
かなり昔のことになりますが、とあるお宅にホームヘルパーとして派遣されていた時……ふと、こう感じたことがありました。その80代前半のおばあさんは一人暮らしで、旦那さんは老人福祉施設へすでに入所しており、ふたりいる息子さんとは一切交流がないということだったんですよね。
なので、一度目に伺った時には、「大体のところこーゆー風に仕事してくださいね」ということを教えてもらうのに、もうひとり別のホームヘルパーの方が同行するわけですが、帰りの車の中で、この方がこうおっしゃったのでした。「息子さんふたりのことは一切禁句だからね。向こうから詳しく話しでもしてこない限り、そのあたりには絶対触れちゃダメだよ」と。
それで、何度かお伺いするうち、ふとこう思ったことがありました。というのも割と、わたしが行った時に人がいたりすることが多く、わたし的には「まあ、たまたま偶然」くらいな気持ちだったわけですが、実はそうでなかったらしいとわかったわけです(^^;)
そのおばあさんは確か、その時82歳くらいだったと思うのですが、腰が曲がっていて、トイレに行く時には歩行器が必要でした。でも、歩行器さえあれば、日常生活についてはまったく問題なく行なえる感じで、ボケているどころかむしろ頭脳のほうは常に冴え渡っている……といった感じの、かなりハキハキはっきり話をされる方でもありました。
なので、わたし的には「ある意味、人生今が最高


でも、わたしのおばあちゃんも最後の最後まで一人暮らしというか、一人で気楽気ままに暮らせる自由に拘ってる感じの人でしたし、もうひとりいるおばあちゃんは、長く施設暮らしをして亡くなったのですが、母が会いに行くと、いつもお世話してくださる職員の方の悪口ばかり言うような感じだったんですよね(^^;)
ええと、介護福祉施設のようなところで働いたことのある人の不幸として……その裏側が全部見えてしまうということがあると思うのですが(わたし自身、介護福祉施設のCM見るたび、複雑な気持ちになります。「いや、現実はね、そんなおキレイなもんじゃないと思うよ

それで、そのおばあさんに関しては、頭もものすごくはっきりしてて、若いわたしのほうがそのキビキビした感じにビビっちゃうくらいでしたし、よくお友達も来られていて、一人暮らしでも楽しく暮らしておられるんだろうな~みたいに思ってました。
ところがですね、その後、わたしがホームヘルパーで行く時間帯に、そのおばあさんはどうもあえてお友達を呼んでいたらしい……とわかる瞬間があったんですよ。どういうことかわかりますか?つまり、そのお友達(といっても、同年代というよりは5~60代の方が多かったと思います)というのは、会話を聞いていて「本当に親しい間柄なんだなあ~


ええと、こう書くと、わたしに相手にそう思わせる何かがあったんじゃないかとか、わたしの話したことで、このおばあさんにそう思わせる何かがあったんじゃないか――と思われるかもしれないんですけど、もうホームヘルパーとして訪問した2度目からそうした感じだったんですよ。
で、この瞬間わたし、「ずっと前にもこれと似たことがあったような……」とぼんやり思い出したことがありました。これは仕事とか関係ないプライヴェートなことで、なんですけど――ようするにそれは「その方にとってのプライドの問題」だっていうことなんですよね。
人には(わたしもそうですけど)、「こう見られたい自分」とか、「こんなふうには思われたくない自分」というのがいて、そのおばあさんにとっては(わたしの頭には思い浮かびもしないことでしたが)「八十にもなって一人暮らししてる、体の不自由な可哀想なおばあさん

