今、相撲界では日馬富士と貴ノ岩のことで持ちきりですけれども、ワイドショーやニュースの報道を見ていると、ここに至るまで随分紆余曲折があったように感じます(^^;)。
この事件の詳細については、ここで再び繰り返す必要もないと思いますので端折ろうと思うのですが、旧約聖書の箴言にはこんな言葉があります。
>>あなたがその目で見たことを、軽々しく訴えて出るな。
そうでないと、あとになって、あなたの隣人があなたに恥ずかしい思いをさせたとき、あなたはどうしようとするのか。
(箴言、第25章7~8節)
箴言のこの箇所はおそらく(わたしが思うにということですけど^^;)、「あの人がああしているのを見た」とか「こうしてるということを聞いた」といったことを言いふらし、あるいは法的に訴えて出て、はて、「それはまるで違う。かくかくしかじかのこうしたことが真実である」ということを当事者が語った時――自分が恥ずかしい思いをするかもしれないと考えて、よくよく熟慮してから行動したほうがよい……という意味ではないかと思います。
日馬富士と貴ノ岩のことでも、報道のほうは随分二転、三転したように思うのですけれども、今は貴ノ岩に大きな同情が寄せられるといった方向に傾いていますよね。。。
ええとですね、実はわたし特に相撲ファンというわけでもなんでもないんですけど(汗)、毎日なんとなくテレビつけてるとこの事件について繰り返し報道されていたもので、貴乃花親方や貴ノ岩ってとてもつらかっただろうな……と思ってテレビを見てました
なんていうか、こうした事柄において、学校や職場のいじめなどもそうかもしれませんが、大抵は殴ったりしたほうではなく、殴られたほうが結局のところ損をするってとても多いと思うんです。正しい側が損をする、潔白な側が損をする、さらには殴られる(いじめられる)ような要因を作ったほうも悪いみたいに言われたり……報道の最初の頃って特に「どっちが悪いのか何か曖昧ではっきりしない」、「暴力を振るったほうが絶対的に悪いけど、貴ノ岩の態度にも問題があったのでは?」といった印象が強いように見受けられましたし、でも「自分は何も悪いことをしていないのだから」というところに立って、殊更その「正しい」というところを主張せずに黙って事態を見ているって、とても大変なことなのではないでしょうか。
ここからは、日馬富士と貴ノ岩の傷害事件のことから離れますが、人の世にあっては多くの人が「快・不快の法則」に従って生きています。だから、ただ「自分は正しい」、「潔白だ」というだけでは駄目だということが、とても多いと思うんですよね。
正しい人の意見に耳を傾けたりするよりも、その人が自分に快い存在かどうかということのほうが大切で、もしその人の言ってることが正しくても、その方に対して「でもコイツ、なんかあんまし好きじゃないんだよなー☆」みたいに感じると、言ってることは仮に正しくなくても、自分にとって快く感じられる人のほうを人は支持したがる傾向のほうが強いのではないでしょうか。
そして、あとは権力。何かの一塊のグループの中で、誰かリーダーとして力を持っている人がいた場合、その人が正しいかどうかとかいうのは、実際そんなに問題じゃないってこと、多いと思います。ただその人が自分にとって馬が合い、快い存在でさえあれば、正しくてもなんか不快な人間よりも絶対的にそちらのほうを支持する……そうしたことって多いような気がします。
おそらく多くの人が長く人生を生きる中で、「わたし、そんなこと全然思ってないのにそう思われてる」とか「何故かわたしのせいということにされている」といった状況を経験されると思います。いじめなどもそうだと思いますが、そうした時に「どうしてわたしが潔白だということがまわりの人にわからないのだろう」、「正しい側が勝利しないのだろう」、「神さまはこのことを見てはおられないのだろうか」……みたいに思うことって必ずありますよね(^^;)。
わたし自身、こうした事柄において、一体何度「だが、神は見ておられる」と思ったことでしょうか。
そして、このことに関して聖書を読んだ時に
>>そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。
(コリント人への手紙第一、第6章7節)
という聖句と出会っても、その時は「いや、わたしのケースの場合は関係ないでしょ☆」とか「そこまでのことを求めるのは神さま、酷というものです」と、わたし自身ずっと思ってきました(マーリン・キャロザース先生の感謝と賛美の教えにのっとって、こうした悪い事態・状況のことも感謝し、神さまを賛美はするのですけれども^^;)。
でも、こうしたことが何度も繰り返されるうちに……ある時点で「そこまでのことを求める神さまのほうが正しいのかもしれない」とようやく最近、少しずつわかってきたような気がしています。
もちろん、日馬富士と貴ノ岩の件に関しては、公正な裁きがついて、貴ノ岩の心と体の傷の両方が癒されることを願うばかりなのですが、自分自身に関していえば>>「むしろ不正を甘んじて受ける」というくらい、信仰が成長するということのほうが大切なのだなと、つい最近思わされたというか。。。
「神さまだけが真実を知っておられる」ということ、他の誰が何を言おうとも、神さまがそのことを知り、いずれあなたに必ず報いてくださる……それは相手についに天誅が下り、向こうが大恥を見て、誤解されていたこちらのほうが完全勝利、完全勝訴するといったことではないかもしれません。
でも、わたしが傷ついたり嫌な思いをした分のことは、必ず何か別の形・別の方法によってでも、神さまは常に聖霊さまを通して慰め、癒してくださいましたし、わたしと同じような形で問題の解決を見る――という信仰者の方も多いのではないでしょうか(つまり、この世的な尺度で見れば泣き寝入りしたように見えても、神さまは必ず別なところで報いてくださるということです)。
なんにしても、貴ノ岩さんが心身ともに癒され、再び土俵に立てるようにと願っています
それではまた~!!
>>主は私の主に言われた。
「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、
わたしの右の座に着いていなさい」
(マタイの福音書、第22章44節)
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