アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

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2017-05-16 21:49:51 | 日記

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56  アチャコの京都日誌 再びの京都

2017-05-16 21:34:44 | 日記

56 アキレス腱つながった

 

リハビリは主に自宅だ。配偶者の冷たい視線は我慢するが、飼い犬の「茶茶丸」までが、目の前を通過すると吠えるでもなく冷ややかな視線で追って行く。めげずに頑張るが、ここは、やはり吾輩のプライドを保つためルームランナーを購入することにした。

アマゾンで15000円ほど、正しくはルームウォーカーだ。走るくらいなら外に出る。あくまでも徒歩のリハビリ用だ。

  

清涼寺に行って来た。数年前の話だ。その後何度となく周辺を散策している。

清涼寺は、嵯峨の釈迦堂で有名だが。国宝の清凉寺式と言われる釈迦如来に興味を持ったことと、近くの嵯峨豆腐を食べて帰るのが定番の楽しみになっているからだ。

嵯峨天皇の皇子、源融(とおる)ゆかりの棲霞寺が元々の寺だが、源融は源氏物語の光源氏のモデルとも言われている。長生きして、60歳近くでも菅原道真の時代まで活躍した辣腕政治家で、最後まで登極(天皇になる事)の望みを持っていたようだ。その面影を彫ったとされる阿弥陀三尊像も国宝だ。端正なお顔立ちだが、残念ながら現代ならばもてないだろう。

清凉寺釈迦如来とその内臓seiryouji_syakanyorai 07

 面白いのは、清凉寺式の釈迦如来立像。なんと内臓があるのだ。絹で作られた五臓六腑が発見された。インドで釈迦生身の尊像を作ったものを、摸刻し持ち帰ったのが1000年前。つまり中国ではその時代にすでに正確に人間の体内の構造を知っていたことになる。驚くべきことだ。

その内臓も含めて国宝なのだ。

壮大な本堂を始め、広い境内には、その時代のゆかりの遺跡が多くある。なぜか豊臣秀頼の首塚もある。ゆっくり探索した後、嵯峨豆腐を目指す。

すぐ隣の、「嵯峨豆腐 森嘉(もりか)」で買って帰るもよし、すぐ向かいの「おきな」で湯豆腐をいただくのも良い。まったりとした豆腐に意外にコクのあるだしを浸していただくと、なんだか至福の時だ。豆腐なのでヘルシーでいくらでも食べられるし高級な店でもそんなに高くない。

 

 心もお腹も暖かくして帰路につく、京都散策の醍醐味だ。因みに、南禅寺の湯豆腐との違いも味会いたい。違いは分かるが、文章に表す表現力は小生にはまだない。

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55 アチャコの京都日誌  再びの京都

2017-05-15 09:04:46 | 日記

55 アキレス腱つながった

 

 稀勢の里が大けがしたのは春場所終盤だ。その頃には私はすでにアキレス腱を断絶して休んでいた。その稀勢の里が、昨日夏場所に強硬出場してやはり負けた。いかにスポーツ選手でも無理がある。一般人の不摂生のおじさんの私は未だ松葉杖だ。昨日から片方だけ使っての歩行も可能となった。片手が使える事で物資運搬が独力で出来る。家庭内での弱者からの脱却の第一歩として、大きな前進だ。配偶者にどんな物でも頼んで持って来てもらう屈辱から解放された。

 

大原の勝林院に行って来た。魚山声明大法要「御忌会」に参加した。数年前のことだ。

 

   京都市左京区大原、洛北エリア、天台宗の三門跡寺院のひとつである三千院の参道奥にあります実光院は、魚山大原寺勝林院の子院です。庭園(契心園)は四季折々に花を咲かせる山野草が植えており、特に不断桜は必見です。   

 

声明とは、お経を声高らかに歌い上げる事。すべての歌謡はこれに由来する。壮大なハーモニーを聞いてきた。ここ大原の地は、仏教声明の発祥の場所で、三千院、寂光院、宝泉院など、見どころのお寺も多い。衣笠からバスで30分くらいの山里で、鴨川の源流となる律川・呂川に挟まれた一帯だ。呂律は、言葉の調子のことで、吾輩は痛飲した時には呂律が回りませんが、お経にも呂律は重要だったのだろう。その二文字を川の名前にしている。

 

