後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔8〕久我良三さんの「独楽と人形劇…」のワークショップ風景です。

2015年01月15日 | 講座・ワークショップ
 日本全国に優れた演劇教育の仲間がいますが、千葉の久我良三さんもその一人です。かつて彼に、日本演劇教育連盟が主催する全国演劇教育研究集会でワークショップを開いてもらったことがあります。岩国でのことでした。その様子を少しのぞいてみましょう。


  □全国演劇教育研究集会の記録□

 講座M 楽しい教室をつくろうー独楽と人形劇とピタゴラスイッチ

講師 久我良三(独楽と人形劇のクマゴロウ)
世話人 村中昌恵(山口・岩国市立平田小学校)
福田三津夫(東京・日本演劇教育連盟)
参加者 大人15人 子ども7人

 午後1時30分から4時30分までの半日講座。
 午前中、講師の久我さんが講座に必要な独楽や人形劇の仕掛けなどをワゴン車に積んで到着。3階の会場までエレベーターで荷物を何度も運び、すべてをセッティングするのに1時間半ほどかかる。小学校の教室ほどのスペースはまるでおもちゃ箱をひっくり返したよう。ほぼ準備完了した頃、開け放ったドアから何事があったのかと、中を覗き込む人が引きも切らない。
「見るだけじゃおもしろくないからやってみてください。」大道芸人に衣装変えした久我さんが誘い水を掛ける。興味津々の見学者たちが増え、まるで祭りの様相。子ども親も教師たちも独楽回しに興じている。ほとんど独楽回し大会のようだ。

 一応、私の方から簡単な講師紹介をして、時間どおりに講座はスタートする。あとは講師ににすべてお任せだ。

●まずは、挨拶がわりに
 久我さんは自己紹介もそこそこに、いきなり独楽の実演から始める。勢いよく回した独楽を糸にからげて独楽が四角い小さな手作り神輿まで到達すると、パンと破裂して、犬の人形が現れて、あらあら不思議、犬が何回もでんぐり返るという仕掛け。まずは参加者の度肝をぬく演出からスタートだ。みんな大喜び。
 次は先端がしなる棒の上に回した独楽をのっけて、隣の人に次々と渡していく。独楽が止まっていつ落ちてしまうか、はらはらどきどき。子どもも大人も神経がとぎすまされて心地よい時間と空間が過ぎる。
釣り糸に独楽を絡め、独楽が4,5メートルの空中を渡っていく。これぞまさしく空中独楽だ。いつも上手くいくとは限らない真剣勝負がいい。

●今回の目玉は、ピタゴラスイッチ
 床1面に準備された仕掛けは、ピタゴラスイッチ、つまりドミノ倒しのことだ。20の仕掛けを親子やグループで作り上げることから始める。仕掛けはすべて久我さんの手作りである。途方もない時間をかけて、おもしろがって作り出す久我さんの姿が垣間見えるようだ。作り方を説明して回る久我さん。試してみての成功、不成功にいちいち歓声が沸く。
 なにやらヘソを曲げすねている小さな男の子のお母さん、手を焼いて困ったふう。すかさず久我さん、
「君、10,9,8,7…って言えるかな。…では全部つなげて1回やってみましょう。」 何とか男の子にカウントダウンさせて、講座に参加させる。さらに元気な2人の男の子には、弓を持った人形を持たせてリンゴを射る役を与える。さすがの名演出家。
みんなが注目するなか、ドミノがスタート。何度も途切れながらも最後のくす玉割りまで届く。みんな大喝采。
「今度はもっと上手くいくようにやってみようか。」
流れがわかった参加者、再度挑戦だ。やる気十分だが、またもやパーフェクトにはいかない。でも満足感が漂うから不思議だ。

●人形劇の実演
 いよいよ自作自演の人形劇の始まりだ。ことの起こりは、小学校の担任をしているときに、子どもの誕生日ごと、全員に異なる人形劇をしてあげたことだという。レパートリーがどんどん広がっていったのだ。「必要は発明の母」か。

