風まかせ

ふと思ったこと、ちょっと気がついたことを気ままに

テープがない TV業界悲鳴 「シェア7割」工場被災、供給不安

2011-04-02 16:23:04 | Weblog
テープがない TV業界悲鳴 「シェア7割」工場被災、供給不安(産経新聞) - goo ニュース

 テープがない-。東日本大震災で、テレビ業界で圧倒的シェアを持つソニーのデジタルテープ工場が被災し、撮影などに必要なテープ不足に業界が悲鳴を上げている。他社製品に注文が殺到しているものの、安定供給は当面難しく、危機感が高まっている。

 被災したのは、ソニーケミカル&インフォメーションデバイスの多賀城事業所(宮城県多賀城市)。テレビ番組の撮影・編集などに使用される「HDCAM」規格のデジタルテープの生産拠点で、「業界シェアは7割」(関係者)とも言われる。

 しかし、津波で1階が浸水して操業が停止、復旧のめどは立っていない。

 テレビ朝日広報部は「節約や可能な範囲での再使用、他のメーカーとの相談などで放送に支障が出ないよう努める」、NHK経営広報部は「すでに他メーカーに切り替えて対応している」とコメント。だが、テレビ局より深刻なのは、番組を制作し、テレビ局に納入している映像プロダクションなどだ。

 春の新番組を控えて需要が高い上、期末で業者が在庫整理中だったこともあり、映像プロでは「ソニー製のHDCAM規格が全く手に入らない」と声をそろえる。ある大手映像制作会社の社員は「特に連休明けの3月22日頃は枯渇状態で、海外取材チームに持たせるテープが見つからず、ようやく調達できたときには心底ほっとした」という。

 HDCAM規格のテープでシェア2位の富士フイルム、3位の日立マクセルには注文が殺到。両社は「震災後3週間で通常の2カ月分の注文を受けた」という。

 しかし、映像プロ向けの注文はさばき切れず、増産についても「計画停電もあり、当面は通常の生産量維持がやっと」(富士)という状態だ。

 前述の社員は「今は震災で番組制作が延びて助かっている。通常放送に戻る前に、何とかテープが出回るようになってほしい」と話す。

 生産効率を上げるために、工場を1か所に集中していたことが裏目に出たようです。

東日本大震災 命救った先人の教訓 石碑「津波用心」言い伝え信じ迅速避難

2011-04-02 16:14:08 | Weblog
東日本大震災 命救った先人の教訓 石碑「津波用心」言い伝え信じ迅速避難(産経新聞) - goo ニュース

 「千年に1度」と言われる東日本大震災の大津波は被災地に壊滅的な被害をもたらした。そのなかで、昔から何度も津波を経験してきた宮城県石巻市雄勝町の水浜集落は、約130戸の集落がほぼ壊滅したが、住民は380人中、死者1人、行方不明者8人で全体の2%程度。背景には、地域で受け継がれてきた知恵や防災意識の高さがあった。(田中一世)

 水浜集落は、津波を増幅させるリアス式の雄勝湾の入り口にあたる。昭和8年の昭和三陸津波や、35年のチリ地震津波を経験し、昨年2月のチリ地震でも約70センチの津波が押し寄せた。集落近くの市の支所前には、「地震があったら津波の用心」と刻まれた石碑があった。

 石碑は今回の津波で流されてしまったが、長年言い伝えられてきたその言葉を胸に刻んでいる。

 主婦の秋山勝子さん(67)は地震当時、海岸から約30メートル離れた自宅にいたが、夫とともにそのまま飛び出し、高さ二十数メートルの高台を目指した。高台に着いた約15分後、茶色く濁った波が轟音(ごうおん)とともに、集落をのみ込んだという。

 湾を襲った津波は最高約20メートルに達し、約130戸のうち9割以上が流出。だが、住民約380人の大半は波がくるまでに、高台に登り難を逃れた。

 地区では毎年、高台に上がる訓練を実施している。地区会長の伊藤博夫さん(70)は「水浜のもんは、高台までの一番近い道を体で覚えている」という。「貴重品やアルバムはすぐに持ち出せるよう、リュックサックにまとめている」と話す住民もいた。

 集落には1人暮らしのお年寄りも多かったが、伊藤さんは「どこの家に誰がいるか、頭に入っている」。自身も独居高齢者を家から連れ出し、背中を押して高台を目指した。

 今回、被害が大きかった地域では、荷物を持ち出そうとしたり、車で逃げようとして渋滞に巻き込まれたりして、逃げ遅れたケースも目立つが、秋山さんは「命さえ助かれば、後は何とか生きていける。とにかく逃げること」と話した。

 高台にある避難所に逃げたが、集落は孤立した。入り組んだ地形の沿岸部にある集落は石巻市中心部から30キロ以上離れ、当初、道路はがれきや土砂で寸断された。4日間は完全に隔絶されたが、全く慌てなかったという。

 もともと市内から離れたこの地域は米や缶詰などの保存食を備蓄する習慣があり、水が引いてから被害に遭わなかった家に備蓄されていた食料を全員で分け合った。

 さらにガソリンを節約するため、集落中の燃料をまとめて1台の車だけを使用、数日たってから1本だけ通った道を使って買い出しや、親類などへの連絡を効率的におこなった。

 今も高台の避難所には約120人が共同生活を送る。まだ電気、水道がなく、電話は通じない。さらにホタテ養殖が県内一盛んだったこの集落の船約50隻も4隻しか残らなかった。しかし伊藤さんは「われわれに悲愴(ひそう)感はない。支え合ったみんなとなら、またやっていける」と話した。

 過去の教訓に基づき、警戒を怠らず、訓練も積んでいたことが人的被害を少なくしたようです。