勝林院のそう広くない本堂内の戒壇周辺に置かれた座席で、直に声明の響きを聞いていると、体に直接伝わってくる。参加者への御利益も当然だが、腹の底から出す僧たちの発声はさぞかし体に良いだろうと思った。坊さんが長生きなのはこれが原因かも知れない。また、その昔は声の良い僧侶には、女性信者が多く集まったというのもうなずける。

さて、ここ勝林院の御本尊の阿弥陀如来は、「証拠の阿弥陀」と言われる。鎌倉時代の天台宗座主顕真が、浄土宗宗祖法然に、浄土の宗義について論争したのがここ勝林院。

photo│大原問答

あまた集まった高僧の前で、法然が阿弥陀如来の徳果を理を極め詞を尽くして説いた時、阿弥陀如来から光が発せられたことから、「証拠の阿弥陀」と言われる。また、そのお手からは七色のひもが繋がれており信者はそのひもに触れる事で、極楽浄土に導いてもらうという具合だ。

本堂前の、苔むす庭を眺めつつ周辺のお寺を巡った。

 

宝泉院は、五葉の松が素晴らしいしく、有名な「血天井」の一つが見れる。三千院は、境内の往生極楽院内の阿弥陀三尊像の脇侍の座り方(大和座り)が珍しい。建礼門院ゆかりの寂光院にも足を伸ばした。

丸一日のんびりと過ごせる。

因みに、ユーチユーブでその様子を検索したら、参加者の中の吾輩がしっかり映ってた。還暦祝いの赤いジャケットなのでよくわかる。

 

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54 アチャコの京都日誌 再びの京都

2017-05-14 10:04:30 | 日記

54 アキレス腱つながった

 

歩行訓練は、二日目。朝、足湯で温めてから家の中を歩く。ひたすら狭い家の中をぐるぐる巡る。洗濯物、クッション、孫のおもちゃ、数々の障害物を避けながら巡る。一周7メートルほどだから10周しても100メートルにもならない。松葉杖への頼り度を低下させつつ、自立歩行の可能性を考えながらひたすら歩く。

配偶者に洗濯物等の障害物の除去を依頼する。「外で歩けば?」 「・・・・・・。」

外は、車や凸凹など障害が多い。

畜生!アマゾンで、ウォーキングマシンを買おう!!

 

西賀茂の正伝寺に行って来た。数年前の寒い雪の日だった。

 f:id:miyama:20080511152732j:image

 

山門

  「正伝寺」の画像検索結果

猪子の児わたしの庭

 

京都の寺巡りに魅了された理由の一つに、「血天井巡り」なるものがあった。血天井?

寺の天井板に切腹した武将の血痕が付いている。東山の養源院、大原の宝泉院、鷹峯の源光庵、その他数か所あるが、その話というのは関ケ原の時代だ。

徳川家康は、石田三成の策略と知りつつ、京都から、会津上杉征伐に遠征する。その留守中に三成は、西の毛利・東の上杉と結託し家康を挟み撃ちに滅ぼす作戦だ。家康はそれを知りつつ起死回生の天下取りの勝負に出るのだ。従って、留守中の居城(伏見城)は、捨城になる。三成が必ず攻めてくる時には捨てる城である。その留守を守る武将に、名乗り出たのが「鳥居元忠」。

当時、「三河武将の鏡」と言われた元忠は、この時すべてを悟り、家康の天下取りに一命をささげた。今川家の人質時代の13歳の時から家康に仕えた彼は、戦場での「感状」さえも断った。戦場においてはその武功を後の報償の為に、その場で「感状」なる書置きを大将からもらっておくのが一般的だ。元忠は、自分にはそのようなものは必要なしと言った。生涯家康以外に仕える気のない自分には、そんな形式は不要という事だ。

 さらに、伏見城から出立する家康に、「討ち死にするわが身に兵は不要」と、さらに「殿が天下を取りなされる為に一兵でも多くの兵をお連れめされよ。」と言ったという。家康は、最後の夜、深夜まで、酒を酌み交わしその温情を惜しんだという。

 そして、その通り元忠は、西軍の数万の大軍を前に華々しく討ち死にし、関ケ原に西軍が到着するのを遅らせて家康の天下取りに貢献した。

その功績をたたえて切腹時の血痕残る「正伝寺 血天井」の画像検索結果

廊下板を天井に掲げた寺がある。その一つが、正伝寺。

 

 

 

 西賀茂は、市バスの終点「西賀茂車庫前」で降りて歩いて行く。京都の西北方面。五山の送り火の船形のふもとにある。山門から登りの続く参道の突き当りに入り口があり、すぐ左本堂は伏見城の遺構だ。小堀遠州作の庭園は、「猪子の児渡しの庭」竜安寺の石庭に似て七五三調になっていて、ここは石ではなくサツキの刈込を配している。さらに遠く比叡山を借景にしているのが壮大だ。うっすら雪をかぶった様子を楽しんでいたら屋根から大量の雪が落ちて来て驚かされた。「喝」!

