
【聖パウロの回心】カラヴァッジョ
>>「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです」
(使徒の働き、第17章3節)
わたしがまだキリスト教徒ではなかった頃、イエス・キリストという人がどういった人物なのかについて、実はほとんど何も知らなかったと言っていいと思います(^^;)。
確か、わたしがイエス・キリストという名前やなんとなくの外見を初めて知ったのは、家にあった歴史上の人物のことの書かれた図鑑によってであったように記憶していたり。その中のページでわたしの一番のお気に入りがマリー・アントワネットで、最後は断頭台の露に消えたという記述と、その横にあるギロチンの絵を見て、子供心にもぞっとしたのをなんとなく覚えています。。。
他にも、歴史に名前を残した人々が何人も載っている図鑑だったのですが、その中に「イエス・キリスト」という人物と、彼の送った生涯のことを見ても――正直わたし、まるでなんの感慨も覚えなかったんですよね
その時のことで印象に残ったのは、イエスさまが洗礼を受けている場面の絵と、それから十字架につけられるにあたって、たくさんの人々が顔を怒らせて彼のことを取り囲んでいるという絵のことだったでしょうか。でも当時、幼かったわたしには、「え?だからそれでどうしたの?この人たちはなんでこんなに怒ってるの?
」といった感じで、まるで理解不能だったというか。
その後、小学生の時に社会の教科書で「踏み絵」のことを習ったのですが、この時もただ漠然と「変な神さまだな~☆」と思っただけでした。何故といって、それが本当に本当の神さまなら、神さまのことを描いたものを踏んだとしても、あとから「赦してください、神さま
」と祈るなら、絶対に赦してくださるはずだと、子供ながらにそんなふうに思っていたからでした。
もちろん、今はわたしも同じキリスト教徒ですから、当然わかるのです。「踏み絵」を踏んで棄教せよと言われても、何故そう昔の信仰者の方々が出来なかったかというその気持ちが。。。
そしてその後、高校の時の世界史の授業などでも、キリスト教の歴史のことや、パウロという人がキリスト教の伝道で大きく用いられたらしいということや、三位一体という言葉などを学びはしましたが、ただテストの時文章の空欄に「パウロ」とか「ニカイア公会議」とか「三位一体」と書いて、点数をもらった記憶があるというだけで、実質的にキリスト教について何か「わかっている」といったようなことはまったくなかったと思います。
そして、今回のタイトルの>>「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです」(使徒の働き、第17章3節)という言葉は、他でもないこのテストに出てきたパウロさんの言葉なのですが、パウロもまた、最初はイエスさまのことをキリストとは認めず、むしろ彼の死後の復活を信じるキリスト教徒の人々を迫害していたというくらいの大変な人物でした。
けれども、復活の主(イエス・キリスト)に出会うという奇蹟を通し、パウロは今度は以前迫害していたこのキリスト教の熱心な信者となり、福音宣教に燃え、幾多の苦難を乗り越えて「イエスこそキリスト」、「イエスこそまことの神である」ということを宣べ伝え、数え切れないほど多くの人々が信仰の道へ入るということになりました。
では、「イエスこそキリスト」というのは、実際どういうことなのでしょうか。
わたしも昔、「イエス・キリスト」というのは、「イエスが名前でキリストが苗字?
」などと思っていたものですが、イエスが名前……と言っても、元のヘブライ語の発音では、イェホシュアといった感じになると何かで読んだ記憶がありますし、また、イエスのことをイエズスと書いている(カトリック系の)本を読んだことのある方も多いと思います。
また、英語の読みではイエス・キリストのことをJesus Christ、ジーザス・クライストと言いますよね。
これ、映画などで登場人物が驚いた時などに「Oh,Jesus!!」と言ったり、あるいは追い詰められて困った時にも「Oh,Jesus!!(ああ、神さま!!)」、他に「ちくしょう」といった意味で舌打ちしたあとに「Jesus Christ!!」と言ったりしている場面を見たことのある方、きっと多いと思います(^^;)。
なんというのでしょう、こうしたややこしい経緯(?)もあるせいか、「で、結局のところイエス・キリストってなんなの?一体誰なの?
」という部分がよくわからない……というのが、わたしが自分でクリスチャンになる前の状態だったと思います。
