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道を進むと、草薮混じりの広い平坦面が見えてきました。現地の字名は「大館」と書いてオオダテと読みます。大きな館、という意味そのままの、広い中世城館遺跡です。所在地は大洗町の成田町に含まれます。
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草薮は各所に広がって、土塁や空堀などの遺構をも覆っているため、遺跡の概要を掴むのは難しいです。農道をたどって草薮の中を抜け、平坦面がどこまで続いているかを追うのが精一杯でした。
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とりあえず、北へ進んで農道の終点に達しました。それからは畑のあぜ道を進んで平坦面の北側へと移動しました。この城館遺跡の遺構は、北側において空堀などが良好に残っていることが知られています。
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畑の縁の草薮をくぐぬけると、眼下に見事な空堀が見えました。外周土塁を伴う横堀で、この城跡への通路空間も兼ねていたとされています。防御のために屈曲しているのみならず、段差を経て堀底が低くなったり高くなったりしていました。
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私が降りた場所は、北東隅の虎口から続く横堀の堀底面が広くなっているところで、踊り場のような感じでした。城館の土塁上の三方向から見下ろされる場所なので、番所もしくは木戸を置いて出入りを監視していたのかもしれません。
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踊り場のような広い場所から西には、高さを変えて横堀が続いていました。その堀底面がやや狭められているのは、防御上の工夫の一つで、敵が大勢で入れないようになっています。
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城内方向を見ると、高い切岸の上に土塁が巡って塀のような感じに見えました。かつては土塁の上に柵または板塀が設けられていたと推定されます。現状でも堀底からの高さが三メートルぐらいあるので、長槍でもかろうじて届くか、といった感じの高低差があっただろうと思われます。守備側は弓矢や石飛礫などで応戦出来ますが、攻める側は鉄砲を揃えて射撃したとしても、土塁まで登ることすら容易ではなかっただろうと思われます。
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草薮に包まれつつある横堀から土塁を登って城内に戻り、内側にもある横堀をたどって東側に進むと、やがて左に曲がって南に向き、広い平坦面へと出ました。この地点の字名が「館ノ内」であるので、平坦面は城館内部の空間の一部であったものと思われます。
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城館遺跡内を通る農道の一部は、東に通って上写真のように城館遺跡の高台から北に降りる下り坂となり、丘裾を巡る農道に合流しています。その様子がいかにも城への出入り口のような雰囲気をただよわせていますが、高い切岸面を破壊しているので、本来の出入りルートではなかった可能性が高いです。
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丘裾を巡る農道を少し南に降りて、北を振り返りました。この農道は、位置やルートからみて中世戦国期の道を踏襲している可能性が高いとみられていますが、もしそうならば、大館館はこの道に接してこれをおさえる要害であったということが出来ます。
道は、いまは夏海地区に通じていますが、現在でも涸沼から夏海へ直接連絡出来る唯一の道であるので、中世戦国期の夏海地区に何らかの関わりをもつ有力者が大館館の運営主体であった、と推測することも可能です。
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丘裾の農道を南へと降りてゆくと、湿地帯の向こうに涸沼駅が見えました。湿地帯はかつての涸沼の名残であったそうなので、涸沼の規模が今よりも広かったことが伺えます。大館館遺跡のある丘陵先端部は、もとは涸沼の水面に接していたのかもしれません。
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再び車道に戻り、さらに北へ約50メートルほど進みました。左手に大館館の丘より小さな丘が見えてきます。この尾根先端部にも中世城館遺跡が位置しています。
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丘の南側には、小さな農道が通っており、上写真はその入口付近を見たところです。左の電柱が、唯一の目印でした。軽トラすらも入れない、細い道が城跡の丘の南裾へ続いていました。 (続く)