わたしも一応、そのあたりの微妙な空気というのは、最初から感じてもいたので、そのうち機会があったら会話の中で「いつもお友達が来られてて楽しそうでいいですね」とか、「うちのおばあちゃんも「一人暮らし最高!」みたいに言ってて、入院する必要が出てくるギリギリまでずっと楽しく暮らしてたんですよ」みたいなことは話したほうがいいんだろうなあ……とは思ってる感じではありました。
でもまあ、ホームヘルパーって、一時間半とか、決められた時間内に仕事がびっちり入ってるものなので、なかなかそうした話の流れにもならないし……みたいな、そんな感じだったんですよね。こちらのほうは、実際何があったかはまったくわかりませんので、わたしのまったくの見当違い――という可能性もありますが、ふたりの息子さんと今は交流がまったくないというお話。。。
そのおばあさんはとても素敵な方だったのですが(お友達との会話からもそのことはすごくよくわかる感じでした)、ただすごく「わたしは正しい」、「わたしは間違ったこと、曲がったことが大嫌いだ」みたいな空気感のある方で、決して意地悪というのではなく、すごく鋭い話し方をされる人でもあったわけです。それで、おそらく日本で一番力のある某宗教団体の熱心な信者の方でもあり……これは某学会批判というのではなく、わたしの実家のほうに時々、信者の方が「三か月でいいから新聞とってくれ」とか、「選挙で投票してくれ」みたいにやって来てたのでわかるんですけど――その新聞とか、すっっごくいいことが書いてあるんですよ。信心によって人生の問題をこうやって解決したとか、色々。
でももし仮に、同じ価値観や正しさを子供に当てはめられたとした場合、まったく同じ信心によって不登校を克服したとか、志望大学に合格したとか、就職先に恵まれた……となれればいいですけど、お母さんやお父さんに「わたしたちは正しくおまえを育てたのに、何故不登校、何故志望校に入学できない、何故せっかく就職した会社をやめたのだ」みたいに、あまり理解されないとしたら、結構つらいと思うんですよね。
もちろん、このあたりのことは事情をよく知らないわたしの、100%の妄想ではあります。また、キリスト教系の団体でも、「お父さんやお母さんのこういうところについていけなかった」とか、そうした話はもちろんありますし、これは他の宗教のパンフレットなどを読んでいても思ったことではありました。
まあ、タイトルの「プライドの問題」に戻りますと、「相手のプライドを大切するのは、そうとわかっていても難しい」ということだったりします(^^;)
たとえば、さっきのおばあさんとの例でいうと、何かわざわざ「八十代でひとり暮らしでも、今の時代、ちっとも可哀想なことなんかありませんとも、ええ!


そして、この件とはまったく別のことになりますが、アフリカなどの、一般に途上国と呼ばれる国の人々も、ただ一方的に「可哀想ね」、「支援してあげましょうね」みたいに、上から目線で来られると、必要な物資等についてただ受け取るというそれだけで、心を開いてくれないことがある……というのを、現地スタッフの方がパンフレットか何かに書いておられるのを読んだことがあって、「そりゃそうだろうなあ

その~、支援されるばかり、相手から与えられるばかり……って、「それが一番楽でいいじゃん」と思うわけですけど、「相手に善意から与える」技術よりも、実は「相手から受け取る」技術のほうが身に着けるのが難しいって、結構あったりします。
たとえば、わたしの体が何かの病気等によって動けなくなったりした場合、トイレへ行くにも人の手が必要であり、食事の際にも介助が必要だ――となったらまあ、その場面を他の方が見た場合、大変なのは介助してる介護員の人のほうに見えると思います。でもこれ、むしろ逆に「自分がそれをやられてみる」立場になると、ものすっっごくイヤですから。だから、トイレ介助とか食事介助とか、大変な時があっても、自分が誰かのお世話が出来る立場であって、その逆じゃないって、本当はとても幸せなことなんですよ。
わたしも自分がひねくれ者ですから、すごくよくわかります。自分が介助する側じゃなくて、介助される側になった途端、「一生懸命お世話してくれようとしてるのはわかるから」感謝しなくちゃいけないとか、文句言ったりしちゃいけないとわかってはいても、不満足な介護しか実際は受けてないのに、相手が笑顔を向けてきたら――果たして素直に「ありがとう」と、そのたびごとに言えるものかどうか……。
いえ、もちろん言うんですよ、「ありがとう」とはきっと。でも、これは介護される側の方の「受け取る技術」なわけです。「もうちょっとこうして欲しい……と言いたいけど、なんか言いづらいな

だから、わたし的には結構、「こういうところがイヤだ


つまり、そうした「ちょっと言いづらいことでも言えるような空気感」をお互いの間に作るというのも介護者側の目に見えない仕事になってくることなわけです。さて、目に見えない方と言えばもちろんそれは神さまですが(笑)、わたしたち人間はそれがどんなに親しい間柄の方でも、それが親子でも夫婦でも恋人でも友達でも――相手に対して「ちょっとしたプライドが働く」瞬間って、絶対あると思います。でも神さまって、わたしたちの心の中で「なんのプライドの問題も働かない」唯一の方と思うわけです。
>>わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
(イザヤ書、第43章4節)
わたしも、自分の推しに対しては「尊い~!!


この神さま、イエスさまの無償の愛を、ひとりでも多くの方が知り、聖霊さまを受けることが出来ますように!!

それではまた~!!

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