてくださる方に何かお返ししようにも、聖霊さまが喜ぶことといったら、日曜礼拝を守ることや神さまに感謝し賛美することや、喜びの心をもって清い捧げものとしての献金をすることとか……結局、他には何もないんですもの(^^;)
この神さまからの聖霊さまを通しての祝福の循環をもし感じられなかったとすれば――やっぱりわたしも思ったかもしれません。「教会へなど行ってなんになるのだろう

>>神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
(エペソ人への手紙、第1章20~23節)
さて、神さま、あるいは聖書における<悪人>ということですが、これはこうした十戒を気にも留めず、どれでも簡単に破る者……ということなのではないでしょうか。
また、逆に、一度クリスチャンになると、「1~10まで十戒を守るだなんて、あったり前田のクラッカーじゃな~い?

いえ、一度イエスさまのことを信じた身となると、神社仏閣等に神はいないとわかりますので、たとえば「イスラム教の寺院へ観光へ行ってみようかしら?

つまり、心の中のランクとして、神さまのことよりも仕事のことが第一に来る、あるいはお金や預金通帳のほうがよほど大事だ



何故といって、神の国と神の義を第一とする時、それ以外のわたしたちの必要は必ず満たされるわけですから……このあたりが中途半端だと、やっぱりあまり神さまの愛を実感しないとか、中途半端に祝福されるとか、一番痒いところに手が届かなくても仕方がない、だってわたしも神さまが<ここ>と言われるポイントを外してるんだから――みたいな信仰生活になるわけです。。。
結局のところ、神さまが悪人に寛容なのは、「真実の悔い改めに進んだ時、それは中途半端に主の道を守り行なっている信仰者よりも、物凄いエネルギーによって神さまのことを熱烈に愛するようになる」、その機会が残されているためなのかな~って時々思ったりします(あくまでも私見、ということですけど^^;)。
なんにしてもわたしたちは、詩篇などでよく悪人と対比されている善い信仰者であり続けましょう!(笑)
それではまた~!!

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