
(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)
ずっとマクベスのことを書いてきたのですが、その間にちょっと思うことがあったので、今回はそのことをと思いますm(_ _)m
マクベスが己の良心に恥じることのない人生から転落してしまったのは何故かといえば、魔女と奥方のマクベス夫人のせいだった……というあたり、聖書の原罪に通じるところがあってとても面白いというか、「流石はシェイクスピアだなあ」といったところなのですが、作中でマルコムが語っているように、<ありとあらゆる悪の根>というものは、わたしたち人間ひとりひとりに確かに植えつけられているものだと思うんですよね。
それが芽をだし、どの程度まで成長するか、あるいはまったく成長しないのか、それともそのような芽が出てくるたびに摘み取るのか――人によって違いはあれども、やっぱりマクベスのように何かの出来事の重なりあいによって、それが成長して蕾となり、やがて花開き、宿主の生命を吸いつくす……ということは実際にあることだと思います。
そして、マクベスの何が悪かったといえば、やはりダンカン王殺害後のどこかで悔い改めるべきところを悔い改めなかった……ということだと思うのですが、その一方で読み手としてはこうも感じるわけです。自分もマクベスと同じ立場に置かれたら、おそらくは神に呪いの言葉と唾を吐きかけこそすれ、やはり悔い改めるのは難しかったろうな、と。
また、一度悪霊的な力が人に取り憑いてしまうと、まともな思考回路が損なわれてしまうということがあるので、そうした意味でもマクベスは気の毒であったように思います
けれど、もしマクベスが己の罪深い状態を悔い改めていたとすれば……どうだったのでしょうか。
わたしたちも人殺しというほどの大罪ではなかったにしても、日常的に何がしかの罪といったものを抱えて生きているのが普通ですよね。そしてその中で自分の心がけが悪かったがゆえに、自業自得の墓穴に陥ることもあれば、自分はあまり悪くないのに、周囲の人間関係の何がしかに巻き込まれ、そのことが常に頭から離れてゆかないなど、人の罪深い状態といったものには色々な形態があるかと思います。
そして、ここのブログは<キリスト教関係>のことを扱ったブログですので、キリスト教的価値観に沿ってお話を進めるとしますと、神様はどの程度までなら、人間の失敗を許されるのかということについて、今回は見ていきたいと思いますm(_ _)m
失敗しても
失敗しても
失敗しても
失敗しても
失敗しても
失敗しても
失敗しても
失敗しても
失敗しても
神さまは、人間が何度失敗して罪を重ね、人生で躓いても、その人が真に悔い改めるなら、助けてくださいます。
わたしが自分の人生と照らし合わせて思うに――上の緑色三行の失敗くらいまでなら、人間的努力の力でカバーできる気がするし、実際その範囲内の努力でなんとかなる……というのなら、のちにそのことを「自分は失敗してもいかに立ち直ったか」とでも言って、人に不幸自慢して歩けるくらいかもしれません。
でも次の、青色三行あたりから、人間的努力の力や忍耐・我慢の力といったものはどんどんあやしくなってくる気がします。
そして青色の2~3行目あたりから、神や自分の運命を呪ったり、人によっては自暴自棄になるあまり、犯罪を犯すであるとか、あるいは鬱病になったり自殺を考えはじめる……といった段階に差しかかるかもしれません。
最後の赤色三行――ここは、二段目の青色三行で人が行なったことが現れる段階かもしれません。人によっては人生の嫌なことを忘れるため、アルコール中毒や麻薬中毒になっているかもしれませんし、ひどかった場合は刑務所に入っている可能性すらあります。
また、自殺したけれども死に切れず、これからどうしようと途方に暮れたり、何か精神疾患で入院するというのもこのゾーンであり、もはや自分には生きている価値も値打ちもない……と、諦めきっているかもしれません。
この赤色あたりまで行ってしまうと、もう人間的な努力の力ではどうにもならないと思います。もはや事は人の力でどうにかなる・出来る範囲を越えているのですから――もう神さまにでも縋ってどうにかしてもらう以外にはどうにも出来ない段階と言っていいと思います。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