・ 発明博士…水をコップに注ぐと、あらあら不思議、ジュース(色水)に変身してしまう。そのジュースをクルクルストローで飲む人形。
・次は、世界で初めての独楽を回す人形だという。しかし今回は不調でうまくいかない。講師の名誉のためにつけ加えるが、筆者は何度も<成功>を目撃している。
・「ヘビのからだはなぜ長い」…講師の十八番の1つ。なぜヘビはからだが長くなったかという話。絶妙の独演会。
・ 一番うける出し物は「ミミズクの散歩」。ミミズクの親子の登場。バージョンアップして、海篇と山篇が加わる。常におもしろいことを見つけようとしている講師の存在がすごい。
・「酒飲みおじさん」…なぜか酒(液体)が消えてしまうのだ。まさに手品師。
・「わたしはだあれ?」…手袋人形の登場だ。しっとりと参加者を引きつける。こちらは子どもにも大受けだ。

●最後は独楽に戻って…
 人形劇を楽しんだあと、講師の卓越した独楽回し演技に酔いしれた。手のっけなんてお茶の子さいさい、「かまいたち」「おろち」「水の中で回る独楽」「空中に浮く独楽」と続く。それぞれの技はことばでの説明はかなり難しい。その実際を見てみたい方は、是非この講座を受講されることを勧めたい。
 そして、独楽回しをやりたそうな子どもやお母さんの雰囲気をいち早く察知した講師、講座の最後の30分は独楽回し練習に戻る。最初と最後は独楽回しだった。 独楽回しの魅力にとりつかれた親子と教師たち、時間いっぱいまで独楽回しに興じていた。
 会場の復元と道具の運び出しは参加者が積極的に担ってくれた。彼らの満足度を示しているようだった。
                                       (報告:福田三津夫)

  *『日本の演劇教育2012』(日本演劇教育連盟編集)より

〔4〕最近の講座・ワークショップ風景です。

2015年01月14日 | 講座・ワークショップ
 第50回教育科学研究全国大会・公開講座(法政大学)で講座を担当しました。その報告を書きました。1つの講座・ワークショップの風景です。            



         公開講座 ドラマのある教室
                    
                     福田三津夫(日本演劇教育連盟、埼玉大学非常勤講師)

  世話人を入れて5人の講座。大学生から中堅、ベテラン教師まで参加者の年齢層は幅広い。少人数ゆえの、身体表現をじっくり楽しめるぜいたくな時間になったのかもしれない。 椅子だけを半円形に並べての講座スタイル。参加者の心身の弾みに応じていかようにでも対応できるのが強みだ。
 簡単な自己紹介の後、早速、講座スタートとなる。
 
 与えられた「ドラマのある教室」とは何か、私の考えるところをまず話す。
 拙著『いちねんせいードラマの教室』『ぎゃんぐえいじードラマの教室』(晩成書房)で使った「ドラマの教室」は学級づくりのドラマと授業の中のドラマを意味している。このことは学級づくりと授業づくり、つまり教育活動全般にドラマが存在しなければならないという主張である。そして、ここでいうドラマは2つの側面を持っている。演劇的身体表現活動そのものとしてのドラマと、教育活動を演劇的に見たときのドラマという位置づけである。次の柳歓子さんの優れた実践記録の一節がそのことを示していてわかりやすい。
 「光あふれる舞台の上で、ドラマが展開される。でも、そのすぐ脇の暗がりのなかにも、ドラマはある。」(「『生命』を見せよう」、『教育』2009年6月号)
 次に演劇とは何かということを問題にした。舞台上の交流と鑑賞者との交流で成り立つ身体表現を伴った芸術とここではごく簡単に押さえる。舞台上の交流を<ことばと心の受け渡し>と私は捉えている。ここで私の「学級づくり・授業づくり十か条」(『ぎゃんぐえいじードラマの教室』より)を紹介する。「人の話を興味を持って聴く」「相手にことばと心を届ける」「学級づくりはコミュニケーションづくり」に触れる。
 <ことばと心の受け渡し>とは、まずは相手のことばと心を全身でしっかり受けとめ、次に、ことばと心を相手に過不足なく届ける、「声で相手のからだにふれる」(竹内敏晴)ということになる。
 ここから実践的な話に移行する。子どもたちとの一日の出会いの朝の会から授業、集会・行事、帰りの会までこの<ことばと心の受け渡し>が意識され、貫徹される必要がある。
私は実際にどう実践したのか、困難だったクラスの顛末のさわりを話すことにした。
さて、<ことばと心の受け渡し>とは何を指し示すのか、具体的な「ワークショップ」を通して理解してもらおう。

