マシュマロ’sエンディングノート

~At the end of a marshmallow-like life~

捨て曜日に処分したモノ(グッズ系一掃計画開始)

2021-01-08 | 日々の暮らし
昨日は捨て曜日でした。
今回は、また気持ちの変化が起きて、今まで手放せなかったモノを処分しました。

好きで集めたグッズ
これまで、かなり思い切って趣味のモノ、好きで集めたモノを処分してきましたが、まだ心の準備が整っていないモノが多くあり、手元に残してあります。
しかし、昨夜少し心の変化があり、徐々に処分していくことを決心しました。

処分するのは、主にグッズで普段の暮らしで使用しないモノです。
具体的に言うと、頻繁に使用する文房具や筆記用具は、現在進行形で使っているので残しますが、それ以外の飾って眺めるモノであったり、バッグなどに付けて楽しむモノであったり、普段使いはできるが実際は使っていなかったりと、そういったモノを処分します。

好きで集めたグッズは、所有物の中でも処分する基準を設け難いモノですよね。
例えば、思い出の写真や大切な誰かから贈られた大事なモノは、生活への利便性などがなくても、処分したくない方へ気持ちが向いているモノですが、そういったモノの次に処分を迷うのが、好きで集めたモノです。
使い道がない、ただ集めて眺めているだけ、所有しているだけの趣味のモノは、手放したとしても生活には全く支障がないと、頭では理解できています。
しかし、大好きなモノを手元に置いておくことや、数量を多く持つことで、好きな気持ちの大きさを可視化しているようなところもあって、手放してしまうとその好きな気持ちを否定してしまっているような気持ちになってしまいます。
だから、趣味のモノの中でも特にグッズ系は、手放すことを考えると想像するダメージも大きくなってしまいます。

グッズ所有数で好きを量る
私は若い頃、グッズの所有数で自分の気持ちを量ってきたようなところがあります。
その気持ちの中には、他の人に負けないくらい好きなのだということをアピールしたい気持ちも含まれていましたし、誰かに「すごいね」と言われる快感を楽しんでいたような部分もあります。

ただ、これらの気持ちは結局誰のためなのだろう?と冷静に自問してみると、誰のためでもなく、ただグッズを販売している販売元やグッズのデザインや監修を手掛けた本人への収入(売上)に協力する形になっているだけなのです。
そんなことを言うのは寂しすぎる、と思われるかもしれませんが、シビアにそういうことなのだと自覚すると、趣味のモノの中でも、特にグッズ系は購入したら目的は果たされているのですよね。
買うことが着地点なのであれば、その後購入した人がどのように扱うかは、その人の自由ですし、手に余るようであれば処分することになって当然なのかな、と思っています。
いつまでも大切にしたいモノとして購入していても、最終的には日用品と同じように「消耗品」としての要素が大きいかもしれないですね。

実際、好きなグッズを買い集めていても、興味や趣味ががらりと変わってしまえば、それまで好きで集めたモノを一斉に処分する人も結構います(処分方法は人それぞれですが)
年齢と共に変化することもあるし、環境の変化も考えられますが、最終的に自分のテリトリーの中で過去に好きだったモノと現在好きなモノを同時に置いておくことができない状況であれば、当然過去のモノは淘汰せざるを得ないということになります。
そういう意味で、やはり趣味のモノは「消耗品」の要素が強いと思います。

気持ちは持ち続けてグッズは処分する
結構前から、好きな気持ちはグッズの所有数とは比例しないという思考で、グッズ系を少しずつ処分していました。
それでも、どうしても手放したくないグッズはあり、無理やり飾ってみたりバッグに付けてみたり(キーホルダー系ですね)としていましたが、飾っていると掃除の手間がかかるし、バッグに付けているとどこかに当たったり引っかかったりするし、その際に汚れて傷ついて破損したら、かなりの割合で物凄く残念な気持ちになってしまうので、いっそキーホルダーも飾っているグッズも処分して、日々の心配事や気遣い(グッズの取り扱いに対して)を手放したくなりました。

年齢を重ねて、老後の在り方について具体的な理想がある今、そこに向かうために必要なモノが何であるのか、不要なモノは何であるのかを突き詰めていくと、気持ちは一生持ち続けよう、しかしこの世に残ってしまうモノは、なるべく早い時期に手放してしまおう、という考えに落ち着いてきたような気がします。

もちろん、まだすべてを手放せたわけではないです。
ただ、ほんの数日前までは、手放すのはもっと先でもいいと考えていたけれど、昨夜になって処分を先延ばしにしても最後は結局手放すつもりであるのなら、それが今でも構わないはずですから、ひとまずすぐに処分できそうなモノを集めてごみ袋へ入れました。
そう、大好きで集めたグッズなのですけれど、最後は(私の場合)ごみとして処分することになってしまうのですよね。

