アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

60 アチャコの京都日誌 再びの京都

2017-05-19 16:41:03 | 日記

60 アキレス腱つながって歩いた。よちよち?

社会復帰。そろそろ社会生活を取り戻す!っと、高らかに宣言しても、最初に頭に浮かぶのが「歯医者に行く。」だ。治療中でそのまま東京から京都に戻ったので気持ちが悪い。歯を抜いたあとに違和感がある。散髪には昨日行って来た。犬と散歩もしたい。・・・・・・。あれ?私の社会復帰ってこんなもんか?

 

※     今日のテーマ 「ぽっくり死にたい、でも今すぐじゃないよ!」

 

 即成院へ行って来た。まだアキレス腱が繋がっていた2月だ。

 

即成院は、泉涌寺の塔頭寺で総門のすぐ前にある。泉涌寺山門を目指すと、大概の人が見逃すが非常にありがたい即成仏の寺だ。通称ぽっくり寺だ。最近は、ピンころって言うらしいが、要は元気に晩年まで過ごし、死ぬときは苦しまずぽっくり死ねるように、一心に願う寺だ。御本尊は阿弥陀如来だが。如来は、最高位の仏さまで、すでに悟りの境地にあり、阿弥陀様は特に我々を極楽浄土に導いて下さるのだ。そして菩薩は修行中の仏様だが、如来に一番近く役割に応じて我々を救ってくださる。知恵を授ける文殊菩薩、病気には月光・日光菩薩(薬師如来の脇侍となっている)、慈悲深いのが観音菩薩。そしてあの世で一番顔が利くのが地蔵菩薩だ。ここ即成院では、阿弥陀様の周囲に25の菩薩が控えているという壮大なお寺だ。」

 

そしてこのお寺の最大のイベントが、「二十五菩薩お練り供養法会」 これが凄い。そう広くない境内の本堂から地蔵堂へ25の菩薩様が歩いてお渡りになるのだ。

高くやぐらを組んだ橋の上を、さも天上を歩くように、檀家の方々を先頭に、稚児行列が続き、長老が僧たちを率いて読経しながらのお渡りと続く。そして25の菩薩のお渡りだ。それぞれ菩薩のお面をかぶった方々が続々と練り歩く。かぶった人間?ではなく、菩薩様なのだが、足取り軽く所作を決める元気な菩薩もいれば、介添えの方の手を借りてやっと歩くだけの年老いた菩薩もいたりする、面白いのは菩薩のかぶり物が重いのか介添えの母親?に顔ごと支えてもらっている子供菩薩だ。

菩薩それぞれに名前がついていて、その表情もすべて違っていて微笑ましい。地蔵堂まで練って本堂に戻る。極楽の本堂から、現世の地蔵堂に衆生を浄土へお迎えに行く儀式なのだ。橋の上からは「散華」がまかれ参加者はそれを拾って持って帰る。このように浄土思想をしっかりと受け継いでいるのが京都のお寺だ。

そして帰り道、苦しまず死ねるよう、それぞれピンころを願いつつ最後に「今スグじゃないよ!」と念押ししていた。

 

尚境内奥には、平家物語・屋島合戦のヒーロー那須与一の墓がある。扇のまといを見事当てたことから「諸願成就」「恋愛成就」のお守り、「願いが的へ!」と書いてあった。

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59 アチャコの京都日誌 再びの京都

2017-05-18 16:47:17 | 日記

59 アキレス腱つながった けど歩けない

 

森友が終わったと思ったら、加計学園か。「もり」から「かけ」?蕎麦屋か?いずれにしても政権を揺るがすような事にはならないだろう。とにかく野党がだらしがない。今回もそうだがマスコミ報道を追随しているだけだ。独自の調査能力が無さすぎる。自ら情報収集をしないと国民は信用しない。実際、テレビでコメンテーターが如何に政権批判しようと世論調査の結果は、なかなか国民は冷静だ。特に民進党は、いつまで二重国籍の党首でやるのだろう?健全な野党がいないと政治は腐敗する。私のアキレス腱も健全な腱に戻って欲しい。

 

 

 常照皇寺に行って来た。相当前である。

 

昔、太平記に魅了された。

楠正成のファンになった。足利尊氏を嫌いになった。普通はそうなる。

 

しかし、南北朝時代を見ていると意外な人物が気になることがある。光厳天皇。北朝初代のこの天皇は、皇統から消された。後醍醐天皇以降の所謂「南朝」が正当とされた為に、北朝の、光厳、光明、崇光、後光厳、後円融まで五代の天皇は系譜から除外された。明治維新後の決定だ。南朝の後醍醐天皇の後の、後村上、長慶、後亀山の三代の天皇は京の都に在位した期間はなく践祚の儀もやったかどうか分からないが、正当な皇統とされた。それは、逆賊とされた尊氏のせいかも知れない。お陰で今日まで北朝の歴史は消されたままだ。その北朝初代の光厳天皇の生涯が凄まじい。最晩年やっと安らぎを得て創建したお寺が、常照皇寺だ。