①まど・みちおを遊ぶ
 「ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね/そうよ かあさんも ながいのよ
ぞうさん ぞうさん だれが すきなの/あのね かあさんが すきなのよ」
日本人なら誰でも知っているであろう「ぞうさん」の歌を歌ってもらう。昨年100歳になったまど・みちおさんの歌だ。少人数にしてはしっかり声が出ている。これは良い時間が持てそうだ。
「登場人物は何人ですか。」「2人」というのはすぐに出てくる。
「では、誰と誰との会話ですか。」この質問で一時会話は途切れる。どの講習会でも同様だ。幼少時から何度も歌った歌であろうに、すらすら答えが返ってくることはない。最終的には小さい子と子象の会話に落ちついた。2人1組でそれぞれの役を設定して台詞で言ってもらう。役設定はけっこうこだわりがありそうでなかなか会話までは進行しない。でもみんな役になりきり楽しそうだ。終わったら役を交代してもう1度。初対面同士の距離がぐっと近づく。
 最後は1人読みだ。2人組での会話の余韻を残して1人で読む。一人芝居の感覚だ。
 さて「ぞうさん」の数年後に「きりんさん」が書かれた。これも同じような展開で楽しんでみる。さらに数年後の「やどかりさん」。まどさんの詩は優しさにあふれていたり、ちょっと哲学的だったり、ユーモアのセンスをちりばめたり、ひらがなだけの詩で無限の宇宙を感じさせてくれるから凄い。
 ついでに「はひふへほは」も遊んでみよう。もちろん、まどさんの詩だ。
「はひふへほは ラッパに むちゅうで」と私が言ったら「ぱぴぷぺぽ ぱぴぷぺぽ」とみんなに言ってもらう。当然「ぱぴぷぺぽ」はラッパの音のイメージで。ラッパといってもそれぞれの音のイメージを大切に! 自分の好みのラッパの音を出そう。
 「ぱぴぷぺぽは ぶしょうひげ はやし」(私)「ばびぶべぼ ばびぶべぼ」(みんな) これを9連まで繰り返す。教師がリードすれば子どもたちは声を合わせやすいので、わずかな時間で取り組めそう。リーダーを交代すれば詩の雰囲気もがらりと変わるところがおもしろい。数回繰り返せば文字を見ないでも言えそうだ。学習発表会の群読発表にも活用できること請け合いだ。
 「あいうえお」はなかなか素敵なスタートだが、最後は賑やか。「自己紹介」という詩も楽しくて子どもにウケルこと間違いなしだ。