 そして血天井。人の形も生々しく残っている。忠義の武将たちも断末魔の苦しさに、床をつかんだのであろう、手の形が痛々しい。このような形で冥福を祈るのも一つの形かと思う。

 狩野山楽の襖絵や、蒙古襲来の時の「蒙古降伏祈願文」など、寺宝は国立博物館に預けている。

もう一度庭に目を向けて、しばし思いにふける。

 

先ほどの祈願文の最後に、

世の末の 末の末まで 我が国は よろずの国に すぐれたる国

と書かれた和歌が伝わっている。

 

 昔の高僧は、真に日本の将来を考え、国難に際しては心を込めて祈願していたのだ。

因みに当寺の正式名称は、「正伝護国禅寺」

良いお寺だ。

「正伝寺」の画像検索結果

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53 アチャコの京都日誌 再びの京都

2017-05-13 08:53:48 | 日記

53 アキレス腱つながった

 

足の装具が取れて、歩行訓練が始まったが、2か月間固定していた足首の硬直は、予想以上であった。アキレス腱を繋げる為かかとを固定した事と、歩くための柔軟性を戻す行為は、相反する作用なので、恐怖感が先に出る。再断絶は絶対に避けねばならないから・・・。リハビリの日々が始まった。

 

 十輪寺に行って来た。アキレス腱断絶直前の3月上旬だ。

 

別名、「なりひら寺」と言われる十輪寺は、在原業平が晩年過ごした地である。

在原業平とは、平城天皇の直系の孫で、世が世ならば天皇にもなれた血筋だったが、薬子の変で平城天皇が事実上失脚したので、長く冷や飯をかこっていた。しかし、六歌仙の内の第一人者で当代の色男であったことで名を残した。とにかくもてたのである。伊勢物語のモデルとも言われる。今風に言えば「女に不自由しない男」なのだ。容姿が抜群に良かったと言い伝えられるが、通い婚の時代なのでやはり「歌」が上手かったのだろう。

 「十二単 イラス...」の画像検索結果

因みに「通い婚」とは、夜女性の家に忍び込んで夜を過ごすのである。夜這いに近い。違うのは、高貴な方たちは和歌を交わす。その巧拙で恋が左右されるのだ。考えて見れば十二単で身を包み、長い長い黒髪で覆われた顔。しかも照明施設の無い時代だ。夜通ったならば、確かな顔や体形はよくわからないママ交わったのではないかと想像する。しかも極めて高貴な女性は、御簾の中で過ごしている。最後の決め手は、匂い(香り)しかなかったのではないか。香道があれほど発展した背景はこのような事情があったと思う。今のように白日の下で肌を露出したファッションで、体形や容姿を隈なく確認した上で、交際するのとは大きく違う。これを理解しないと中世の恋愛は理解できない。

 

 業平は、女性の心をつかむ歌を詠み。ころりと落とすいい匂いもさせていたのだろう。どれだけもてたか?なんと、時の天皇の中宮が、彼の昔の女?だったのだ。天皇は清和天皇、中宮は藤原高子、その子の陽成天皇は業平の子とも噂されたのだ。

 

十輪寺には塩焼きの窯跡が残っているが、近くの大原野神社に、かつての恋人の高子(二条の后)がお参りに来ているとき、業平はそこで塩を焼いて登る煙で自分の心を伝えたのである。その時の歌が、

大原や 小塩の山も けふこそは  神世のことも 思出づらめ

因みに、塩焼きとは海の水を焼いて塩を作る作業だが、浪速の海水を使いの者に運ばせたというから大変な贅沢な趣味だ。寺内には、この窯跡と、業平の墓がある。

 

また鳳輦の形をした本堂には、地蔵菩薩が本尊としてまつられ、正面右奥の庭園は、寝そべってみると趣が分かるという、微妙な傾斜が珍しい箱庭のような庭だ。渡り廊下の奥には、襖絵も楽しめるこじんまりしたお寺だった。

 

 西山の中腹にあり、ハイキングがてら行くか、車で行くのが良い。近くの、光明寺・楊谷寺・善峯寺などとセットで巡りたい。

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