
このブログを始めた時もそうだったように、ある日突然、やるぞ!というような衝動・・・う~ん、背中を押されるようなエネルギーに突き動かされることがある。
梅干しづくりだってそうだ。
別に、梅干しなんてどこでも手に入るし、なけりゃなくて良いものなのに、梅干しを作りたい!と何故か強く思った時があって、それがたまたま四条の大丸付近で(笑)
すぐさま地下の食料品売り場に行って、当時、何にも分からないから売り場に並んでいた3Lサイズの1㎏1380円、いや、もっと高かったか?のを買って帰った。
作り方は子供の頃から、母のをみていたからだいたいは分かる。
ただし、この間もジム友さんとも話していたけれど、昔の梅干しはしょっぱかった(笑)
母のもとにかく早く梅酢をあげてカビさせないのが主眼だから、梅酢が上がっても紫蘇を入れても、ガラス瓶の底には融け切らない塩が溜まっていた。
その点? 私は梅の重さの18%の塩で、母の作っていたのから思うとかなりな減塩タイプ。
でもね、こうして何年か続けていて、その都度思い出すのが、ある年、梅のヘタを取るのが面白そうだったから母の横で爪楊枝を使ってヘタ取りをしたことがあったの。
その年、梅がいつまでも固くて梅酢も上がりにくかったのか母がひどく気にしていて、挙句に「あんたが要らん事したからや」って。
そりゃそうかも知れない。 なんせ母にしたらそんな事は初めてだっただろうから。
でも、違うかもしれないじゃん。 梅の出来でも違う、というのは何年か続けて自分でやってみてわかること。
ただし、私はひどく傷ついた。 申し訳ないという気持ち半分と、私のせいなの?という気持ちと。
ずっと忘れていたのに、自分で梅の生り口のヘタを取るたび、あの時の母の言葉が蘇る。
父は、毎年、出来たばっかりの梅干しをご飯にのっけて食べて、やっぱり新しいのはうまい!と言ってた。
確かに、自分でも作るようになって感じるのは最初の梅干しはフルーティだということ。
しょっぱさや酸っぱさの中に、漬物になっても私は果物です!というような梅の実の主張を感じること。
つらつらとそんなことを思い出す。
梅干しづくりだってそうだ。
別に、梅干しなんてどこでも手に入るし、なけりゃなくて良いものなのに、梅干しを作りたい!と何故か強く思った時があって、それがたまたま四条の大丸付近で(笑)
すぐさま地下の食料品売り場に行って、当時、何にも分からないから売り場に並んでいた3Lサイズの1㎏1380円、いや、もっと高かったか?のを買って帰った。
作り方は子供の頃から、母のをみていたからだいたいは分かる。
ただし、この間もジム友さんとも話していたけれど、昔の梅干しはしょっぱかった(笑)
母のもとにかく早く梅酢をあげてカビさせないのが主眼だから、梅酢が上がっても紫蘇を入れても、ガラス瓶の底には融け切らない塩が溜まっていた。
その点? 私は梅の重さの18%の塩で、母の作っていたのから思うとかなりな減塩タイプ。
でもね、こうして何年か続けていて、その都度思い出すのが、ある年、梅のヘタを取るのが面白そうだったから母の横で爪楊枝を使ってヘタ取りをしたことがあったの。
その年、梅がいつまでも固くて梅酢も上がりにくかったのか母がひどく気にしていて、挙句に「あんたが要らん事したからや」って。
そりゃそうかも知れない。 なんせ母にしたらそんな事は初めてだっただろうから。
でも、違うかもしれないじゃん。 梅の出来でも違う、というのは何年か続けて自分でやってみてわかること。
ただし、私はひどく傷ついた。 申し訳ないという気持ち半分と、私のせいなの?という気持ちと。
ずっと忘れていたのに、自分で梅の生り口のヘタを取るたび、あの時の母の言葉が蘇る。
父は、毎年、出来たばっかりの梅干しをご飯にのっけて食べて、やっぱり新しいのはうまい!と言ってた。
確かに、自分でも作るようになって感じるのは最初の梅干しはフルーティだということ。
しょっぱさや酸っぱさの中に、漬物になっても私は果物です!というような梅の実の主張を感じること。
つらつらとそんなことを思い出す。
うんうん。 あまり食べないなら無理に自分で作る必要はないわ。 道の駅とかだと農家さんの自家製もあるしね。 私は梅干し作りが楽しくて仕方ないの(笑)