②群読「教室はまちがうところだ」(蒔田晋治)
 世話人と私も入って群読に挑戦だ。台本づくりは参加者でやるのが理想だが、今回は私の構成でやっていただく。どこまで迫力が出せるか。
 ソロは機械的に割り振る。1人で5人分ほど。みんな忙しく、緊張感みなぎる群読だ。
 大切なポイントはそれぞれの台詞を誰にどのような思いを届けるかということだ。「どのような思い」の中に個性がにじむ。全員での「教室がまちがうところだ」は声を合わせるのでなく、それぞれの思いをしっかり表現すること。結果的にばらばらでももちろんかまわない。全体よりも個を重視した群読を大切にしたい。こうした取り組みの結果、単なる文字が起き出してくる。文字の立体化だ。
 表現することとならんで重要なのが「聴くこと」「反応すること」。他の読み手の台詞をしっかり共感的に受けとめ、何らかの反応を返すこと。後半は前の人の台詞と重なるようにテンポと思いをアップして畳みかける。ちょっとした演出だ。
 いきなり、途中止めながらの読みに入り、なんと2回目は本番だ。そのできの見事なこと! 30分程度の時間でこれだけの表現を創り出したすべての参加者に感謝、感激する。

③「夕日がせなかをおしてくる」(阪田寛夫)の群読
④朗読劇「はのいたいワニ」(シェル シルバースティン)「ライオンとねずみ」(イソップ寓話)
③と④は時間切れでできなかったものだが、あらためて挑戦できればと思う。

 少しの時間でどれだけ<ことばと心の受け渡し>ということが伝わっただろうか心許ない。最後に世話人の山隆夫さんと参加者の感想で私の拙文を締めくくりたい。ちなみに山さんは大学時代の大親友である。
〔山隆夫さんのメールより〕
 「すごくいい話でした。福田君に頼んでよかったです。ゆっくりと君の哲学の世界に浸らせてもらって、うれしかったです。ことばが軽薄に表面をさらさらと流れていくような時代の中で、ひとことひとことが深く子どもたちの内面と響きあう、ことばの力を回復するような、それは子ども自身の生きる形を確かなものにしていくわけですが、指導や対応のありようを教えてもらったような気がします。
 詩の読み方一つでも、状況設定などふくめて声に本物の力や質、色彩を与えていくような深い意味を伝えてくれてありがとう。参加者のみなさんのあの笑顔と感動!
 同じ時間を一つの君の物語の中で共有できたことに感謝しています。ありがとう。」

〔参加者の感想より〕
「日々の教室の中で、クラスの雰囲気が明るく楽しく集中できる決め手を聞くことができ、とてもよかったです。ひとりひとりを大切にするためには「相手にどのように伝えるかを考えて話す」―。この相手意識と、自分がどのように伝えたいかを持っていることが必要であるのですね。そのことによって個が生かされていくのですね。聞き手は「全身で受けとめる」というイメージを、子どもたちに伝えていきたいと思います。授業での群読の取り組みや、気持ちを込めた表現を積み重ねることで、心が開放されていくように、実践を通して感じることができました。ありがとうございました。」(Hさん)

「『ことばと心の受け渡し』(ことばだけでなく気持ちも届ける)『反応することが大事』ということ、誰に向けて届けるのかを考える。本当にその通りだと思った。
 日々の教室での子どもたちの姿を思い浮かべながら聞く中で、2学期から改めて、子どもたちとの関係づくりを大事にした学級をつくり上げていきたい。先生に教えていただいた実践をぜひ教室でもやってみたいと思います。本当にありがとうございました。
 実践の詩や群読の授業がとてもおもしろかったです。子どもたちが心から楽しんで取り組む姿が眼に浮かび、自分自身もとても楽しかったです。先生が大事にしたいとおっしゃっていたことが、よく伝わってきました。」(Fさん)

「分科会の名前にひかれて参加しました。教室がドラマのような何かが起きるなんて素敵だなぁと思って。でも福田先生の話を聞いて、日頃からドラマがあって、しかも、演出する人がいないとそれができないと言っておられて、あぁ、自分もそのような演出ができる教師になりたいと思いました。
 短い時間でその役になってみて群読をしたのですが、難しくて、なぜそのようなセリフを言うんだろう? とか考えるだけで時間が過ぎていって…。あまり気持ちのこもったセリフを言えなくて悔しかったです。
 よくわからないまま来てしまったけれど、声を出すってやっぱり大人でもおもしろい!
来てよかったです。子どもたちにもやってあげたいなぁと思いました。ありがとうございました。」(学生Gさん)
 *第50回教育科学研究全国大会・公開講座(法政大学、2011.8.6)報告集より。



