
【ヨブ】レオン・ボナ
>>人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、
これに御心を留められるとは。
また、朝ごとにこれを訪れ、
そのつどこれをためされるとは。
いつまで、
あなたは私から目をそらされないのですか。
つばをのみこむ間も、
私を捨てておかれないのですか。
私が罪を犯したといっても、
人を見張るあなたに、
私は何ができましょう。
なぜ、私をあなたの的とされるのですか。
私が重荷を負わなければならないのですか。
どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、
私の不義を除かれないのですか。
今、私はちりの中に横たわります。
あなたが私を捜されても、
私はもうおりません。
(ヨブ記、第7章17~21節)
今回は、ヨブ記の一節からお話を進めてみたいと思います

また、ヨブ記については、「マーリン・キャロザースさんの感謝と賛美の教え-【5】-」、「功利的信仰」の記事などを御参照くださいm(_ _)m
神の人ヨブは、第7章17節で「人とは何者なのでしょう」とつぶやいているわけですが、詩篇の第8編にて、ダビデも同じことを言っています。
>>あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれに心を留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。
すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
(詩篇、第8編3~8節)
さらにダビデは、同じく詩篇139編の中で、こう言って神さまを褒め称えています。
>>それはあなたが私の内臓を造り、
母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
私は感謝します。
あなたは私に、奇しいことをなさって
恐ろしいほどです。
私のたましいは、それをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、
私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
あなたの目は胎児の私を見られ、
あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
私のために作られた日々が、
しかも、その一日もないうちに。
神よ。あなたの御思いを知るのは
なんとむずかしいことでしょう。
その総計は、なんと多いことでしょう。
それを数えようとしても、
それは砂よりも数多いのです。
私が目ざめるとき、
私はなおも、あなたとともにいます。
(詩篇、第139編13~18節)
ヨブもまた、ダビデと同じように神さまから祝福された人でした。
また、神さまから祝福され与えられた多くの息子や娘、あるいは財産的なものを失っても……ヨブはつぶやかず、「神は与え、神はとられる。主の御名はほむべきかな」と言って罪を犯さなかったと言います。
けれども、頭のてっぺんから足の裏まで腫物で打たれ、それまで自分を敬っていた人々までもが離れ去っていった時――ヨブは初めて神さまに対して疑問を持ったのでした。「神さま、何故わたしをこんな目に遭わせるのですか」と……。
そして、つばを飲み込む間もあなたがわたしから目を離さず、わたしを責め立てられることにわたしは疲れた、また、そのようにされて耐えうる人間など地上にはひとりもいないのに、何故わたしをこんな目に遭わせるのですか。それならば主よ、むしろわたしから目を離して放っておいてください……といった主旨のことをヨブは言っています。
誰だって、ヨブと同じようにされたら、彼とまったく同じようになってしまうと思うのですが
、普通に考えたとしたら、神さまが目を留めてくださっている状態というのは、本来ならばダビデの言うように祝福のはずなのです。ダビデは言っています。「あなたは私に奇しいことをなさって、おそろしいほどです」と。
けれど、実はこれはダビデにまったく罪がなかったから神さまはダビデに目を留めた……ということではないんですよね。神さまはダビデのことを主と心をひとつにする「聞き従いの器」であると見たからこそ、彼のことを祝福されたのだろうと思います。
つまり、ダビデの罪に目を留めず、イエスさまの十字架の血潮の力によって今現在キリスト教徒たちの罪が赦されているのと同じように、そのような目線でダビデのことを見ておられたのだと思います。
聖書は言います。
「わたしはあなたを自分の瞳のように守った」、「わたしはあなたを手のひらに刻んだ」と。
ところが、サタン(悪魔)の攻撃にあうという試練を受けた時、ヨブは初めて神さまのことを疑い、つぶやいてしまいました(もちろん、それも無理のないことです
