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DonkeyMの部屋

Donkeyはロバ。格好良くなく、足も遅い。「のろま」とか「馬鹿」といった意味。日々の感動、怒り、愚痴等を記事にしたい。

餃子といえば、ホワイト餃子(2)!

2015-10-27 05:41:42 | 雑感

 前回の続き。

 「ホワイト餃子」では、店の中で、餃子を作るところが見れる。10人くらいの女性が餃子を手早く作ってお盆(四角の金の箱のようなもの)に並べていく。お盆が一杯になると、木札を端に置いて、次のお盆に入れ始める。一杯になったお盆は集められ、そのまま冷凍室に運ばれて冷凍される。店で焼き売りされる餃子も、一度冷凍されたものが焼かれることになる。すぐに焼くのだから、そのまま焼いた方が良さそうに思うのだが、どうも違うらしい。

 餃子を作る場所では常に何人もの女性がいる。そして、ひたすら、作り続ける。どうも、作った数だけの給料が支払われているようだ。ベテランになると、相当たくさん作れることになるので、給料もかなりになるらしい。とても、効率的で、働く人にとっても、実入りの良い仕事になっているようなのだ。

 私の住んでいる隣町にも支店があるらしいのだが、私は、本店から送ってもらうことにしている。なぜかというと、かつて他の支店なのだが、始めは同じ味だったが、いつのまにか、味が変化してしまい、破門になったようで、いつの間にかつぶれていた。まあ、支店をやっていた人が欲を出して、味を変えてしまったのだろうと思う。それ以来、支店が近くにあっても、訪れようとは思わなくなった。

 本店でも、一度、味が変わったことがあったが、売れ行きが減ったようで、いつの間にか、元の味に戻っていた経緯がある。まあ、懐かしい味は、変わって欲しくないと思う。

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餃子といえば、ホワイト餃子!

2015-10-27 04:32:40 | 雑感

 私にとって、餃子といえば「ホワイト餃子」なのだ。形が普通の餃子とは違っていて、少し丸い形で、ころっとしている感じ。作り立てをそのまま冷凍し、販売されている。それを解凍せずに、そのままお湯に入れて茹でて、それからたっぷりの油を入れる。どちらかというと、揚げるに近い感じかな?皮の表面が少し焦げ目がついたら出来上がり。たっぷりのラー油と酢、そして醤油を混ぜたタレに浸し、すぐに食べる。皮がパリッとしていて、中が熱々といった感じ。ご飯のおかず?ではない。餃子そのものを腹いっぱい食べるのが良いのだ。うまいかって?どうだろう。正直言えば、うまいのか、それほどうまくないのか良く分からない。宇都宮の餃子もうまいと思うし、「ホワイト餃子」もまあまあうまいと思う。私の中では、「餃子といえば、ホワイト餃子」で、ただぱくつくだけだ。

 「ホワイト餃子」との出会いは、中学の頃かな?兄が当時隣町(ホワイト餃子のある町)で仕事をしていて、一緒に出かけたときに立ち寄った。何とも、農家の作業小屋みたいなところで、餃子を売っていた。とても、きれいな店などという代物ではない。そこで食べたのか?、買って来て家で食べたのか?今となっては定かではない。とにかく食べたのだ。それまで、餃子などというもの食べたことなかったから、新鮮だったのだろう。いつの間にか、私の中では、餃子といえば、「ホワイト餃子」になってしまっていた。

 それから、何年も経たないうちに、作業小屋のようだった餃子の店が4階建てのビルに変わっていた。その店が、テレビでも紹介された「ホワイト餃子本店(野田市)」なのだ。包装紙に支店が書かれているが、その数も半端じゃない。余程儲かっているらしい。

 妻が意外と気に入っていて、毎年お歳暮に餃子を送るようになっていた。単身赴任の私は、妻とは別に、電話で注文し、購入していたが、職場で「祭り」ごとの時に、「ホワイト餃子」を焼いて売って食べさせようと提案し、何度かやったことがある。500個くらい焼いて、それを売るのだが、これが結構大変だったが、若い人がすぐに焼き方を覚えて、私は、売り子に回った。それから、餃子を購入するときは、(配送料金を節約するため)職場の連中にも声を掛け、量をまとめて注文することにした。何しろ、個人で注文する中で、300個なんてあまりないので、すぐに、店のおばちゃんに覚えられ、声を聞くと私だと分かるようになっていた。

 ある年の暮れに、妻から「餃子送ったよ!」とメールを受け取ったが、その前に、「職場の仲間に餃子を買うけど、どうする?」と声を掛け、注文し買うことにしていた。そして、「ホワイト餃子」に電話すると、例のおばちゃんが出て、注文すると、「そういえば、奥さんの方からの注文の送り先、そっちになっているけど、どうする?」と聞かれ、「ああ、そっちの注文で私に送る分はキャンセルしておいて!」と答えた。私にしたら、餃子は食べられるのだし、「支払いが妻になるか、私になるか」の違いで、大したことはないと思っていて、特に妻に連絡もしなかったが、それが妻の逆鱗に触れ、一時は険悪な状態に陥ってしまった。まあ、これは本題からずれるのでやめておこう。

 それにしても、それに、最近、愚の量が微妙に減っているような気がしてならない。経営者が変わったのかどうなのか?過去にも一度味が変わったことがあるが、しばらくすると、また元のように戻った経緯があるから、少し様子を見ておこうと思う。

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ハロウィーンって何かな!