〔3〕講座・ワークショップはこのようなことができます。

2015年01月14日 | 講座・ワークショップ


  ●講座・ワークショップの実際

 次のような柱立てで講習したいと思います。もちろん様々な要望・バリエーションにお応えできると思いますのでご相談ください。学級づくり・授業づくり・劇づくり・教職入門講座が中心です。
 ここ数年増加傾向にあるのは、中学生・高校生・大学生・大人対象のワークショップです。民間の英語教育の大きな団体、ラボ教育センターから講師に呼んでいただくことが増えました。そこでは 「表現教育ワークショップーことばと心の受け渡し」という講座を開いています。詩の朗読や群読・朗読劇からことばの持つ意味について考え、「ロミオとジュリエット」などの劇づくりにそれらを応用するという展開です。気軽に声をかけてくださいね。

A【学級づくり】
 学級づくり=人間関係づくりであること。根底には<ことばと心の受け渡し>が成立していること。具体的な表現活動(朗読・群読・劇あそび・ハンカチあそび・朗読劇・劇…)を通して<ことばと心の受け渡し>を学ぶ。
B【授業づくり】
 授業の中で、子どもたちの発言(表現)をどう聴き、応答していくのか。子ども同士のやりとりをどのように創っていくのか、具体的な授業を通して考えたい。テーマは「ドラマとしての授業」「ドラマのある授業」。「谷川俊太郎・工藤直子・まど・みちお・阪田寛夫を遊ぶ」詩の授業、文学教材の扱い方などが考えられるが、国語以外でも可。

  <学級づくり・授業づくり十か条>
【第1条】 子どもはまるごとおもしろい存在だ!
【第2条】 教室の窓を開くー見られることも大事!
【第3条】 教育は一回性のドラマー教室デビューを演出する
【第4条】 教育は固有名詞で語る
【第5条】 子どもの現在から実践を組み立てる
【第6条】 行動を通して表現を考える
【第7条】 人の話を興味を持って聴く
【第8条】 相手にことばとこころを届ける
【第9条】 学級づくりはコミュニケーションづくり
【第10条】 モノであそぶ・からだであそぶ
 *詳細は『ぎゃんぐえいじ-ドラマの教室』(福田三津夫、晩成書房)参照

C【劇づくり】
 脚本のある劇、絵本からの劇づくりなど、具体的な演劇指導についての話。子ども相手に直接指導、指導者への演技演出指導など。

  <私の劇指導10か条-遊べる脚本で、子ども自身の壁を破る>
【第1条】子どもたちが遊べる脚本を選ぶ
【第2条】役はオーディションで決める
【第3条】状況設定をしっかり確認する
【第4条】役について詳しく説明させる
【第5条】劇の構造・テーマを理解する
【第6条】言葉を届ける対象を明確にする
【第7条】言動にきちんと反応する
【第8条】自分の壁を破る
【第9条】衣装・音効・照明もアッピール
【第10条】教師の表現力を鍛える
  *詳細は『いちねんせいードラマの教室』(福田三津夫、晩成書房)参照


D【教職入門】
 教師を目差す学生、若い教師たち、教育に息詰まりを感じているベテラン教師たちへ次のような言葉を贈りたい。

  <教師であること・2011-教師をめざす貴方へ贈る10の言葉 >
 私が教職入門という講座を持ったとしたら何を学生たちに伝えたいかを考えてみた。つまりそれは教師をめざす卵たちに贈る言葉ということになるが、同時に、40年前に学生だった私自身に贈る言葉でもある。「私の学級づくり・授業づくり10か条」(拙著『ぎゃんぐえいじードラマの教室』晩成書房、所収)「私の劇づくり10か条」(拙著『いちねんせいードラマの教室』晩成書房、所収)と合わせて読んでいただくと嬉しい。

