アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

番外 年を重ねると「気にいらない事」が多い

2019-01-30 08:52:32 | 日記

集団リンチ (結局は一部のエリート社員に理不尽が襲う)

明石市長がやってくれた。

「明石市長」の画像検索結果

マスコミによる集団リンチが始まった。「火を付けて来い!」「自分で賠償しろ!」と、言葉がどんどん切り取られ独り歩きする。ハラスメントだ、暴言だと大騒ぎになる。冷静に考えて欲しい。そもそもこの様な録音が何故出回るのか?当事者からではなく横にいた人間が録音していたらしい。会社や役所などで録音可能な状態でスタンバイしている部下が常にいるのだ。さらにこの録音がはるか2年前である事。今年は統一地方選挙である事を考えると匂いがぷんぷんする。

一方、叱られている市の職員の怠慢はどうなのか。企業でも勤務懈怠の社員に強く指導するのは当たり前ではないか。まして市民税を使う公務員の職務怠慢は市民にとって許しがたい事なのではないか。選挙で選ばれた市長が激高するのはむしろ称賛されるべきではないか。「火を付けて来い!」は、アメリカンフットボール監督が、「やっちまえ!」「殺す気で行け!」などの類であって、それが為に職員が放火するはずはないのである。

このようにマスコミの「切り取りの暴力」で炎上させると、世の管理職は部下を指導できなくなるのだ。長年にわたり太古の昔から暴言でも暴力でも優れた生存能力を持つ祖先がその遺伝子を繋いできた。わずか数十年前まで「叱る」という感情が必要だった時代を経て今日「ハラスメント」という新語で大きく世の中が変わっても対応できない熱い?上司が存在するのだ。

通常の指導とハラスメントの境目が日々変化する今日、世の管理職たちは「叱る」のをやめて自ら仕事を抱え込み、働き方改革の名のもとに早々に帰宅する部下を見送り深夜までサービス残業をしているのである。

理不尽は一部のエリート社員に来るのだ。

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520 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第50代 後亀山天皇

2019-01-29 12:30:53 | 日記

  ㊿ 平安京 50代 通算 99 代 後亀山天皇(南朝)

 

在位 1383年~1392年

業績(事件) 南北朝統一へ

父   後村上天皇 

別称  金剛心

死因  病死

御陵 嵯峨小倉陵

宝算 ?歳

 「後亀山天皇」の画像検索結果

 

後亀山天皇、・・・・・・いきなり筆先が止まる。まず生年月日が不明なのだ。いつも参考にする「歴代天皇総覧(中央新書)」には?~1424年となっている。ウィキペディアでは、1350年?となっている。生誕地も賀名生行宮と推定される。兄の先帝の長慶天皇とは、不仲であったという。強硬派の長慶に対して後亀山は穏健派で、南北朝和睦も視野に入れていた。そこに届いた義満からの条件は、神器の譲渡と両党並列(交互即位)だった。これを信じて統一に応じた。背景には長く吉野の地に隠棲状態であった南朝は経済的にはすでに破たんしていたのである。室町幕府内の内紛「観応の騒乱」の時は、一時的に北朝が南朝に降伏する動きもあったが、世は義満の登場で幕府の全盛期を迎えていた。唯一の忠臣楠木正成・正行はすでにこの世になく南朝の挽回は絶望的であった。

吉野から奈良興福寺、嵯峨大覚寺を経て天龍寺に入り、自分たちの存在意義である三種の神器を手放した。「明徳の和約」である。しかし、しかしである。自分の血統に皇位が戻らない(騙された)ことを悟った後亀山上皇は、再び吉野に籠る。その後、何度か南朝復活を目論むが、神器もなくゲリラ的な動きでしかなかった。

因みに、その後しばらく続く南朝の動きは、「後南朝」という。
1350年生まれとすると72歳まで生きたことになる。過酷な人生であっただろう。正式に99代天皇とされたのは、何と明治になってからであった。天皇の業績は、新続古今和歌集に3首載っているのみで何も記録されていない。

 

大覚寺に残る御真影は、天皇と言うより禅僧のような意志の強さがうかがえる。

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519 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第49代 長慶天皇

2019-01-29 09:11:21 | 日記

 ㊾ 平安京 49代 通算 98 代 長慶天皇(南朝)

 「長慶天皇」の画像検索結果

在位 1368年~1383年?