(イザヤ書、第43章4節)
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。
(ローマ人への手紙、第8章28節)
聖書の御言葉というのは、信者にとっての心の燈し火であり、人生上の問題についての解決も、神さまの御言葉を適応させることで、祈って神さまに聞き従うことでやがて解決を見る――というのが、キリスト教信者、クリスチャンにとっての基本といっていいと思うんですよね。
人は赤色ゾーンにまで落ちてしまったとすれば、もはや神さまが自分を高価で尊い、愛してくださっている……とはとても思えないでしょうし、自分の人生上の愚かな失敗の数々が今後何かの役に立つとも思えないかもしれません。
けれど、神さまの御言葉は真実で正しいものですから、こうした聖書の御言葉を握って人生に適応させていく時――間違いなく何かが変わってくると思います。
個人的に思うのは、まずこの時最初にわいてくる感情は希望、ということかもしれません。
神さまの御言葉を握って聞き従いはじめたところで、たとえば、抱えている問題が借金問題であったとした場合、奇蹟のようなものが起きて三日で借金を返済できた!といったことは、まず少ないと思います。でも「何故かはわからないけれど」、今自分は神さまのことを信じたのだから、何かがなんとかなるような気がする……といった希望の気持ちがわいてきたり、それまで抱えていた不安が「何故かわからないけど」軽減されたり、暗い人生上の荒野に、薄く光が差してきた気がする――といった力を霊的に神さまから与えられたとしたら、そこからがはじまりです。
いえ、わたしもそうでしたが、祈りの中で神さまに御言葉をいただいたところで、突然その瞬間に問題が解決するというよりも、まず最初に心が変えられて、そこから少しずつ何かが変わっていく……ということのほうが多いのかなという気がします。もちろん、経験談としては、祈ってすぐに神さまによって状況が変えられた!といったこともあると思うのですが、わたし個人としては問題の解決まで長く待たされたりといったことがあっても、その中でさらに信仰が練り上げられていくとか、そうしたことのほうがとても多かったのです(^^;)
マイナスの数字は多ければ多いほど、プラスになったとき大きな数字になる。
これは三浦綾子さんの言葉なのですが、某キリスト教書店に行った時、カレンダーにそう書いてあるのを見て、本当にドキッとしました。わたし、三浦綾子さんの本は「氷点」くらいしか読んだことがないので(汗)、エッセイやインタビューの中の言葉なのかな……と思うのですが、どの本に書かれている言葉なのかというのは、ちょっとわからなくてすみません
でもネットで調べてみたところ、この言葉のあとには、
マイナスの数字は多ければ多いほど、プラスになったとき大きな数字になる。苦難も「幸せ」であると。ふだん平凡なことも、もっと深く喜べるというか、花の美しさが何倍にも感じられたり。
と続くみたいです。
これ、ほんっとーにものすごおおおく、よくわかりますよね(^^;)
わたしも自分が苦しみや絶望の底にあった時、突然世界が美しく見えたことに対して、とても驚きました。
水たまりに空の青が美しく映っているとか、草原の緑の漣が奏でる音色が美しく聴こえるとか、海の蒼さがとても深く心に沁み入る……とか、人生の生ぬるい上っ面の表面上を漂っていると、普段はそういう<深い>ところまでは見えないというか、そうした精神的段階があるんだなと思いました。
すると、自然と小さなとても当たり前なことに対してもいちいち感謝の気持ちを覚えますし、本当にほんの小さな幸せが、かけがえなくとても大切なものとして深く感じられてくるものなんですよね(^^;)
もし、ここをお読みの方で、「自分の人生は失敗が多くてマイナス続きだ
」と感じてる方がいらっしゃったら、是非、この三浦綾子さんの言葉を握ってみてください。今は人生上の勘定がマイナスでも、それがひとたび、1プラスに変わった瞬間に――その1に続くゼロの数が、もしかしたら0000000000くらいになる、そういう可能性もあるということをどうか忘れないでください。
つまり、お金では買えない神さまの与える信仰の力というのがそういう種類のものだということなのだと思います。
では、次回はまたちょっとマクベスのことに再び戻るかもしれません(^^;)
それではまた~!!