今朝、マンションのごみステーションへごみ袋を持って行きましたが、朝は思考が鈍いこともあって、その中に大好きなグッズを入れたことは1ミリも思い出しませんでした。
ごみ袋を置いて、家に戻ってしばらくしてから「ああ、とうとう手放してしまった」と思いましたが、後悔の気持ちは全くありません。

グッズは好きなモノや人の化身
グッズが処分できない理由のひとつには、好きなキャラクターや人やグループが、プリンティングされていたり、グッズの製作時点からかかわっていたりするからで、そのグッズはファンにとっては本人やキャラクターの化身として迎え入れている経緯があるからだと思います(私はそういう気持ちがありました)
ですから、本人以外の人にとってはガラクタに見えたりごみに見えたりしても、それは大切な宝物です。
化身ですから、それはもう大切に扱いますし、他人が触るときは慎重に触ってほしいと思うし、できることなら触らないでほしいと思うこともあります(苦笑)

それでも、結局それは化身であって本人ではないし、キャラクターに関しては、原画や原作になっている小説や漫画やアニメなどが本質ですから、化身はいずれ消えてなくなるという認識を持っていてもいいかと思います。
格好つけた言い方をしていますが、要は自分がグッズを手放すときに、自分に対して納得のできる理由を1つ持っておくと、気持ちが楽になるということが言いたいのです。
手放す理由は、もっと他のことでもいいのですが、好きだという気持ちを抑えて無理やり処分するよりは、自分の中でけじめのようなモノを設定した上で、所有を続けたらいいのではないかと思います。

暮らしやすさを追求する
好きで集めたグッズも、残り少なくなってきました。
中には家庭ごみとして処分できないモノもありますが、それ以外は数か月以内に全部処分する気持ちでいます(ただし、使用中の実用品はこの限りではないです)
なぜ、ここ最近手放し難かったグッズも、次々と処分できるようになってきたかというと、暮らしやすさを優先しているからにほかなりません。

グッズは、たしかに自分のモチベーションになったり、癒しになったりと、精神的なサポートをしてくれるという重要な役割があります。
しかし、時にそれは普段の暮らしにとって邪魔になってしまうことがあります。
特に、掃除、片付け、整理整頓をしているときには、ストレスを感じる存在と化すことがあります。
盲目的に好きである間は、掃除をしていても気になりませんし、むしろ丁寧に移動させたり手入れしたりしていることに楽しさを感じていましたが、今はそういった気持ちがなくなり、いかに手早く、しかも手順を少なくして掃除や整理整頓をしていくか、という思考で日々暮らしています。
少し遅いかもしれませんが、やっと現実をしっかりと見て、暮らしを考えることができるようになったのだと思います。

私には配偶者も子どももいませんし、ずっと実家暮らしなので、忙しくて好きなことをする暇がないという時期は、ほとんどありませんでした。
あったとしても、それは仕事が忙しかったときくらいでしたから、趣味に没頭することもできたし、自分のためだけに給料を使うこともできました(家に入れるお金は必要経費です)
今は、母のサポートをしながら家事全般は私が引き受けており、仕事はしていませんが自分だけの時間を確保することが難しい日も増えました(といいつつ、ブログは更新していますが)
この状況になって、私が感じたことは、ムダな行動や習慣は自分の首を絞めることになるということです。
ほんの少しのことであっても、1つ余計な行動や習慣が入れば、他の大切なことをする時間が短くなりますから、少しでもゆとりのある暮らしをしたいのであれば、ひと手間がかかる習慣やモノを手放すことは必要なことなのだと、この年齢になってようやく悟りました。

かといって、趣味や好きでいることをやめるわけではありません。
趣味は、道具を使うことであれば必要最小限のモノでも満足ができるように考え方を変え、好きなことやモノに対しては、気持ちだけを大事にしてグッズは持たない(買わない)ようにして、これからの暮らしが楽しくなるように考えていきたいですね。


文章が長い割に、大した内容ではなかった今回のブログ(笑)
大好きなグッズを処分するための言い訳でしかないのですが、グッズの処分は自分自身に言い訳と説得をしないと絶対にできないことでもあるのです。
今、グッズを処分しなければいけないけれど、感情が追い付かないという方がいらっしゃったら、なんでもいいですから納得できる言い訳と理由を作ってください。
それによって、案外あっさりとグッズを処分することができるかもしれませんから。