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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

救い。

2016年07月29日 | キリスト教
【キリストの磔刑】ハンス・バルドゥング





 わたし自身、このことをどううまく言葉で説明したらいいんだろう……とずっと思っていたところ、主の十字架クリスチャンセンターさんのほうでとてもいい動画が上がっていたので、貼らせていただきましたm(_ _)m

 罪の赦しとか悔い改めということについて、キリスト教はかなり特殊な考え方というか、教え方をしていると思います。

 つまり、イエス・キリストが十字架上で死なれた血潮の力を信じるすべての者には、「どんな罪も真に悔い改めさえすれば赦される」という道が開かれているということなんですよね。

 その上、真に悔い改めたあとのわたしたちの状態というのは、まったく罪を犯さなかった真っ白な状態へと戻る――言ってみれば、生まれたばかりの赤ん坊にも等しく、罪のない状態に神さまがしてくださるということなんです。

 正直、言葉でだけこう言い表してしまうと、何か偽善的で嘘くさいものさえ感じてしまいますが、これこそがイエス・キリストが十字架上で全人類の罪の贖いのために成し遂げられたことだったのでした。つまり、天国という場所へは何かわたしたちに罪が残ったままの状態では入ることが出来ませんから、そのような形でイエス・キリストに罪を赦された者はみな、死後には天国へ行くことが出来る……というのが、キリスト教の教えていることと言っていいと思います。

 わたしも、自分がクリスチャンになる前までは、「神に選ばれた信徒だけが天国へ行ける」、「それ以外の人は地獄へ行く」といったように、なんとなく噂で聞いていたもので、「そんな変な神さま、うそんこだい!本当に本当の神さまは、すべての人が天国へ行けるよう取り計らってくださるはずだし、それこそが本当の神さまだい!!」みたいに思っていたものでした。

 けれど、一度クリスチャンとしてイエス・キリストが成し遂げられた十字架上での血の贖いこそが、神さまがわたしたち人間に用意してくださった救いの道であることがわかると、「そっか!なるほど、そういうことなんだ」みたいになります(^^;)

 聖書というものについても、ホテルに置いてあるのを時々ぱらぱらめくって読んでみても――正直、「これがなんで神の言葉なのだろう?」という感じだったのですが、旧約聖書・新約聖書の両方を読んだ今では、こう思います。もし神さまが人間のために用意してくださった救いの御計画といったものが、人間の頭で予想できたりやすやすと簡単に理解できる種類のものであったとすれば……人間というのは相当にひねくれた存在ですから、「こんなわかりやすい薄っぺらな神さまなんて、本当の神さまじゃない。我々はもっと理解困難な神を自分たちの力で生みだして、それを崇めよう」みたいになったかもしれないな、なんて

 そういう意味で、わたし自身はキリスト教について知れば知るほど、「神さまって凄いなあ」と思うばかりなのですが、日本の場合は特に、こうしたキリスト教の教える核心について「正しく知る機会がない」というのが問題なのだと思います(^^;)

 なんにしても、この記事は下のほうの記事に続いて、シェイクスピアのマクベスと関連づけるとすると、マクベスもまた、ダンカン王殺害後であったとしても、そのことを悔い改めて神さまに許しを乞うていたら良かったんですよね

 あるいは、マクダフの家族を配下の者に命じて殺したあとでも(映画では火あぶりの刑でしたが)、真に悔い改めたなら、天国の扉はまだ完全には閉まっていなかったはずなのです。もちろん、一度神に背いて自分ではっきりと自覚的に選択して罪の道へ落ちることを選び取ってしまった場合、毒を喰らわば皿までとばかり、奈落の底に落ちるまでそのことをやめることが出来ない――という、そのこともわかるのですが、ただ、イエスさまというのはこのくらいの血みどろの罪に対しても、真に悔い改めるなら、その罪に対しても間違いなく赦してくださるのです。

 おそらく、何かの偶然でここの記事を読まれたりしている方の中に、人殺しといった罪を犯してしまい、それは果たして赦されるかどうかということで思い悩んでいる……といった方はいらっしゃらないと思うのですが、わたしたちが気にするのはもっと軽微な罪についてですよね(^^;)

 たとえば、職場の気に入らない人の悪口を言ったとか、ひどい嘘をついたとか、仕事で疲れきっていて妻(夫)にひどい態度を取ってしまったとか、介護疲れで子供に八つあたりしてしまった等など……わたしたちが日常生活で<罪の意識>を覚えることはたくさんあると思います。

 そしてそのうちの多くについて「人間なんてそんなものさ」と思ってやりすごそうとするわけですが、でも自分の身に危機が迫ると、やはりそうした日常のほんのささやか程度の罪が積もり積もって今自分はこんな状態に置かれてしまったのではないだろうか……なんてつい考えてしまうものですよね(^^;)

 つまり、神さまのことを信じるチャンスというのは、そういう瞬間にこそあるのかもしれません。

 わたし自身もそうですが、たとえば病気などになると、それが一時的なものであれ、ものすごーく心が謙遜に低くされますよね。

 わたしも以前、こんなことがありました。母親と長期に渡って喧嘩していた時に、突然物凄い腹痛に襲われたことがあって……その時にはこう思うのです。自分の親不孝の罪が積み重なって今自業自得的に腹痛に見舞われているのではないかと思い、トイレの便座に座ったまま、「神さま許してくださーい!!助けてくださーい!!」みたいには。

 けれど、やっぱりその後も喧嘩している状態というのは続きましたし、一度腹痛が収まってみると、喉元すぎればなんとやら☆といった感じに人間は戻ってしまうんですよね。こうした罪深い状態を神さまに対しても続けているというのが、わたしたたち人間の罪の姿といったものだと思うのですが、真に悔い改めるならば何度でも、神さまはそんなどうしようもないわたしたちのことを理解して、確かに赦してくださるのです。

 もちろん、その確信はどこから来ますか?と思われる方は多いと思いますし、また、クリスチャンになってからも「赦されている感じがしない」と訴える方も多いと、牧師さんのお説教の中で何度かお聞きしたことがあります。

 けれど、なんにしてもとりあえず、祈り方がわからない、どう悔い改めたらいいのか、また悔い改めるためにどう祈ったらいいのかわからないと感じる方は、イエスさまを受け容れるためのお祈りをしてみましょう。

 また、キリスト教というのは独自にというか、独学で学んで理解できる宗教ではありませんから、やはり教会へ通うということが必要になって来ます。今は多くの教会でインターネット礼拝の模様を中継していたり、牧師さんのメッセージを録画したものを見ることが出来ますから、「日曜礼拝ってこんな感じ」、「牧師さんってこんな感じ」といった雰囲気を見て「どうやら変な宗教団体じゃなさそうだ」と判断することも出来るかと思います(^^;)


 天の父なる神さま、

 わたしはあなたを信じます。

 今まで信じてこなかったことをお赦しください。

 わたしは自分が罪人であることを認めます。

 わたしの罪の身代わりとなって、イエスさまが十字架にかかって死んでくださったことを信じます。

 わたしのすべての罪を赦し、永遠の命を与えてくださったことを感謝します。

 わたしは、あなたをわたしの罪からの救い主、主としてお迎えします。

 約束通りイエスさまが、わたしの心の中に入ってくださったことを感謝します。

 わたしのこれからの人生は、あなたのものです。

 わたしをあなたが望んでおられるような者に変えてください。

 イエスさまのお名前によって、お祈りします。

 アーメン。



 神さまにあって、真に祝福された人生を歩むことが出来るよう、わたしも日々イエスさまにお祈りしています

 それではまた~!!





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