業績(事件) 南北朝対立

父   後村上天皇 

別称  金剛理

死因  病死

御陵 嵯峨東陵

宝算 51歳

 

長慶天皇は何と、正式に98代天皇に認められたのは、大正の時代になってからだ。長く即位した形跡を認定されずにいたのだ。後醍醐天皇の直系の孫であることは間違いないのだが、吉野の山中で生まれ多くの人生を隠遁生活に終始した。

従って、御所はなくすべて「行宮」(行宮とは本来旅先・遠征先の天皇の行在所の事)となっている。また、即位の真偽についても、江戸時代に水戸光圀が「大日本史」の中で、即位を主張したが決まらず、結局明治以降の学者の判断まで待たねばならなかった。大正15年遂に、勅書をもって正式に98代長慶天皇として皇統に加わった。従って、在位中の業績や功績は何も残っていないが、次の後亀山天皇が南北朝統一に同意し、天龍寺に入った時、それに従わず終生吉野にいたと、伝わる。即位後、すぐ南朝のシンボル的武将楠木正儀が、和平派に転じ北朝に降った。あろうことかその正儀を主将に北朝方の攻撃にあって、数少ない配下の武将70名以上が打ち取られ、天野行宮から吉野に還幸する羽目に陥ったり散々な目にあっている。記録にはほとんど残っていない天皇だが、強靭な意志の強さがうかがえる。

あくまでも後醍醐天皇の遺言に従って、北朝に屈しなかったのである。

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番外 気にいらない事が多い

2019-01-29 08:49:27 | 日記

幼児虐待

実の父親が10歳の我が子を虐待で殺した。もうこんなことは終わりにしてくれ。筆者の家には3歳の孫(女の子)がいる。この子に手をかけることが出来ようか?連れ子に暴力を振るう後妻や義理の父という事件は多い。これも許せないが実の我が子を虐待するのはどの様な事情があるのだろうか。左翼評論家は、自らが虐待を受けた子が大人になった時、同様にわが子に虐待しやすいと同情的に言う。筆者は一片の同情もしない。厳罰で対処してもらいたい。

これは学校教育が破たんしているからに他ならない。道徳教育の手抜きが今日の社会の退廃を招いているのだ。問題意識のある小金持ちは公立学校にわが子を預けない。教師もそうだが友達となる同級生にどんな家庭の子がいるかが心配なのだ。

公立の教師、児童相談所などの行政職員は悲しいかな世間知らずである。行政手続きや現場の悲惨さは知っているが抜本的な解決策は持たない。自分の職務範囲を越えないし在職期間を無難に過ごしたいと思う。

従って、提言は「企業経験者を教師にする。」である。激烈な企業現場で部下教育に成功したエリートを抜擢して高給で教師に招請するのだ。一定の後企業に戻る。企業においても教師経験者は篤く処遇されるのだ。

学校教育が国家の最大重要事項とすれば、実社会の成功者を教育現場で活躍してもらうのは喫緊の課題だ。

(以上筆者の私見であり教育現場で苦労する教師たちの苦労もいくばかりかと思料する。)

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518 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第48代 後村上天皇

2019-01-28 08:46:06 | 日記

 平安京 48代 通算97代 後村上天皇(南朝)

 「後村上」の画像検索結果

在位 1339年~1368年

業績(事件) 建武の親政から南北朝対立

父   後醍醐天皇 

別称  特になし

死因  病死

御陵 檜尾陵

宝算 40歳

 

醍醐・村上天皇の時代(延喜・天暦の治)に憧れた先代後醍醐天皇が、自ら追号に選んだ。従って、当然次代の諡号は、後村上天皇となる。しかし二人とも終生戦場に身を置くことになる。

後醍醐については詳しく書いたが、後村上天皇は、多くの兄弟親王を戦場や暗殺によって亡くし、くしくも南朝2代目の地位を継ぐことになった。吉野から京都に還幸する事10回に及び、結局都から遠く離れた地で生涯を終える。

後醍醐天皇第7皇子の義良(のりよし)親王が、後の後村上天皇だが、わずか5歳で北畠親房の子顕家と共に奥州多賀城に赴任していた。東北地方の不穏な動きをけん制する為、遠く陸奥の地に朝廷の権威を置いたのだ。結果、建武の親政の大混乱の戦場から離れていた為命を保った。その後、尊氏の謀反により比叡山に戻り、そこで元服する。一旦多賀城に戻り、そこも襲撃され、各地で戦場を潜り抜け吉野に至る。その後またまた多賀城に戻る時に、伊勢沖で船が難破して急死に一生を得て吉野に戻り、そこで立太子する。すぐに高師直の襲撃を受けて紀伊に逃れる。しかし「観応の擾乱」(足利兄弟と高師直などの身内の争い)により尊氏・直義が南朝に降参し京都を目指す。しかし尊氏の子義詮に反撃され賀名生に逃れる。この間10回京都還幸を果たすも生涯戦場にいて、現在の大阪河内長野辺りで崩御した。

これが天皇の生涯だろうか、元は父後醍醐天皇の政策の失敗によるとは言え、中世の動乱に翻弄されただけの御生涯であった。

尊氏・直義・義詮そして楠木正成・正行、北畠親房・顕家などの太平記に登場の英雄豪傑が活躍した歴史の大節目にいた天皇だったのだ。天皇の死の前後にみんな世を去り、時代が大きく転換するその前夜にいたことも間違いない。なお、この間京都周辺は、大地震にも見舞われ、飢饉も続き民衆の困窮は窮まっていた。世間は地獄の様相を呈していたのだ。

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