キリストというのは、ヘブライ語で油注がれた者、救い主の意味で、旧約聖書はこの救い主についての預言について書かれていたり、またこの方がユダヤ民族を救うとされて待望されているわけですが、ユダヤ教を信じている方々というのは、新約聖書に書かれているこのイエス・キリストを救い主とは認めていません。
そして、この真の神である方を十字架にかけた民族であるとして、長く迫害の歴史を歩むということになったわけですが、イスラム教というのはさらに、この旧約聖書と新約聖書、そこへさらに付け加えてコーランをも聖典としている宗教です。
わたし自身、自分が実際にキリスト教徒になってみるまではとても不思議でした。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の違いといったこともまったく知りませんでしたし、つい最近トランプさんが「イスラエルの首都はエルサレムである」と宣言したことが何故そんなに問題なのかとか、おそらく自分がクリスチャンにならなければ「何がそんなに問題なの?
」といった感じで終わっていたと思います。
また、わたしがキリスト教徒になった経緯については何度か書いているのですが、わたしがキリスト教というものに反発心を本能的に持ったのは、その「イエス・キリストを信じる者だけが救われる」という選民思想についてでしたし、まず、この「イエス・キリスト」という人物というのは、人間の本能、自然によって知れる神ではない――ということが、「キリスト教の神は神ではあるまい」と直感的に思う一番の理由でした。
やっぱり日本という場所に普通に暮らしていて一番本能・自然によって知れる神というのは、アニミズムの神といった自然神や仏教的な神ですし、そこへ「イエス・キリストこそが神である」とか言われても……「そないな奴知らんわ!
」となるのが、人の普通の反応のような気がするんですよね(^^;)。
けれども、パウロが「イエス・キリストこそ神である」と宣べ伝えた時と同じように、その時も人々は「聖霊の働き」によって信じたのです。そしてわたしがこのことを真理であると受け容れることが出来たのも、父なる神・イエス=キリスト・聖霊なる神の第三位格である<聖霊>さまの力によってそう信じることが出来たという、そういうことでした。
>>私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何か不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。
そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
(使徒の働き、第17章23~30節)
パウロが生きた今より約二千年前くらいの時代も、今という時代も福音の真理に何も違いはありません。
わたしも自分がキリスト教徒になる前までは、「神さまが本当に神さまなのなら、△△は□□なはずだ」といったように色々と人間的な理屈で考えて、また何よりカトリックとプロテスタントの間で流された戦争の血のことやその他色々な宗教戦争の歴史、魔女裁判のことなどを考え、「まー、キリスト教の神は神ではないな
」と思っていたものでした。。。
けれど、一度教会で聖霊さまに触れていただくと、自分が色々なことを人間的な尺度で考えており、神さまというのはそうした人間の小賢しい思いすらも見抜いて、このような形で御自身を<神>として人間のためにお現しになったのだ……ということがわかってきます。
さて、クリスマスが近くなってきましたが、12/24~25日というのは、イエスさまの本当の誕生日というわけではありません(笑)
また、あまりに商業主義に走りすぎて、欧米諸国のキリスト教国でも「本当のクリスマスを守っている」とは言えない……といった非難の声があったりもするそうです。でも、日本なんてキリスト教国でもないのに、ただクリスマスがクリスマスだというだけで、こんなに浮かれ騒いで喜び、さらには賛美歌を歌ったりといったイベントが多くあったりしますよね
わたし自身が思うには、これって本当にすごい、素晴らしいことだと思うんです♪
世界中の誰もが、キリスト教徒も、キリスト教徒でない方も、イエスさまの誕生日のことを覚えて、誕生日ケーキのような大きなケーキを囲ってプレゼントを交換しあい、「クリスマスはこうでなくちゃ!」という過ごし方をするというその中に、<喜び>があるということ――神さまもまたそうした人の「ありよう」を喜ばれているのではないかと、自分的にはそんな感じがしております(^^;)。
なんにしても、キリスト教徒の方にも、そうでない方の上にも、神さまの恵みと祝福がありますように!!