 

平家物語や太平記・戦国時代も、そして明治維新でも分かるように、平安京のある京都盆地は、攻めやすく守りにくい。都を治めるためには相当安定した政治力を備えていなければ維持出来ない。一時の勢いで攻め取ってもすぐに挽回されて、守り切れず都落ちとなる。南北朝時代のように確たる政権基盤が成立しない時は、何度も何度も都落ちと、都奪回が繰り返される。武将は仕方ない。気の毒なのはその都度引き回される天皇だ。

光厳天皇は持明院統。大覚寺統の後醍醐天皇の後を継いだが、すでに不安定な時代に突入していた。案の定、隠岐に流された後醍醐天皇が京都を奪回した時には、一時伊吹山まで逃れたという。しかし建武の新政が瓦解し南北朝時代になって京都に還幸した。しかし尊氏・直義の騒乱などに翻弄され、南朝方に捕らわれ吉野に幽閉されたりしている。最後は一出家僧となって禅の修行に打ち込んでいる。

死ぬまで政権に拘り、遺言に「わが身はたとい南山の苔に埋るとも魂魄は常に北闕を望まん」と執念の塊で死んだ後醍醐と光厳とを比べれば複雑な思いがよぎる。

しかも後醍醐を弔う天龍寺の創建については、尊氏・直義よりも時の上皇であった光厳の存在が大きかったのである。それでいて歴史からは消された悲運の天皇の寺を訪ねた。

 

洛外と言うには無理があるほどの遠い京北の地だ。周山街道を高山寺や神護寺を越えてなお30分ほど車でかかる。境内は山中にあり、四季折々の花が見られる。特に九重さくらは国指定の天然記念物だ。本堂の釈迦如来を拝んで、その御陵である「山國陵」を訪ねる。遺言通り誠につつましくひっそりしていた。石段下から遠く眺めるだけだが、穏やかな晩年を過ごし悟りの境地であったのではないかと感じた。

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58 アチャコの京都日誌 再びの京都

2017-05-18 09:52:47 | 日記

58 アキレス腱つながった でも歩けない

 

 眞子内親王殿下が、婚約との報道。誠におめでたい事であり日本人であることの誇りを感じる。何しろ皇室関係の話には、誰しもが関心を持っているし、同様に親愛の念がある。この点においては政党も思想背景も関係がない。

 しかし、この機会に現在の皇室の危機は、神武以来の存続の危機であることを国民共有のことにすべきと思う。現在、天皇の皇位継承順を改めて確認する。皇太子殿下のあとは、秋篠宮殿下、悠仁親王殿下、そして常陸宮殿下、以上である。誠に恐れ多いが、悠仁親王にもしものことがあれば、あるいは悠仁親王の御誕生がなければ、我々が生きているうちに皇室の存続の危機を見てしまうことになっていたのだ。皇室の系図を改めて眺めると、なんと女性(内親王)ばかりが生まれている。これは現在に始まったことではなく、昔は男子が育ちにくい事と、そもそも天皇家にはなぜか女性が多い。

 そこで明治以前までは、中宮や皇后を頂点とする「妃」と呼ばれる女官を多く抱え周辺に侍らせていた。もし子をなしそれが、男子ならばしかるべき高位の女性の養子としその子が、登極(天皇になる)すればその女性を皇后としてきた。つまり天皇の後嗣を多く受け入れる態勢があったのだ。それでも皇位継承の危機はあった。今上陛下のわずか六代前、光格天皇は前天皇の後桃園天皇に適当な継承者がいなかったので、4代遡った中御門天皇の弟君の系統から選ばれた。現在はその直系でつながっている。しかし現在は一夫一妻制の時代なので血を繋ぐにはさらに困難な時代だ。

 従って、女性天皇の議論や、宮家創設(以前の宮家男子にお戻りいただく)、女性宮家創設などいろいろ議論が出ている。私は個人的に、以前の宮家男子に皇室にお戻りいただくしかないと考える。理由はとても複雑なので後述するが、今は悠仁親王殿下にお健やかに成長いただくことのみを真剣に見守りたい。

 

 赤山禅院に行って来た。数年前だ。

 京都には、〇〇巡りと言われるものがいくつもある。洛陽33か所観音霊場巡り、六地蔵巡り、洛陽6阿弥陀巡り、また西国33か所観音霊場の内12か所は京都府内にある。そして赤山禅院は、都七福神めぐりの福禄寿のお寺となっている。日本最古とされる都七福神めぐりは、恵比寿神が恵比寿神社、大黒天が松ヶ崎大黒、毘沙門天が東寺、弁財天が六波羅蜜寺、寿老神が革堂、布袋尊が萬福寺。そしてここが福禄寿となっていて車があれば一日で回れる。