ずっとマクベスのことを書いてきたのですが、その間にちょっと思うことがあったので、今回はそのことをと思いますm(_ _)m
マクベスが己の良心に恥じることのない人生から転落してしまったのは何故かといえば、魔女と奥方のマクベス夫人のせいだった……というあたり、聖書の原罪に通じるところがあってとても面白いというか、「流石はシェイクスピアだなあ」といったところなのですが、作中でマルコムが語っているように、<ありとあらゆる悪の根>というものは、わたしたち人間ひとりひとりに確かに植えつけられているものだと思うんですよね。
それが芽をだし、どの程度まで成長するか、あるいはまったく成長しないのか、それともそのような芽が出てくるたびに摘み取るのか――人によって違いはあれども、やっぱりマクベスのように何かの出来事の重なりあいによって、それが成長して蕾となり、やがて花開き、宿主の生命を吸いつくす……ということは実際にあることだと思います。
そして、マクベスの何が悪かったといえば、やはりダンカン王殺害後のどこかで悔い改めるべきところを悔い改めなかった……ということだと思うのですが、その一方で読み手としてはこうも感じるわけです。自分もマクベスと同じ立場に置かれたら、おそらくは神に呪いの言葉と唾を吐きかけこそすれ、やはり悔い改めるのは難しかったろうな、と。
また、一度悪霊的な力が人に取り憑いてしまうと、まともな思考回路が損なわれてしまうということがあるので、そうした意味でもマクベスは気の毒であったように思います

けれど、もしマクベスが己の罪深い状態を悔い改めていたとすれば……どうだったのでしょうか。
わたしたちも人殺しというほどの大罪ではなかったにしても、日常的に何がしかの罪といったものを抱えて生きているのが普通ですよね。そしてその中で自分の心がけが悪かったがゆえに、自業自得の墓穴に陥ることもあれば、自分はあまり悪くないのに、周囲の人間関係の何がしかに巻き込まれ、そのことが常に頭から離れてゆかないなど、人の罪深い状態といったものには色々な形態があるかと思います。
そして、ここのブログは<キリスト教関係>のことを扱ったブログですので、キリスト教的価値観に沿ってお話を進めるとしますと、神様はどの程度までなら、人間の失敗を許されるのかということについて、今回は見ていきたいと思いますm(_ _)m
失敗しても
失敗しても
失敗しても
失敗しても
失敗しても
失敗しても
失敗しても
失敗しても
失敗しても
神さまは、人間が何度失敗して罪を重ね、人生で躓いても、その人が真に悔い改めるなら、助けてくださいます。
わたしが自分の人生と照らし合わせて思うに――上の緑色三行の失敗くらいまでなら、人間的努力の力でカバーできる気がするし、実際その範囲内の努力でなんとかなる……というのなら、のちにそのことを「自分は失敗してもいかに立ち直ったか」とでも言って、人に不幸自慢して歩けるくらいかもしれません。
でも次の、青色三行あたりから、人間的努力の力や忍耐・我慢の力といったものはどんどんあやしくなってくる気がします。
そして青色の2~3行目あたりから、神や自分の運命を呪ったり、人によっては自暴自棄になるあまり、犯罪を犯すであるとか、あるいは鬱病になったり自殺を考えはじめる……といった段階に差しかかるかもしれません。
最後の赤色三行――ここは、二段目の青色三行で人が行なったことが現れる段階かもしれません。人によっては人生の嫌なことを忘れるため、アルコール中毒や麻薬中毒になっているかもしれませんし、ひどかった場合は刑務所に入っている可能性すらあります。
また、自殺したけれども死に切れず、これからどうしようと途方に暮れたり、何か精神疾患で入院するというのもこのゾーンであり、もはや自分には生きている価値も値打ちもない……と、諦めきっているかもしれません。
この赤色あたりまで行ってしまうと、もう人間的な努力の力ではどうにもならないと思います。もはや事は人の力でどうにかなる・出来る範囲を越えているのですから――もう神さまにでも縋ってどうにかしてもらう以外にはどうにも出来ない段階と言っていいと思います。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