それではまた~!!
>>「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです」
(使徒の働き、第17章3節)
わたしがまだキリスト教徒ではなかった頃、イエス・キリストという人がどういった人物なのかについて、実はほとんど何も知らなかったと言っていいと思います(^^;)。
確か、わたしがイエス・キリストという名前やなんとなくの外見を初めて知ったのは、家にあった歴史上の人物のことの書かれた図鑑によってであったように記憶していたり。その中のページでわたしの一番のお気に入りがマリー・アントワネットで、最後は断頭台の露に消えたという記述と、その横にあるギロチンの絵を見て、子供心にもぞっとしたのをなんとなく覚えています。。。
他にも、歴史に名前を残した人々が何人も載っている図鑑だったのですが、その中に「イエス・キリスト」という人物と、彼の送った生涯のことを見ても――正直わたし、まるでなんの感慨も覚えなかったんですよね

その時のことで印象に残ったのは、イエスさまが洗礼を受けている場面の絵と、それから十字架につけられるにあたって、たくさんの人々が顔を怒らせて彼のことを取り囲んでいるという絵のことだったでしょうか。でも当時、幼かったわたしには、「え?だからそれでどうしたの?この人たちはなんでこんなに怒ってるの?

その後、小学生の時に社会の教科書で「踏み絵」のことを習ったのですが、この時もただ漠然と「変な神さまだな~☆」と思っただけでした。何故といって、それが本当に本当の神さまなら、神さまのことを描いたものを踏んだとしても、あとから「赦してください、神さま

もちろん、今はわたしも同じキリスト教徒ですから、当然わかるのです。「踏み絵」を踏んで棄教せよと言われても、何故そう昔の信仰者の方々が出来なかったかというその気持ちが。。。

そしてその後、高校の時の世界史の授業などでも、キリスト教の歴史のことや、パウロという人がキリスト教の伝道で大きく用いられたらしいということや、三位一体という言葉などを学びはしましたが、ただテストの時文章の空欄に「パウロ」とか「ニカイア公会議」とか「三位一体」と書いて、点数をもらった記憶があるというだけで、実質的にキリスト教について何か「わかっている」といったようなことはまったくなかったと思います。
そして、今回のタイトルの>>「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです」(使徒の働き、第17章3節)という言葉は、他でもないこのテストに出てきたパウロさんの言葉なのですが、パウロもまた、最初はイエスさまのことをキリストとは認めず、むしろ彼の死後の復活を信じるキリスト教徒の人々を迫害していたというくらいの大変な人物でした。
けれども、復活の主(イエス・キリスト)に出会うという奇蹟を通し、パウロは今度は以前迫害していたこのキリスト教の熱心な信者となり、福音宣教に燃え、幾多の苦難を乗り越えて「イエスこそキリスト」、「イエスこそまことの神である」ということを宣べ伝え、数え切れないほど多くの人々が信仰の道へ入るということになりました。
では、「イエスこそキリスト」というのは、実際どういうことなのでしょうか。
わたしも昔、「イエス・キリスト」というのは、「イエスが名前でキリストが苗字?

また、英語の読みではイエス・キリストのことをJesus Christ、ジーザス・クライストと言いますよね。
これ、映画などで登場人物が驚いた時などに「Oh,Jesus!!」と言ったり、あるいは追い詰められて困った時にも「Oh,Jesus!!(ああ、神さま!!)」、他に「ちくしょう」といった意味で舌打ちしたあとに「Jesus Christ!!」と言ったりしている場面を見たことのある方、きっと多いと思います(^^;)。
なんというのでしょう、こうしたややこしい経緯(?)もあるせいか、「で、結局のところイエス・キリストってなんなの?一体誰なの?