 

赤山は、東山36峰の三番目の山である。また御所の鬼門に当たる為、王城鎮護の寺とされ、本尊を赤山明神とし神仏混淆のお寺である。

特に、中秋の名月に当たる日には、天台宗秘法の喘息封じの「へちま加持」があり賑わう。また鬼門封じの猿の置物が拝殿の屋根の上にあるのが可愛い。御所の鬼門の角には「猿が辻」として金網の中に猿がいるなど、鬼門封じの猿が京都のあちこちで見られるのも注目したい。因みに、鬼門は丑寅の方向。その逆方向が猿未の方向なのだ。虎を猿で封じるのだ。

クリックすると新しいウィンドウで開きます

狭い境内だが、当日は出店も出ていてひと昔前の気分を味わえる。

 尚、「五十払い」(ごとばらい)はココが発祥と言われる。申の日でしかも五日に当たる日(めったにない)に赤山をお参りすると特に吉運に恵まれるとされ、そこから商売の集金支払日を、5と10のつく日にしたというのだ。今は自動決済が多くなったが、以前は京都市内は五十日(ごとび) には交通渋滞がひどかった。

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2017-05-17 13:31:28 | 日記

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57 アチャコちゃんの京都日誌  再びの京都シリーズ

2017-05-17 13:07:24 | 日記

57 アキレス腱つながった けど歩けない。

 

 再び、意を決して、東京まで行って来た。重要な会議があるのでここ京都から長躯出かけた。

基本的にどこもバリアフリーに出来ているが、エレベーターやタクシー乗り場などへの移動が大変だ。けが人や身障者への配慮はまだまだ考える余地がある。普段何気ないスロープも杖や車いすには意外にきつい、また平面に見えるきれいな床面も実は凸凹しているところが多い。そして何より怖いのは「滑る事」だ。特に雨の時は恐怖感が先立つ。見た目には光沢美しい床材も雨に濡れれば危険な領域に変化する。松葉杖では転倒の危険性が高まる。

会社内でも、床の配線や段差はなくしてもらいたい。そしてとても困るのが自動ではないドアだ。特にトイレのドアなどは値打ちをつけるためかとても重いものが多い。足を踏ん張らなければ開けられない。昔あったような押すだけで開いて通り過ぎれば勝手に閉まる、のれんに近いものが良いのだが?

 

 楊谷観音に行って来た。前回の十輪寺の近くだ。まだアキレス腱が繋がっていた3月始めだ。

「楊谷寺」の画像検索結果「楊谷寺」の画像検索結果

こちらは、独鈷水(おこうずい)と言う弘法大師の霊水が今日も涌いていると聞いて行ってみた。京都は北から南に向かって脈々と地下水が流れていて、至る所で名水と言われる井戸や湧水がある。京の都が今日まで繁栄し文化の発展を見たのは、この地下水のお陰である。酒造・京菓子・豆腐・染色・等々、加えて、茶道や宗教儀式にも名水や神水の存在が欠かせない。

 梨木神社の染井。晴明神社の晴明水。宇治上神社の桐原水。清水寺の音羽の滝などは有名だ。

ここ楊谷寺、独鈷水は、その昔空海が、このお寺に入った時に、眼のつぶれたサルの子に母サルが一心に湧水で目を洗っている。それを見た空海が祈願すると満願の日に子猿の眼が開いたと言う。獣にもご利益があるのならば、人間にもあると思い霊水に奉った。

その独鈷水。本堂左奥のお堂に、その井戸はあった。覗くと水の湧き出ている音が聞こえる。周りには汲むための桶が置かれている。ちょうど妙齢の女性が、自ら持ってきたポリ容器に一心に汲んでいた。お聞きすると、「この水で飲料水のすべてをまかなっている。」と言う。「京都の名水をほとんど試して見たが、自分にはこれが一番。」「他の水は飲めない。」とまでおっしゃていた。

一杯コップで頂いたが、確かにマイルドな口当たりが美味しかった。

 写真は了解を得て写した。ミニの似合うとてもチャーミングな方でした。(もっとしゃべりたかった。)

 

 さらに、奥の院にも見どころが多い。本堂は靴のままで行けるが、奥の院までの100メーターほどの段梯子は、靴を脱いで粛々と登る。一番奥まで行くと西山の景色が広がる。

因みに、112代霊元天皇が眼病を治療し、113代の東山天皇の皇妃が安産祈願をし、そして生まれた115代中御門天皇が両親の追善供養でここ奥の院の観音様を作られた。歴史あるこの寺だが、今上陛下が125代であることを考えると、わずか10世代の隔たりなので、なぜか身近に感じた。

「楊谷寺」の画像検索結果

空海からは1000年の時間と空間を感じる・。色んな意味で奥深い寺だった。


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