(イザヤ書、第43章4節)
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。
(ローマ人への手紙、第8章28節)
聖書の御言葉というのは、信者にとっての心の燈し火であり、人生上の問題についての解決も、神さまの御言葉を適応させることで、祈って神さまに聞き従うことでやがて解決を見る――というのが、キリスト教信者、クリスチャンにとっての基本といっていいと思うんですよね。
人は赤色ゾーンにまで落ちてしまったとすれば、もはや神さまが自分を高価で尊い、愛してくださっている……とはとても思えないでしょうし、自分の人生上の愚かな失敗の数々が今後何かの役に立つとも思えないかもしれません。
けれど、神さまの御言葉は真実で正しいものですから、こうした聖書の御言葉を握って人生に適応させていく時――間違いなく何かが変わってくると思います。
個人的に思うのは、まずこの時最初にわいてくる感情は希望、ということかもしれません。
神さまの御言葉を握って聞き従いはじめたところで、たとえば、抱えている問題が借金問題であったとした場合、奇蹟のようなものが起きて三日で借金を返済できた!といったことは、まず少ないと思います。でも「何故かはわからないけれど」、今自分は神さまのことを信じたのだから、何かがなんとかなるような気がする……といった希望の気持ちがわいてきたり、それまで抱えていた不安が「何故かわからないけど」軽減されたり、暗い人生上の荒野に、薄く光が差してきた気がする――といった力を霊的に神さまから与えられたとしたら、そこからがはじまりです。
いえ、わたしもそうでしたが、祈りの中で神さまに御言葉をいただいたところで、突然その瞬間に問題が解決するというよりも、まず最初に心が変えられて、そこから少しずつ何かが変わっていく……ということのほうが多いのかなという気がします。もちろん、経験談としては、祈ってすぐに神さまによって状況が変えられた!といったこともあると思うのですが、わたし個人としては問題の解決まで長く待たされたりといったことがあっても、その中でさらに信仰が練り上げられていくとか、そうしたことのほうがとても多かったのです(^^;)
マイナスの数字は多ければ多いほど、プラスになったとき大きな数字になる。
これは三浦綾子さんの言葉なのですが、某キリスト教書店に行った時、カレンダーにそう書いてあるのを見て、本当にドキッとしました。わたし、三浦綾子さんの本は「氷点」くらいしか読んだことがないので(汗)、エッセイやインタビューの中の言葉なのかな……と思うのですが、どの本に書かれている言葉なのかというのは、ちょっとわからなくてすみません

でもネットで調べてみたところ、この言葉のあとには、
マイナスの数字は多ければ多いほど、プラスになったとき大きな数字になる。苦難も「幸せ」であると。ふだん平凡なことも、もっと深く喜べるというか、花の美しさが何倍にも感じられたり。
と続くみたいです。
これ、ほんっとーにものすごおおおく、よくわかりますよね(^^;)
わたしも自分が苦しみや絶望の底にあった時、突然世界が美しく見えたことに対して、とても驚きました。
水たまりに空の青が美しく映っているとか、草原の緑の漣が奏でる音色が美しく聴こえるとか、海の蒼さがとても深く心に沁み入る……とか、人生の生ぬるい上っ面の表面上を漂っていると、普段はそういう<深い>ところまでは見えないというか、そうした精神的段階があるんだなと思いました。
すると、自然と小さなとても当たり前なことに対してもいちいち感謝の気持ちを覚えますし、本当にほんの小さな幸せが、かけがえなくとても大切なものとして深く感じられてくるものなんですよね(^^;)
もし、ここをお読みの方で、「自分の人生は失敗が多くてマイナス続きだ

つまり、お金では買えない神さまの与える信仰の力というのがそういう種類のものだということなのだと思います。
では、次回はまたちょっとマクベスのことに再び戻るかもしれません(^^;)
それではまた~!!

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