2015-10-25 13:04:23 | 雑感

 駅の近くをぶらついていたら、仮装した子どもたちが店々の前などにたくさん並んでいたり、親子で仮装して歩いていたり、それを写真に撮ったりしている光景が目に入ってきた。そうそう、秋が深まり、ハロウィーンの時期が来たのだ。ハロウィーンとは何なのか、その由来はと問われても、とんと分からない私だ。ただ、子どもたちが仮装して歩く姿はとても可愛らしく、微笑ましい。

 そこで、ハロウィーンについて調べてみると、「ハロウィン、あるいは、ハロウィーン(英: Halloween またはHallowe'en)とは、毎年10月31日に行われる、古代ケルト人が起源と考えられている祭りのこと。もともとは秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事であったが、現代では特にアメリカで民間行事として定着し、祝祭本来の宗教的な意味合いはほとんどなくなっている。カボチャの中身をくりぬいて「ジャック・オー・ランタン」を作って飾ったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れてお菓子をもらったりする風習などがある。」との説明があった。

 ケルト人の暦によると、一年は冬から始まるのだそうで、11月が「新年」ということのようだ。日本などは春から一年が始まるのと少し違っており、秋の収穫を祝うとともに、新年を迎えるため、厄をはらうといった意味合いがあったのだろうと思われる。

 そういえば、日本にも正月に子どもたちが家々を回るという行事がいくつか存在している。新潟のある地方ではこの行事を「くりかけ年始」と呼び、今でも続けられている。私ら家族は新潟に住んでいたわけではないが、妻の実家が新潟にあったことから、毎年、うちの子は妻の実家に帰省し、近所の家々を回ってお菓子をもらって歩いていた。根底に流れるものは、子どもは地域の宝、みんなで大切に育てていくという精神があり、こうしたその精神が行事となって現れているのだろう。

 こうした行事と同時にその気風はいつまでも残しておきたいものだ。そうすれば、子どもたちが暮らす環境にも自然と配慮が行き届いていくのではないでしょうか?

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政党助成金を見直すべき時が来ているのでは?

2015-10-25 06:41:10 | 雑感

 企業献金を抑制するための措置として、政党助成金は始まったと聞く。しかし、昨今、企業から献金が後を絶たないし、自ら企業献金を募るというまで現れ、企業献金抑制という名目が意味を成さなくなってきている。また、党を解散した後、政党助成金の残額を国に返還したという話も聞こえてこない。私物化しているとしか思えない。さらには、政党が政党助成金目当てか、集参離合を繰り返していると見られる節がる。この際、政党助成金制度の在り方を徹底的に見直す時期に来ているのではないかと思う。

 そもそも、政治活動には金が掛かるとまことしやかに言われているが、いったい何にそんなに金が使われているのか、それが、明確に示された経緯が見当たらない。秘書には国から給与が支払われているし、調査研究費と言っても、出版されている文献等は国会図書館に全て保存されている。また、インターネット等のデータベースを活用すれば、かなりの部分カバーできる。某元大臣のように支持者を観劇会に招待し、支持を繋ぎとめておくために使用した費用まで、政治活動費に含められたのでは、国民はたまったものではない。純粋に、議員活動に必要な金額をはじき出し、本当に、政党助成金が必要なのか、政党助成金として国が負担すべきものなのかを検討する必要があるのではないだろうか?

 まあ、こんなことを言ったところで、国会議員が自分たちの損になることに熱心に動くとも思えないが、みんなが口々に声を挙げていけば、そのうち、変化がおきるかも知れない。

 

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人の欲望は果てしない!どこかでブレーキが必要かもね

2015-10-24 06:29:57 | 雑感

 長寿の欲望は、古代からずっとあった。だから、長寿の薬と言われ、高額な金を費やして手に入れようとした人がどれほど多いことか。そして、医学は進歩を続け、死因とされてきた数々の病気を克服し、だれもが80,90まで生きられるようになった。今や、100歳を超える人も相当いるようになった。これは喜ばしいことには違いない。今、死因の一番とされるのは肺炎だという。要するに、他の病気では死ななくなったということなのだろう。そして、肺炎のワクチンも開発され、これが功をそうすると、益々死ぬということが遠のいていくような気がする。

 しかし、一方で、人生の幕をどう下ろすかという新たな難問が生まれてきた。隣人の死をどう受け止めるか、自分の死とどう向き合うかという人類史上なかった問題が大きく浮上してきた。病気に罹ったから仕方ない、寿命と諦めるということができなくなったわけだ。それこそ、人工呼吸器を付け、栄養を直接補給し、薬を上手に使っていけば、心臓はなかなか止まらなくなってきた。そこで、いつの段階で、人工呼吸器を外すかという難問が生じてきている。

 一方、これとは対照的に、地球の中では、必要な食料が確保できずに餓死する事態があちこちで生じている。一人の命を助けるために掛かる費用をそちらに向ければ、何千人もの命が助かる。長寿を全うする影で、幼い命が絶たれている現実とどう向き合うのか。これはとても難しい問題なのだ。おそらく、だれも、答えを見出すことはできないのかも、知れない。

 ただ、医学の進歩は、人間に新たな難しい選択を迫ってきているということは確かなようだ。

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