)。
つまり、これは神さまが自分の罪に目を留めた結果起きた災厄であると思い、神さまが罪にのみ一心に目を注いでどんな小さな罪も逃さず一回一回注意し罰を与えるなら、それなら神さまに目を留められるというのは祝福ではなく、むしろ呪いだと言っているのです。
そしてヨブは、自分にどんな罪があったからこんな目に遭わせるのですかと神さまに訊ねているわけですが……彼に架空の罪を設定して責める友の声以外、答えらしきものはありませんでした。
ヨブは友人のエリファズ、ビルダデ、ツォファルとこのことについて長く問答するわけですが、その中でヨブは>>私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ(ヨブ記、第19章25~27節)と言っています。
ヨブの思想がここまで深まるのに、ヨブの三人の友人らの心ない言葉もまるで無駄ということもなかったのかどうか……とにかく、このヨブ記の句には、自分的に全人類の苦悩のすべてが込められているような気さえするのです。
つまり、クリスチャンの方もノンクリスチャンの方も、ヨブのように「もし本当に神がいるのなら、何故こんな目に私を遭わせるのか」といったことって、人生で必ず出会うものですよね。そして肉体から皮をはがされるような苦悩を経験してのち、私たちは最後に知ることが出来るのかもしれない。「そのような苦悩や苦難が決して無駄ではなく、神にとっては実は意味のあるものだった」ということを……もちろん、私たち人間の肉の思いは語ります。「いや~、そんなこと死んだあとに知らされたってねえ
」といったように。けれどもし、それが死んでからであってさえも、あるいは死ぬ間際のギリギリであってからでも――「自分のこの目」、ヨブ記の文脈としては「肉の目」ということかもしれませんが、これは魂の目といってもいいのではないでしょうか(このあたりの神学的なことについては、元のヘブライ語まで細かく訳す必要があるでしょうけれども、わたし個人の日本語訳聖書を読んでの印象、ということだと思ってください^^;)
とにかく、わたしたちがいつか「魂の目」で神さまのことを見上げることが出来たとしたら……まあ、地上て起きた苦難や苦痛のことなど当然忘れ、ヨブ記の最後がそうであるように、ただ神さまのことを、神さまが本当にいらっしゃった、そしてその方は我が罪を贖ってくださる方だと知ることが出来ただけで――もう十分満足してしまうのではないでしょうか。
でも、ヨブは「今わたしはそうではない」と言っているわけです。頭のてっぺんから足の裏まで腫物で打たれているわけですから、この肉体というものを持つ以上味わわねばならない苦しみや悩みを飽き飽きしながらヨブは眺めているわけです。
そしてこの続きの句は、
>>もし、あなたがたが、
事の原因を私のうちに見つけて、
「彼をどのようにして追いつめようか」
と言うなら、
あなたがたは剣を恐れよ。
その剣は刑罰の憤りだから。
これによって、あなたがたは
さばきのあることを知るだろう。
(ヨブ記、第19章28~29節)
と続きます。
ようするに、自分の苦悩がどれほど深いかも知らず、自分が犯してもいない罪を押しつけてきた(あなたは罪の結果、今そのような目に遭っているとの友人らの弁)とんちんかんな友人たちも、あとになってから「本当のこと」を知るだろう……その時、あなたたちは神によって罰を免れまいとヨブは言っているわけです。
心も行いも清かったヨブが、悪魔(サタン)の介入により、ここまでのことを口にして言わねばならぬほど追い詰められている――ヨブ記を読むと、つくづく自分の身とも照らしあわせて、胸が苦しくなってしまいます。
結論からいうと、こののちヨブは神さまの顕現により、自らの間違いを認め(自分の正しさを主張し、そのことによりヨブはだんだん高慢になり、この件で神と言い争っても自分は勝てるというくらいに高ぶってきていました。これもまた無理のないことだとわたしは思うんですけど
)、最終的に以前の二倍以上も祝福され、またヨブに的外れだったり、架空の罪を設定して責めた友人三人は、神さまの命令により全焼の生贄を捧げ、ヨブが祈ることにより、彼らの罪もまた赦されるということになります。
もっとも、わたしも最初にヨブ記を読んだ時には終わり方に若干の不満感があったものでした(心理学者ユングの著書に、「ヨブへの答え」という本があるのですが、それとまったく同質の疑問を持ったということです)。けれども、ヨブ記は読めば読むほど、「神さまの聖さ、正しさ」について教えられますし、また何度読んでも詩篇と同じく、心に慰めと癒しと喜びと共感の溢れる、本当に素晴らしい書だと思うんですよね。
聖書の分厚さに「オーマイガッ!!
」となる方でも、すべての地上の悩める方に、ヨブ記は本当にお薦めです。聖書の中のこの部分からだけでも読んでみていただけたら……とそう思うくらいに