Ⅰ、「ことばと心の受け渡し」の実践(コミュニケーション、表現、交流)
 33年の小学校教師、5年の大学講師体験から教育の本質・根本は何かと問われれば、「ことばと心の受け渡し」が教育現場にきちんと成立していることと答えたい。「ことばと心の受け渡し」とは私の教育信条に沿った造語であるが、つまりは教師と子ども、子どもと子ども、さらにはそれらを取りまく親や地域社会の交流・コミュニケーションにほかならない。ことばや心をしっかり全身で受けとめ、アクションとしてのことばや心を相手にきちんと届けること、語っていくことだ。まずは「臨床の知」(中村雄二郎)を根本に置いた教育を目差さなければならない。
 *前掲した『いちねんせいードラマの教室』『ぎゃんぐえいじードラマの教室』は「ことばと心の受け渡し」の実践記録。参考文献『臨床の知とは何か』中村雄二郎、岩波新書。『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン、ちくま学芸文庫

Ⅱ、子どもとシンクロできる「からだ」(教師のからだ)
 私は自分のことばが子ども(学生)たちに届かない、という経験を嫌と言うほど味わってきた。なぜか。それは彼らとシンクロするからだを持ち合わせていないからにほかならない。
 鮮やかに思い出すのは教職をスタートさせたばかりの運動会でのダンス指導でのこと。中心的な指導を担ったのは中年の女の先生だった。私は補助的な存在だったが、私のことばはほとんど子どもたちに入っていかないのだ。そこには自らフォークダンスを踊ろうともしないで踊らせることだけに終始していた私がいた。ある日の放課後、踊りの上手な子数人から徹底的に踊りを習うことにした。その翌日の学年合同練習の時、あきらかに子どもたちが私を見る目が変わっていた。この時「指導が入る」とはどういうことなのかが実感としてわかった。
 ある年の運動会、ソーラン節を学年の表現に採り入れたいと思ったが指導者はいなかった。妻から時間をかけて教わり、翌日、学年の子どもたちの前に立った。テープが流れる中で一人踊りきった。決してうまい踊りではなかっただろうが子どもたちはいっぱい拍手をくれた。
 子どもを常に上から見るのではなく、時には子どもと向かい合い、寄り添いながら同じ方向を見つめることをできるからだをもつ必要が教師には求められる。
 *『ことばが劈かれるとき』竹内敏晴、ちくま文庫

Ⅲ、教科の論理と子どもの生理(教科の系統性と演劇的教育方法)
 新卒教師の私が最初にめざしたものは教える教科の系統性と科学性を獲得することだ。人類の遺産である真理に基づいた科学や学問をいかに無駄なく配列するか。そのためにはあらゆるジャンルの本を買い、足繁く様々な研究会に通った。今尤も進んでいると思われる教材を入手し「さあどうだ。」とばかり子どもたちに差し出したが、なぜか反応は鈍い。教師の「教え」ばかりが先行し、そこには子どもの「学び」がなかったのだ。
 教育は教科の論理だけでは成立しない。「ドラマとしての授業」が求められるのだ。子どもの思いや生理、リズムなどを無視して授業の成立はない。子ども自身が真理や真実を獲得していくという学びのプロセスが実は教育実践だったのだ。「ドラマとしての授業」を考えるとき、演劇の本質から学ぶことは多い。
 *『演劇教育』冨田博之、国土社

