幼い子どもが人形を愛していた。
誰かが「その人形を借りたい」と言っても少女はそれを離さない。
同じ人形がお店に並んでいても見向きもしない。
でもその少女が年頃になって人間の恋人ができたときには、
その人形は捨てられる。
彼女は神を愛するようになったときには、
変わりやすいその恋人も、人形と同じように捨てられるのです。
神の愛は不変で永遠です。
引用:ヨーガの福音より
私たちは、心の寂しさや不満があると不自由を感じ、満足したいと渇望します。
そして、心は普遍的な愛から遠ざかり、物質や人への依存で愛を満たそうとします。
貪り、手に入れたものに執着します。そして、そのものを失うのではないかと恐れを持ち始めます。
私たちは無知故に煩悩の影響を受け、エゴのつくりあげた思いに惑わされ「永遠の愛」を見失います。
結婚、妊娠、出産とお祝いごとが続きます。
しかし、出産後2日から眠れぬ夜が続きます。幸せは何処にいったのかと多くの母は後悔します。
ほんの1日前は、しあわせいっぱいであったのに。
この世で起こるほとんどの事柄は、しあわせの次に苦痛が訪れるように思います。
その時、「思いは原因。その原因は種のようなもので結果が現れ実を結びます」
寂しいから誰かに依存をすれば、誰かを失う不安が日々の思いに苦痛を与えます。
しかし、最初の「寂しい思い」が原因です。
そして、結局は依存に心が執着して悩まされるのです。
赤ちゃんが欲しいと医者通いをして妊娠、喜びの日々が訪れることでしょう。
しかし、流産はしないか赤ちゃんは無事に生まれるだろうか、
やっと授かった命だからと守りに入り、赤ちゃんの尊い存在を受けとめるどころか心配がつのります。
無事に産まれたら、今度はいい児に育てようと過剰な思いに振りまわされる。
過干渉、心配症、すべては母の思いが中心で児が中心ではない状況になっている。
子育ても日常生活もすべて同じ、
心がつくる幻は、時にはしあわせを感じ、時には不幸を感じるのです。
しあわせも苦しみも感じている心が原因です。
同じです。
この原理を知ることで「永遠の愛」に気づきます。