Aさんあなたは なかなか前向きな生き方が出来ないようですね。唐突な言い方ですが死ぬことが怖いですか。私はいつかは生命の終焉を迎えなければならないと思っています。それは生命体であったものが物質として自然に帰るのだと今は考えています。したがって死ぬことが怖いという感情はありません。私の家族には私の死後処理は指示書(遺言状ではありません)にしたがって欲しいと言ってあります。指示書には、連絡すべき所(日時指定)、物品の処分方法、宗教行事(これが最も困ることですが世間体を憚るならしても差し支えないが、戒名は不要)はできたらしないこと、使用していた各種機器類やわずかな財産の処分方法などが書いてあります。
さて、死の恐怖の問題ですね。おそらく死後の世界があるというのが宗教の基本ですから、死ぬことを怖いと思う方は、宗教に精神の安定を求めるのもいいでしょう。しかし宗教は本当に死の恐怖から解放してくれるのでしょうか。それが叶わないのでこれでもかこれでもかと長い年月 神・佛と称する抽象的概念に祈るのでしょうね。そして宗教者に安定した生活?をさせているのです。これは社会の仕組みの中の話ですから現在は誰も壊すことは出来ないでしょう。
宗教の考え方は、単純ではありませんがそれなりに面白いと思います。死後に極楽へ行きたいなら生きている間によいことをしなさいと説く。あるいは「神」を裏切る行い(罪?犯す)をしてしまったら「神」に告白をして許しを請いなさい。それで精神あるいは心理的には罪意識が消失する(のかもしれません)。生きている間にいいことをすれば生きている間によいことがありますよ。とは言いませんね。何故でしょうか。それは不確定要素があるからです。それと人々に死の恐怖を与えられないからです。その結果、宗教が成立しなくなりますね。
私の知人で科学を捨てて外国の宗教系の大学へ進学した人がいました。彼は数年間宗教学について勉強しているうちに、純粋に神を敬い神を信じる人たちがいないことに気がつきました。教授間の醜い争い、人間の生々しい所業に彼は絶望して退学し帰国しました。そして宗教を信じながら科学に全うしました。
私は科学と宗教的な考え方には、どうしても相容れない原則があると思います(もちろん私の宗教に関する乏しい知識からの判断ですから正しい考え方とは言えないかも知れません)。それは宗教では、「神」は絶対であり万物はすべて「神」の導きによって創造されたと考えるようです。これに対して、科学はあることが存在するのはすべてその原因があると考えるのが原則です。何故そこにそれがあるのか。その理由を解き明かして行くのが科学の発想なのです。いつの時点で現在のような結果になったのかを明確にすることが科学なのですね。「神」の創造物であると言うことでは納得できないのです。これらの考え方がどこかで合意するとは考えられません。
こういう考え方は、暴論かも知れません。難しい話になってしまいました。これ以上書くと複雑な問題が生じるかも知れませんので終わりにします。
私事ですが、先日姉の通夜・告別式に参列してきました。姉の棺の前で夫が別れの悲しみのあまり噎んでいました。これは深い愛情の顕れで、美しいと思いました。
また、数十年前になりますが、私の先生が突然亡くなり、K大学構内の教会で通夜?があり参列しました。献花をするときに奥様に挨拶したときのことです。ふと奥様の足下を見ると小さな水たまりが出来ていました。それが涙であったことを知って、私は感動しました。これほどまで夫のことを愛していたのだと思いました。それは宗教儀式を越えていたと私は感じました。
しかしケネデイ元米大統領夫人は、夫と死別後いろいろな事情があったのでしょうがまもなく再婚してしまいましたね。こんな話はいくらでもありますが、当時多くの人が呆然としたと報道されました。人それぞれにいろんな生き方があります、自分の考えにしたがって生きていくのが最良なのかも知れません。他人の心の中に入っていくのは行き過ぎでしょう。私も気をつけなければなりません。
宗教論はあまり書くととんでもない問題に発展することがあります。だからほどほどにしておくことにします。