母は、夢をみると、いつも同じだったそうだ。夢に登場するのは、引き上げる前に住んでいた朝鮮の自宅で、タンスの引き出しを開けてしきりに着物に手を入れている。
その同じ行為で目覚めるのだそうだ。住んでいた場所や持ち物を諦めて「逃げる」焦りがそう見させたのだろうか。
戦後の日常の苦労が夢で解消されていたのかも、生活の疲れが反応したのかもしれない。母の言葉に出さない労苦や女としての願望が根底にあったのかもしれない。
実際引き上げてくる道中、所持財産を隠すのに人形のパンヤとして紙幣を小さく畳んだり、着物の襟や見返しに芯として隠したりと、誰もがしたという。
身につけるモンペが歩くと重かったのは、それらの工夫らしく、笑いも混じった戦争の逸話だった。(今、所持している特に役にも立たない写真や書類は、当時の道中を偲ぶからこそ、
重みが増すのみでもある。)
昼間は歩けず、夜にかぎって一行は歩いたそうで、ロシア兵は二つ持っていた人形のうち、市松人形を引き取り、別の人形にかくしておいた品が難を逃れたそうだ。
姉は乳児で、船に乗り込んでから泣き声を忍ばせるのに、乳房をくわえさせたまま海を渡ってきたそうだ。気づくと、赤ちゃんの頬は血まみれになり、なんと乳房が海風を浴び、
皮膚が傷付いていたためだったらしい。
佐世保沖だろうか、陸が見え、船を降りると、海岸から機銃の玉が浴びせられたそうで、「よく当たらなかった」と、聞いた話を思い出す。