それではまた~!!
>>人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、
これに御心を留められるとは。
また、朝ごとにこれを訪れ、
そのつどこれをためされるとは。
いつまで、
あなたは私から目をそらされないのですか。
つばをのみこむ間も、
私を捨てておかれないのですか。
私が罪を犯したといっても、
人を見張るあなたに、
私は何ができましょう。
なぜ、私をあなたの的とされるのですか。
私が重荷を負わなければならないのですか。
どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、
私の不義を除かれないのですか。
今、私はちりの中に横たわります。
あなたが私を捜されても、
私はもうおりません。
(ヨブ記、第7章17~21節)
今回は、ヨブ記の一節からお話を進めてみたいと思います


また、ヨブ記については、「マーリン・キャロザースさんの感謝と賛美の教え-【5】-」、「功利的信仰」の記事などを御参照くださいm(_ _)m
神の人ヨブは、第7章17節で「人とは何者なのでしょう」とつぶやいているわけですが、詩篇の第8編にて、ダビデも同じことを言っています。
>>あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれに心を留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。
すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
(詩篇、第8編3~8節)
さらにダビデは、同じく詩篇139編の中で、こう言って神さまを褒め称えています。
>>それはあなたが私の内臓を造り、
母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
私は感謝します。
あなたは私に、奇しいことをなさって
恐ろしいほどです。
私のたましいは、それをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、
私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
あなたの目は胎児の私を見られ、
あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
私のために作られた日々が、
しかも、その一日もないうちに。
神よ。あなたの御思いを知るのは
なんとむずかしいことでしょう。
その総計は、なんと多いことでしょう。
それを数えようとしても、
それは砂よりも数多いのです。
私が目ざめるとき、
私はなおも、あなたとともにいます。
(詩篇、第139編13~18節)
ヨブもまた、ダビデと同じように神さまから祝福された人でした。
また、神さまから祝福され与えられた多くの息子や娘、あるいは財産的なものを失っても……ヨブはつぶやかず、「神は与え、神はとられる。主の御名はほむべきかな」と言って罪を犯さなかったと言います。
けれども、頭のてっぺんから足の裏まで腫物で打たれ、それまで自分を敬っていた人々までもが離れ去っていった時――ヨブは初めて神さまに対して疑問を持ったのでした。「神さま、何故わたしをこんな目に遭わせるのですか」と……。
そして、つばを飲み込む間もあなたがわたしから目を離さず、わたしを責め立てられることにわたしは疲れた、また、そのようにされて耐えうる人間など地上にはひとりもいないのに、何故わたしをこんな目に遭わせるのですか。それならば主よ、むしろわたしから目を離して放っておいてください……といった主旨のことをヨブは言っています。
誰だって、ヨブと同じようにされたら、彼とまったく同じようになってしまうと思うのですが

けれど、実はこれはダビデにまったく罪がなかったから神さまはダビデに目を留めた……ということではないんですよね。神さまはダビデのことを主と心をひとつにする「聞き従いの器」であると見たからこそ、彼のことを祝福されたのだろうと思います。
つまり、ダビデの罪に目を留めず、イエスさまの十字架の血潮の力によって今現在キリスト教徒たちの罪が赦されているのと同じように、そのような目線でダビデのことを見ておられたのだと思います。
聖書は言います。
「わたしはあなたを自分の瞳のように守った」、「わたしはあなたを手のひらに刻んだ」と。
ところが、サタン(悪魔)の攻撃にあうという試練を受けた時、ヨブは初めて神さまのことを疑い、つぶやいてしまいました(もちろん、それも無理のないことです