Ⅳ、生存権と平和主義(インドとアウシュヴィッツ)
 新しく教師になる若者たちに求めたいものは、世界的な視野をもってほしいということだ。
 インドの世界遺産の見学ツアーに参加したのは小学校教師を辞してすぐのことだった。ここで見聞きした10日間の<事実>は衝撃的だった。外国渡航28回、32か国・地域を巡ったなかで、人間とは何か、生きるとは…など、自身の生存感覚を根底から問い直させられたと言っても過言ではない。糞尿・埃紛れの極貧の生活、インドの新幹線といわれる、ごみが散乱したプラットホームで列車を待つ時ににじり寄ってきた下半身麻痺の少年、かたや裕福なカーストは超エリートの身分社会。小銭を求める少女に我々は何を与えられるのか。
 インド旅行から1年後、厳冬のポーランドに渡る。ドイツ・チェコ・オーストリアなどを巡る個人旅行だ。一番の目的はナチスの戦争犯罪の跡を辿ること。ホロコーストを決議した会議所、ユダヤ人などを送り出したプラットホーム、ナチスに抵抗し処刑された跡、ユダヤ人の巨大な追悼石碑群を見学し、最後に辿り着いたのがポーランドのオシフィエンチム(ドイツ名でアウシュヴィッツ)だ。小雪の舞うなか英語圏の旅行者30数名と共に広大なアウシュヴィッツの施設をただただ沈黙のなか廻る。紫色の温かそうな帽子を被ったポーランドの若く美しい女性の案内人は淡々と感情を押し殺して彼女が生まれる前に祖国で起こった悲劇を語ったのだった。被害者の累々とした頭髪・鞄・靴などの部屋の数々。人間はこれほど残酷になれるものなのか。
 しかしこれはドイツだけの話だろうか。私たち日本人は南京大虐殺、日本軍731部隊など、中国・朝鮮・台湾侵略などの日本の戦争犯罪も同時に語る必要があるだろう。
 生存権がうたわれた平和憲法をもつ日本の教師として、インドの現在、ドイツ・日本の歴史をしっかり学ばなければならない。
 チェルノブイリ25年目の2011年、福島原発の溶融事故が起こった。ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ…日本人として考えるべきことは多い。
 *『アウシュヴィッツ博物館案内』中谷剛、凱風社
 
Ⅴ、芸術に対する深い関心(美術・音楽・演劇・映画・旅行・読書…)
 芸術は専門家だけが実践し、専門家だけが享受するものではないことは多くの「知性」が語っている。すべての人々の思考基盤、発想の源になくてはならないのが芸術である。万人が生きていくうえで最小限必要なものであり、まさに生きる力としての芸術だ。
宮澤賢治や新美南吉は音楽や劇、文学などを教師として殊更大切にした。彼らは豊かな言語感覚、美意識、潤いのある日常、明日への限りない活力などは芸術から湧きいずることを日々実感していたことは間違いない。
 たとえば「ドラマとしての授業」「ドラマのある授業」を語る時、教師自身が演劇的体験し、演劇の創造と鑑賞についての力量を持たなければならないだろう。
 *『限界芸術論』鶴見俊輔、ちくま学芸文庫

Ⅵ、教育実践記録を読むこと・語ること・書くこと(学級通信と著書)
 教師としての行き詰まりを感じたとき、優れた実践記録は我々に勇気と励ましを与えてくれる。教育行政やある教育理論にただ従うだけでなく、教育主体としての教師が実践を切りひらくために実践を聴き、語ることが自身の実践を飛躍させることになる。
 たとえば学級通信という形で日々の実践を記録し総括して同僚やサークル仲間に批評を仰ぐ。チャンスをとらえて雑誌にそれを発表する。そんな実践の検証の活動が教師には求められそうだ。
できれば20年目や30年目には私家版でもいい、著書の1冊も持ちたいものだ。本を書くことはひょっとして恥をかくことかもしれない。でもそうすることによって確実に教師としての力量は高められる。在任中に実践記録を出せれば私の教師人生もずいぶん変わっていただろうと思う。
 *『学級通信 ガリバー』村田栄一、社会評論社