キリストというのは、ヘブライ語で油注がれた者、救い主の意味で、旧約聖書はこの救い主についての預言について書かれていたり、またこの方がユダヤ民族を救うとされて待望されているわけですが、ユダヤ教を信じている方々というのは、新約聖書に書かれているこのイエス・キリストを救い主とは認めていません。
そして、この真の神である方を十字架にかけた民族であるとして、長く迫害の歴史を歩むということになったわけですが、イスラム教というのはさらに、この旧約聖書と新約聖書、そこへさらに付け加えてコーランをも聖典としている宗教です。
わたし自身、自分が実際にキリスト教徒になってみるまではとても不思議でした。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の違いといったこともまったく知りませんでしたし、つい最近トランプさんが「イスラエルの首都はエルサレムである」と宣言したことが何故そんなに問題なのかとか、おそらく自分がクリスチャンにならなければ「何がそんなに問題なの?

また、わたしがキリスト教徒になった経緯については何度か書いているのですが、わたしがキリスト教というものに反発心を本能的に持ったのは、その「イエス・キリストを信じる者だけが救われる」という選民思想についてでしたし、まず、この「イエス・キリスト」という人物というのは、人間の本能、自然によって知れる神ではない――ということが、「キリスト教の神は神ではあるまい」と直感的に思う一番の理由でした。
やっぱり日本という場所に普通に暮らしていて一番本能・自然によって知れる神というのは、アニミズムの神といった自然神や仏教的な神ですし、そこへ「イエス・キリストこそが神である」とか言われても……「そないな奴知らんわ!

けれども、パウロが「イエス・キリストこそ神である」と宣べ伝えた時と同じように、その時も人々は「聖霊の働き」によって信じたのです。そしてわたしがこのことを真理であると受け容れることが出来たのも、父なる神・イエス=キリスト・聖霊なる神の第三位格である<聖霊>さまの力によってそう信じることが出来たという、そういうことでした。
>>私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何か不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。
そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
(使徒の働き、第17章23~30節)
パウロが生きた今より約二千年前くらいの時代も、今という時代も福音の真理に何も違いはありません。
わたしも自分がキリスト教徒になる前までは、「神さまが本当に神さまなのなら、△△は□□なはずだ」といったように色々と人間的な理屈で考えて、また何よりカトリックとプロテスタントの間で流された戦争の血のことやその他色々な宗教戦争の歴史、魔女裁判のことなどを考え、「まー、キリスト教の神は神ではないな

けれど、一度教会で聖霊さまに触れていただくと、自分が色々なことを人間的な尺度で考えており、神さまというのはそうした人間の小賢しい思いすらも見抜いて、このような形で御自身を<神>として人間のためにお現しになったのだ……ということがわかってきます。
さて、クリスマスが近くなってきましたが、12/24~25日というのは、イエスさまの本当の誕生日というわけではありません(笑)

また、あまりに商業主義に走りすぎて、欧米諸国のキリスト教国でも「本当のクリスマスを守っている」とは言えない……といった非難の声があったりもするそうです。でも、日本なんてキリスト教国でもないのに、ただクリスマスがクリスマスだというだけで、こんなに浮かれ騒いで喜び、さらには賛美歌を歌ったりといったイベントが多くあったりしますよね

わたし自身が思うには、これって本当にすごい、素晴らしいことだと思うんです♪

世界中の誰もが、キリスト教徒も、キリスト教徒でない方も、イエスさまの誕生日のことを覚えて、誕生日ケーキのような大きなケーキを囲ってプレゼントを交換しあい、「クリスマスはこうでなくちゃ!」という過ごし方をするというその中に、<喜び>があるということ――神さまもまたそうした人の「ありよう」を喜ばれているのではないかと、自分的にはそんな感じがしております(^^;)。
なんにしても、キリスト教徒の方にも、そうでない方の上にも、神さまの恵みと祝福がありますように!!






それではまた~!!

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