他人との会話から生じたザワザワした自分の中の正体に向き合ってみた。人は接点で付き合いをしている
と思うのだが・・・
たぶん決まり切った考え方や切り返し返答をポンと返す、日常の無責任会話や考え方が好きになれなかったのかもしれない。
もっとも会話とは、くつろぎ・場しのぎ効果を暗黙のうちに期待する処でもあったのだろう。そのように日頃から応える習性はあるけれど、
お互いの交流度合いに寄ったかもしれない・・・
「旅行が好きな人(女性)がいるわ」と話しが返った。
願望、勇気を出して「手を繋いで散歩をしてみたいの」と声に出して伝えたまでのことだった。
婚姻関係にある同性にしては、気恥ずかしい話題だっただろうか。
(頭が固かったのかもしれない)
こう書くと反応してパソコンにやってくる話題とは程遠いのだけれど・・・反応がやっぱり隠れて返ってきた。
そしてそれが現実の生活者に伝わっているのがわかる。これがいじましい。
おひとりさま 対 おふたりさまは、矛先の流れ・会話流がどこか違うように感じる時がある。なんでだあ
「暮らしていけるんじゃいいじゃない」(それが根底にあれば、十分じゃない)、が答え?
たぶん、婚姻関係は半ば形になっているのかもしれない。「ひとりは楽よ」とは本音でもあるだろうか。
ひとりで賄っている人・ふたりで賄っている人 いったい何が違う?夫婦にしても、つまるところは、「ひとり・個」?
創作ドラマや音楽芸能こそが人を保たせているとしたら、なんと殺伐として
桜も人文芸も 距離を飛ばせて 浪漫の路
とはいうものの、むつまじさこそ繋がりでもあり、身心を補い、その片りんは、人それぞれなのだろう。口に出す代物でもないのかもしれない。
そうしてふたりが続いているのかもしれない。