エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

オキナワ鎮魂

2016年06月25日 | ポエム
沖縄の日に、ぼくはいつも黙祷を捧げる。
オキナワの、梅雨明けのジリジリとした暑さ。
火脹れしてしまうほどの、あの熱風邪と日ざし。

平和を希求する旅を、ぼくは何回か歩いた。
沖縄・・・オキナワである。

オキナワの少年、という小説が芥川賞をとったとき・・・。
ぼくは快哉を叫んだものだった。
その声は、暑い沖縄の空に谺した筈である。

オキナワを忘れてはならないのだ。







「オキナワの灼けつく風よ黙祷す」






鎮魂である。
いまなお、戦後の重責を負わせてしまっている。
オキナワに悲劇の全てを体現させている。


ピアノ協奏曲第2番(ラフマニノフ)




真に、オキナワが帰ってくる日があるのだろうか。
自問自答する日々である。



     荒 野人

田植え祭

2016年06月24日 | ポエム
半夏生が、ようやく白粉で装い初める。
この候にこそ似合うのは、田植えの祭事である。

我が家の近くでも、半夏生が鮮やかに変わりつつある。



我が家の周囲は、昔は田園地帯。
だからと言っては可笑しいけれど、道路は誠に狭い。
畦道の名残であるからだ。



半夏生が畦道を照らし出す頃、この辺の農家は田植えをしたに違いない。
大きな農家が多いのも、頷ける地域である。

ご一新で、農地解放があって富農が生まれた。
戦後の税制改革で、広い土地は徐々に奪われ始めている。

マンション経営だとか、貸し農地として開放したりして財産防衛に務めている。
それもまた、空しくも美しい。

豪農の名残の土地で、昨日田植え祭が挙行された。
収穫された米は、皇室に納められるのだ。
今年の農地は、我が家の近くの農家が指定されたらしいのだ。







「八乙女の豊穣祈る田植舞」







八人の早乙女が、田舞を行う。
由緒正しき祭事である。

写真を撮る前には、雅楽も演奏されたらしい。
なんとなく、心が震えるように思えるのだ。
ぼくは、徐々に耽美主義的な時代に回帰しつつあるのかもしれない。



      荒 野人




竹林を歩く

2016年06月23日 | ポエム
東久留米の竹林を歩いたのである。
この竹林は、ぼくの大好きな場所である。

湧水の源が、竹林の奥まった場所にある。
密やかに清水が、沸き出している。



その源には、小さな祠に水神様が祀ってある。
何故かしら、そこだけ空気が変わっている。

いつもアメンボがいる。
清らかな流れの一滴目が感じられる場所である。



この竹林には、見事な筍が生える。
当然の事だけれど「筍をとらないで下さい」の小さな看板が差し込んである。

それでも、筍泥棒がいるらしい。
市の管理も、夜中までは行き渡らない。







「梅雨寒や一眠りして起きてみる」







梅雨晴れの一時、この竹林を歩いたのであった。
大気が冷えていて、梅雨寒であった。

しかし、それはとても嬉しかったのである。
縮緬のやはらかな手触りが・・・感じられるような一時であったからだ。



     荒 野人

万緑

2016年06月22日 | ポエム
もう良かろう。
万緑の候、である。



万緑の語感は、静謐であって黒々としている。
言い換えれば、奥深さであるのだ。
その奥深さは、女の懐の深さであると言い換えても良い。
原始女性は太陽であったのだから、至極当然のオマージュである。

やはり、縄文の生きることへの憧憬に酷似している。
誠に豊かな季語、である。







「万緑の先に全き虚空かな」







ぼくは、恐ろしくて万緑の森には入れない。
森への畏怖、である。
生命への畏怖、である。



       荒 野人

南天の花

2016年06月21日 | ポエム
南天の花が・・・。
ぽろぽろ零れている。
とりわけ、雨の後など顕著である。

変哲もない花だけれど、よく見ると可愛い。
黄色がポイントである。



その黄色が可愛い、のである。
南天の赤い実は、雪ウサギの目玉になる。
その花は、きっとママゴトのご飯だろう。
ぽろぽろ落ちると云うのが、もっとも正しいような気がするのだ。







「雨の街南天の花零れ出す」







南天は、中国では漢方の生材として珍重された。
日本では何故か、トイレの裏側に植栽された。



海生動物のような、例えばヒトデのような模様になっている。
見方によっては、お星様のようでもある。

不思議な花である。




      荒 野人