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絹糸のしらべ

一絃の琴、きもの、文学etc…日本人のDNAが目を覚ます・・・

稽古日

2013年12月06日 17時45分06秒 | Weblog
今日は二胡の稽古日でした。
駒を替えてからもガシガシ弾いています。
果たして教室ではどんなふうな音になるでしょう~~~と
期待していきました。

今までの駒の場合、稽古不足がもろ音に出て「さぼってました音」になってたけど
さすがこの駒の威力すごい、腕・場所を選ばずすごいボリュームでした。
勿論音色も変わってますわね、伴奏してくれる娘さんがじーーーーっと二胡を見てる。。。
「あれ?二胡替えたのかな?」みたいな感じだったのか。。。
先生は、音が良く出てるのでご機嫌よろしく、でも特に何かを替えたかどうかは
興味ない感じ。
良い音鳴ってればOK!?
(ほんとは自分の練習の成果じゃいんだけど・・・心苦しいけども)

先生の二胡の音量と変わらない、いやひょっとしたらそれ以上でかい音だったかも。
やかましいくらい。。。
これでよかったのかな。
音色がかわったことについてはちょっと思うところもある・・・

もうちょっと弾いてみないとわからないかも、もっと変わるかもしれないから。
たぶん音のボリュームは変わらないと思います、抑えたい箇所は弓を短くゆっくり使いましょう~

じゃあ、今までの音色ってどんなの?というと
(黒檀製品ですが)
低音部は暗め、深く響く音、中音部に従って明るめにのびやかな音、
高音部はうまくいけば、神経をすり減らして絞り出す、悲しみを表現できる音!?
(失敗すると鳥の断末魔みたいなものに)
人間の歌声と同じように変化する音、といえるのではないでしょうか。
低音、中音、高音と、人の歌声も喉を変化させて深い音から高音の透き通るような音
あるいは悲痛な感じを出す音、とかいろいろ出来ますよね?

たとえば美空ひばりの歌声を思い出してみると分かりやすいのでは?
低音部から非常に高い音まで、実に自由自在に使い分けていましたよね。
力強い低音やか細い高音、ほんとにおなじ一人の人間の喉から出てるのか不思議なくらい。

黒檀ですとそれができるような気がしたんです。
(あくまで将来の予想です)
いろいろな音を出す可能性はあるから、音にあきることがないって思ってたんです。
また弓の使い方しだいで、更にさまざまな音色を出す可能性が(あくまで可能性)あったと思うのです。


でも、いま、先生もご機嫌になって下さったこの音はどんなのかと言いますと
美空ひばりが突然秋川雅史(千の風になって、の方)になったみたい。
最初から最後まででかい音。音色の変化がまだでてこない。
歌いすぎ?お話ではない歌になっちゃった、って感じですかね。


ともあれ、使い捨てなのに1万以上も出してさして腕に影響もない中国弓買うくらいなら
この「4回転ジャンプ」みたくダントツの威力を持つ小さな駒を試してみるべきです。
(一個5千円)
(わたしはお店の関係者じゃありません、まだ一度も行ったこともないです、一度は行ってみたい。。。)

苦あれば(こそ)楽あり(けれ)

2013年12月05日 09時05分28秒 | Weblog
「苦あれば楽あり」または「苦あらば楽あり」?

どんな意味に使っているのかって、たぶん
「苦しいこともあれば、楽しいこともあるんだ」とか
「苦労もあれば、それが報われる良いこともある」とか
そんな感じでしょうか?

二胡の駒を替えてみて
「今まで実に苦心して絞り出してきた高音部はなんだったんだ?」とか
「細心の注意を払って弾いていた、あの音たちはなんだった?」とか思うようになり
もし最初からこんなふうに楽に音が出ていたらば、
あれこれ試行錯誤やら練習がんばっただろうか?とか思います。
(まあ矛盾してるんですが)

いまこの彪駒に驚くのは、いろいろ練習方法を試行錯誤したり音源を聞いたりして
どうしたら「丈夫な音」が出るのか、自分のなかに問いがあったからではとも思います。
もし、最初からこの駒をつけてこの音が出ていたなら自分の試行錯誤はなかったのでは?

まあそんなことを考えていたんです。


世の中のもろもろのことも、同じような構図ではないのでしょうか・・・
今では、子どもがもう結婚するような年齢になり
若かりし頃のことを思い起こしたりすることがたびたびあります。
自分と親の関係や、自分の親が自分に対してどうだったかとか
それは良かったのか良くなかったのか
これからどうするべきなのか。。。

いろいろな家庭があり、千差万別でしょうけど
こと経済面について言えば、子どもが自分で一からやっていかねばならない場合と
代々経済力があり親のバックアップの上にやっていける場合とでは
天国と地獄の差!?があると思います。
でも、それは「地獄」を知っている人にしか見えない構図であり
もともと何かしら恩恵を被っている者にとっては
特別なことには思えないでしょう。
その実感もないことと思います。
つまり普通という認識しかないのでは、と思います。

人にとって「苦か楽か」ということは実に相対的で
ある人にとっては夢のようなことが他の人にとっては普通であったりして
絶対的なことはないのかもしれません。
たぶん、「苦」を得た人のほうが「楽」を感じることが多いのではないかと
想像するくらいです。
「苦」のないところに「楽」を実感することは難しいかとも思います。

よって「苦しいこともあれば楽しいこともある」ではなくて
「苦があるからこそ、楽を得られる、苦があるからこそ楽を実感できる」
そんなふうに思うのでした。