ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

斑鳩はいかが?2

2018年09月11日 21時09分09秒 | ウォーキング

山の中に地蔵のように
こっそり座っていたおじいさんに
「すみません。このあたりに
ウォーナー塔というのがある
と聞いたんですが、知ってはりますか」
と尋ねてみました。

「へ~そんな塔は聞いたことがないなあ。
五重の塔やったら法隆寺の中やけどなあ」

「ああ、そうですかあ。」

「私もここをもう20年くらい
歩いているけど知らんでえ」
といわはります。

「ああそうかあ、じゃあもう草の中に
埋もれているのかなあ。
ありがとう、すみませんでした」
とあきらめました。

それからあちこちと、
この辺りで空き地のようなところを
探し回ってみました。
石段があるのでこの辺りは?
と思ってみますと、草がぼうぼうです。

あれ?でもねえ、
草の中に石が立っているようですよ。
まさかこれが?



と思ってヘビなんか出ませんようにと
近づいていきますと
コンクリートの石の中に
鉄製の換気窓のようなものが
見えますので違うようです。

まあねえいくらなんでもねえ。

それからなおも奥の方に向かって
歩いていき探しましたが見つかりません。

文化財を戦争から守った
といいますが、自分の記念塔は
守られなかったのかなあ。

昔からウォーナーとは
そういう扱いをされてきたんですが、
最近は「彼にはそんな力はなかった」
というような説も出ています。

そんなんで見直されたりしたのかなあ。

これは見つからんなとあきらめ、
先ほどの西大門の方へ戻っていきますと、
おお~右手に見えているじゃないですか。

来るときは少し振り向くように
見ないと見落としてしまいそうな位置です。

さっきの高齢者もここまでは
歩いてこなかったのですねえ。

これがウォーナー塔です。



彼のことを書いた石板も
そこにあったのですが、
読みにくいことこの上なく
パスしてきました。

彼の功績については諸説あるようです。

そしてそのウォーナー塔の右横に
並べてたてられているのが



平子鐸嶺の塔。

法隆寺は日本書紀で
1屋も残すことなく焼失したと書かれ、
それを今の位置に建て替えた
というのが火災後再建節で、
そうではなく同じ場所に建て替えたという
「非再建節」と二つの考え方があった。

今はこの論争は再建節で
決着しているそうですが、
この時に非再建節をとったのが
平子鐸嶺でした。

35歳で病気で亡くなった人だそうですが、
彼の説も多くの人に指示され、
法隆寺の館長はここに塔を据えた
といわれています。

二人とも、文化財を大切にし
その貴重性を訴え続けた人だったそうです。

まあ今のdoironの趣味からしたら
とてもありがたい人だったんですねえ。

さてでは西大門の方に戻ってきましたら
右折して古い街並みの残る
西里の中へと入っていきましょう。



ここは法隆寺を支える大工たちが
多く住んでいました。



こんな小さな地蔵や地蔵のある通りを



てくてく歩き、ようやくたどり着いたのが



藤ノ木古墳で、



ここは未盗掘の墓で金銀の副葬品などが
多数出たところから、被葬者は
聖徳太子の叔父であるとか
天皇であるとかが唱えられているが、
確定はしていないようだ。



この古墳の周りはぐるりと公園になっており、
一周回ってみることにしましょう。



これが古墳の案内板で、
ここには埋められてあったものの
解説がのっています。





古墳の入り口のような通路が
南側にあり、扉は締まって
いましたが小さな窓から中を
のぞいてみると、う~んよく見えません。

この藤ノ木古墳の服装品については
2014年9月26日の
ブログに細かく書ていますので、
そちらを参照してください。

結構草が蜜に生えている
この円墳の周りをまわっていますと、
なんかざわざわという音が、
昔の人々のつぶやき声のように
聞こえてきます。



続く