神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

どん底の時こそ、そこがもっとも深い礼拝の場となる。-【2】-

2020年06月04日 | キリスト教

「どん底の時こそ、そこがもっとも深い礼拝の場となる」……というのは、クリスチャンの方ならおそらく、誰でも心あたりのあることと思います。

 何故かといいますと、わたしたちは困ったことや苦難やつらいこと、自分の手ではもうどうすることも出来なくなった時こそ――もっともよく神さまに祈り、全存在を委ねてより頼むからです。

 たとえば、突然腹痛に襲われたとすれば、もう必死でその症状や痛みがなくなることしか考えられないように……わたしたちが究極的に追い詰められたとすれば、最終的に助けてくださる方というのは神さま以外にはおられない、といった精神状態になると思います。

 もちろん、喉元過ぎればなんとやらで、その苦痛などが過ぎ去ってしまうと、人によっては「神なぞ関係ない。わたしは自分の力で乗り越えたのだ。えっへん!」といったように、元の状態に戻ってしまうといったことも数多くあるでしょう。神さまは心の広い方であられるので、そうした方に対しても「実はわたしが助けてやったというのに、なんという呪わしい、疎ましい奴」と思うでもなく、その後もその方が困った時に求めれば、救いの力を送ってさえくださるかもしれません。

 けれども、そんな中でやはり、「神さまはこんなに困っていたところを助けてくださった」と思い、そのことを永遠忘れず感謝し続ける……という信仰心の厚いクリスチャンの方もたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

「信仰が篩いにかけられる」というのは、まさにこうしたことではないだろうか、と思ったりもします。かつて、旧約聖書時代――モーセに率いられたイスラエルの民は、エジプトで奴隷であったところを救われるという奇蹟を数多く経験しました。ところがその後、神さまの与えてくださる食べ物や飲み物のことで文句や不満をつぶやき、こうして信仰の篩いにかけられた結果、自ら滅びの道へ墜ちていった人々がたくさんいたのです。

 信仰の原理といったことでいえば、アブラハムの時代も新約時代以降の今も、神さまの御前に変化といったことはまったくありません。わたしたちもイエスさまの十字架の血潮による罪の贖いを経験し、霊的な新生を経験したそのあとも……かつての、旧約時代のイスラエルの民のように信仰を試される場面に遭遇すると、「食べ物や飲み物がない」=「望んだとおりのものが、望んだとおりの形で手に入らない」といったことで神さまの御前につぶやく、といったことはいくらでもありえます。

 ただ、神さま、イエスさまに感謝すべきことには――わたしたちには聖書に書き記された信仰の先達たちのみならず、カトリックの聖人、プロテスタントの信仰心厚い牧師さまが経験した神さまの奇蹟など、たくさんの見習うべき信仰の先輩方がたくさんいるのです。

 わたしもプロテスタントですので、プロテスタントの立場の方としてはカトリックの聖人と聞くと「ん?」と思われる方もおられるかもしれません。けれども、マザー・テレサの名前を出すまでもなく、マザー・テレサのテレサという名前の由来である、リジューのテレサ(小テレサ)や、スペインの大テレサの書いたものなどを読むと本当に物凄く霊的に感じ入ります(聖霊の一致を感じる、という意味でもあります)。

 また、わたしが末端会員として所属するザ・ライト・オブ・エターナル・アガペー(旧主の十字架クリスチャンセンター)では、今は亡きマーリン・キャロザース先生の「すべてのことを神さまに感謝し賛美する」という教えが徹底して浸透しておりますけれども、ありふれた言葉で言ったとすれば「ピンチこそは信仰の一大チャンス」というのでしょうか。

 とにかくそのような見地に立って、困ったこと、嫌なこと、経済的困窮などについて、その程度というか、度合いが大きければ大きいほど、とにかく徹底して神さまに感謝し、歌い踊ることさえしてそのことを神さまに向かって賛美します。

 こうすることで何がどうなるのかというと――


 >>「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。

 この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ」

(歴代誌第二、第20章15、17節)


 わたしたちの個人的な小さな悩みのために、神さまが代わりに戦ってくださるという状況が生まれてきます。

 おそらく、ノンクリスチャンの方であれば、「えっ!?来月支払えそうにない家賃のために、神さまが代わりに戦ってくださるとか、それはちょっと……」といった心情になるでしょう。

 けれどもそうではないのです。神さま、イエスさまはとてもお心の広い方ですから、「そのことのために、わたしはあなたに何かしてあげよう」と、真実求めるならば、必ずそのようにおっしゃってくださいます。

 ただ、このことには信仰的にコツがいるとは思うんですよね。つまりは、自分の全存在を神さまにお委ねし、「ただ黙って立っている」よりも――わたしもそうですが、とにかく肉的な努力をしてジタバタ☆してしまい、むしろ神さまの力が働く妨げになるようなことさえしてしまう……というのが、信仰の薄いわたしたちのよくやりがちな初歩的ミスですから(^^;)

 でも、わたし自身もこのことがわかり、実際に幾度もイエスさまの御手が動くのを経験してからは……転んで膝をすり向いても神さまに感謝!!、人に何か嫌なことを言われても主に感謝!!、その他何が起きてもとにかくイエスさまに感謝&賛美――といったように、すっかり人生の土台というか、生き方や性格などがすっかり変えられてしまったのです。

 新型コロナウイルスについて言えば、世界中でたくさんの方が亡くなり、今も苦しんでいる方がたくさんいることを思えば不用意なことは言えませんし、そのことについてはわたしも毎日のように祈ってもいるのですが……個人的なことに関していえば「悩むことはない。あなたは怖れる必要はない」とイエスさまが聖霊さまを通して語ってくださったそのとおりだったと思っています。

 もちろん、こう書くからといって、「一切消毒や除菌といったことをやめても、神さまが守ってくださるから、わたしは新型コロナウイルスにはならないんだー!!」とか、あるいは逆に、わたしが神経質なまでに消毒や除菌といったことを行っていたとしても――そんなことを言っていながらなんと不信仰な奴だとかいう、そうした傲慢なことではまったくないのです(神さまのことは正しく恐れて信仰する、新型コロナウイルスに関していえば、正しく理解して対応するとか、そういった類のことですから^^;)。

 とにかく、「神さまの言葉の内にあって守られる」という信仰のコツさえわかっていたら……ヨナ書のヨナがとうごまの下で守られたように、「何故イエスさまはこんなにちっぽけなわたしの小さな信仰を顧みて、こんなにも良くしてくださるのだろう」という、肉体的・霊的歓びに浴して日々生活していける――ということが実感できる信仰生活へと確かに変わっていくと思うのです。

 それではまた~!!





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