つまり、これは神さまが自分の罪に目を留めた結果起きた災厄であると思い、神さまが罪にのみ一心に目を注いでどんな小さな罪も逃さず一回一回注意し罰を与えるなら、それなら神さまに目を留められるというのは祝福ではなく、むしろ呪いだと言っているのです。
そしてヨブは、自分にどんな罪があったからこんな目に遭わせるのですかと神さまに訊ねているわけですが……彼に架空の罪を設定して責める友の声以外、答えらしきものはありませんでした。
ヨブは友人のエリファズ、ビルダデ、ツォファルとこのことについて長く問答するわけですが、その中でヨブは>>私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ(ヨブ記、第19章25~27節)と言っています。
ヨブの思想がここまで深まるのに、ヨブの三人の友人らの心ない言葉もまるで無駄ということもなかったのかどうか……とにかく、このヨブ記の句には、自分的に全人類の苦悩のすべてが込められているような気さえするのです。
つまり、クリスチャンの方もノンクリスチャンの方も、ヨブのように「もし本当に神がいるのなら、何故こんな目に私を遭わせるのか」といったことって、人生で必ず出会うものですよね。そして肉体から皮をはがされるような苦悩を経験してのち、私たちは最後に知ることが出来るのかもしれない。「そのような苦悩や苦難が決して無駄ではなく、神にとっては実は意味のあるものだった」ということを……もちろん、私たち人間の肉の思いは語ります。「いや~、そんなこと死んだあとに知らされたってねえ

とにかく、わたしたちがいつか「魂の目」で神さまのことを見上げることが出来たとしたら……まあ、地上て起きた苦難や苦痛のことなど当然忘れ、ヨブ記の最後がそうであるように、ただ神さまのことを、神さまが本当にいらっしゃった、そしてその方は我が罪を贖ってくださる方だと知ることが出来ただけで――もう十分満足してしまうのではないでしょうか。
でも、ヨブは「今わたしはそうではない」と言っているわけです。頭のてっぺんから足の裏まで腫物で打たれているわけですから、この肉体というものを持つ以上味わわねばならない苦しみや悩みを飽き飽きしながらヨブは眺めているわけです。
そしてこの続きの句は、
>>もし、あなたがたが、
事の原因を私のうちに見つけて、
「彼をどのようにして追いつめようか」
と言うなら、
あなたがたは剣を恐れよ。
その剣は刑罰の憤りだから。
これによって、あなたがたは
さばきのあることを知るだろう。
(ヨブ記、第19章28~29節)
と続きます。
ようするに、自分の苦悩がどれほど深いかも知らず、自分が犯してもいない罪を押しつけてきた(あなたは罪の結果、今そのような目に遭っているとの友人らの弁)とんちんかんな友人たちも、あとになってから「本当のこと」を知るだろう……その時、あなたたちは神によって罰を免れまいとヨブは言っているわけです。
心も行いも清かったヨブが、悪魔(サタン)の介入により、ここまでのことを口にして言わねばならぬほど追い詰められている――ヨブ記を読むと、つくづく自分の身とも照らしあわせて、胸が苦しくなってしまいます。
結論からいうと、こののちヨブは神さまの顕現により、自らの間違いを認め(自分の正しさを主張し、そのことによりヨブはだんだん高慢になり、この件で神と言い争っても自分は勝てるというくらいに高ぶってきていました。これもまた無理のないことだとわたしは思うんですけど

もっとも、わたしも最初にヨブ記を読んだ時には終わり方に若干の不満感があったものでした(心理学者ユングの著書に、「ヨブへの答え」という本があるのですが、それとまったく同質の疑問を持ったということです)。けれども、ヨブ記は読めば読むほど、「神さまの聖さ、正しさ」について教えられますし、また何度読んでも詩篇と同じく、心に慰めと癒しと喜びと共感の溢れる、本当に素晴らしい書だと思うんですよね。
聖書の分厚さに「オーマイガッ!!



それではまた~!!

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