寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

東京大空襲 火の粉の嵐を逃れて 第7回

2015年08月03日 14時33分12秒 | 日記・エッセイ・コラム

  ここで私の家から有馬国民学校への通学路と周辺
の地図を思い出す限り現代版地図に書き出してみま
した。子どもの頃のことですから少々記憶違いの部
分もあるかもしれませんがご了解下さい。

  

 当時の私の家(1)は蛎殻町3丁目にありました。
図の1のところです。通学していた有馬国民学校は
(2)のところにありました。現在の位置の西側に
なっていました。現在の有馬小学校は当時公園だっ
たところに移動したのですね。元の学校があったと
ころは公園になっていました。

 私の家の東側1ブロックのところに現在は高速道
路が走っていますが前は川(地図の太い青い線の部
分)だったのです。何という名前の川か忘れてしま
いました。歌にある「浜町河岸」というのはこの辺
のことを言うのです。この辺には芸者さんが大勢い
たようです。私の同級生の子の家は置屋で遊びに行
くとお姉さん達がお菓子をくれました。この川のず
っと上流はどこまで続いているのか忘れてしまいまし
た。この川の新大橋通りのところにあった橋を「中
の橋」(6)といいました。橋の向こう右側には釣
り船業をやっている家がたくさんありました。それ
ぞれの家の屋根の上に釣り船○○という看板が掛か
っていました。

 M劇場は浜町公園の近くにありました。浜町公園
には高射砲陣地(8)があって一般人はその部分に
近寄ることが出来ませんでした。公園には大きなプ
ールがあって空襲が激しくなるまでは私も兄たちに
連れて行ってもらったことがありました。

 お正月になると、浜町公園はたくさんの人がきれ
いな着物を着て集まってきました。子供たちはタコ
あげや追い羽根で遊んでいましたね。良い時代でし
た。
  水天宮前の4つ角には、水天宮側の角に森永食堂
と言うのがありました。ここは少し高級感のある食
堂(現代風に言うならレストラン)でオムレツやカ
レーライスのような当時では西洋料理の類に入る食
事が出来ました。

 その人形町通りの反対側に人形焼き屋さんがあり
ましたが、当時はもう店を閉めていましたね。その
向かい側にも食堂がありました。多分だるま食堂と
いう名だったと思います。この店はごく一般的な店
で雑炊や水団が美味しい店でした。美味しいといっ
ても子どもにとって外食というのはいつの時代でも
印象に残る物ですからね。

 もう一つの角には何があったのか思い出せないの
です。店が無かったのかもしれません。角から少し
兜町方向に3,4軒目に写真館がありました。上の
兄に召集令状が来たときに家族全員で写真と写しに
行きました。その写真が私が蛎殻町にいたという唯
一の記録になりました。

 私の家から右に曲がる角には質屋があり新大橋通
りに出た角には今も富貴豆で有名な「はまや」とい
う煮豆屋さんがあります。それから通学路に沿って
進むと炭屋がありました。この店は夏場は氷屋に変
わり通年を通しては小ぶりな肉屋にもなりました。
兄の友達の家で私もかわいがられた想い出がありま
す。タドン造りもやらせてもらいました。

 さて、話を本題に戻しましょう。夜になって風が
少し強くなってきました。そして夢の中で警戒警報
の吹鳴(サイレン)が鳴るのを聞いたような気がし
ました。


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