Ⅶ、様々な教育の仕事(担任・専科・心障学級・管理職…)
 学校教育は様々な教師によって支えられている。6年間の家庭科専科の体験から、生活指導をあまり担わなくても良いというかわりに、全校的な立場で力を尽くさなければならないということがよく理解できた。学級担任だけでなく専科、心障学級が併設されている場合は担当を変更する勇気を持つべきだ。
 連れ合いの緑は心障学級担任の体験を薦めている。そうした意味からも学生の時に介護実習を体験することは大いに意味のあることかもしれない。
教育現場に入ったときには、教師の他に給食、事務、用務、警備などの主事さんらがいらっしゃることは当然だがけして忘れてはいけないことだ。彼らとしっかり交流を図ることが子どもの成長にも望ましいことはいうまでもない。間違いなく、教師だけで教育が成立するものではないのだから。

Ⅷ、地域の教育力(家庭・社会)
 学校教育は教育の1分野であり、家庭教育と社会教育で教育は完成する。常に教師は家庭と社会に目配りをすべきである。
 とりわけ家庭との連携は重要だ。様々な職種を有する保護者とどう繋がるか、真剣に考えてみたい。教師がすべての子どもがおもしろい、可愛いと接した時、親たちはほとんど間違いなくその教師を支持してくれる。教え方が多少上手でなくても、我が子をしっかり認めてくれる教師であれば様々な協力は惜しまないものである。親と子どもを核とした「共同戦線」がはれれば想像もできないことができることがある。
 家庭からさらに地域社会に教師がうって出ることが果たしてできるか。そんなすごい教師がいなかったわけではない。
 *『学級文化活動と集団づくり』鈴木孝雄、明治図書、絶版。『一年生の四季』鈴木孝雄、草土文化、絶版。

Ⅸ、社会人としての教師(市民運動・組合運動)
 教室で教えるだけが教師ではない。あらゆる社会的な事象に対して興味関心を持ち、様々な市民運動を展開している教師の後ろ姿は子どもに間接的に眩しく映るだろう。教師自身が個性的で、社会を変革していこうという強い意志を持たないで、どうして個性的で行動的な子どもを育てることができるだろう。職場環境を働きやすいように同僚と変えていくことはすぐに子どもたちの教育に跳ね返っていくことになる。市民運動や組合活動は他者との貴重な出会いの場になるだろう。
 *『人間の条件』ハンナ・アレント、ちくま学芸文庫

Ⅹ、教師こそ自己教育を(教育研究活動、挫折から学ぶこと)
 最初から挫折無しに教育がうまくいくはずもない。何度も何度も失敗を重ねることによって教師は鍛えられていく。そういった意味からすると、教師は子どもや親、同僚から日々学ばなければならない。残念ながらうまくいった実践から学ぶことは少なくて、失敗から新たな教育指針が見つかることが圧倒的に多い。挫折やスランプは教師にとって最大のチャンスと言える。難を転じて福となす、南天(ナンテン)の精神が教師には必要だ。
 教師は一生学び続けなければならない。若い教師だけでなくベテラン教師が実践のつまずきで退職に追い込まれるケースも少なくない。ベテラン教師といえども自身の学びを放棄したとき、子どもの前に立てなくなる事実を私は嫌というほど見てきた。一緒に学べる同僚や、あえて厳しい批判・提言を投げかけるサークル仲間はお金を出しても買えるものではない。
 *前掲『ぎゃんぐえいじードラマの教室』、『子どもっておもしろい』福田緑、晩成書房。いずれも学級崩壊から「教えることの再出発」が書かれている。
 *詳細は『実践的演劇教育論ーことばと心の受け渡し』(福田三津夫、晩成書房)参照

     
E【表現教育ワークショップーことばと心の受け渡し】
 中学生・高校生・大学生・大人対象のワークショップ。