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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く11 その12 「更に古い廃線跡です!!」

2014年11月14日 | 大洗巡礼記

 渡ってきたばかりの海門橋を振り返りました。水浜線が渡っていた海門橋とは規模も位置も全く違う橋です。


 海門橋を通る県道108号線の下を、斜めに通る道を見下ろしました。かつての水浜線の軌道跡をなぞっているということです。


 県道の西側には、かんぽの宿大洗へと通じる階段があり、それを使えば下の道に行くことが出来ます。階段を下りた時点で海門橋を見ると上図のようなアングルになります。


 道を進むうちに、左手の民家横の電柱の根元に杭があるのに気づきました。


 近づいて確かめると、まぎれもなく水浜線の境界標杭でした。電柱の陰に、かろうじて「水」の字が読めました。


 杭を見つけたことによって、県道108号線の下を斜めに通る道が軌道跡であることを実感しました。


 その道は、南ではまっすぐな登り坂となっていて、これが軌道跡であるように思えてしまいますが、戦後に米軍が撮影した航空写真を見ると、その西側の池の周りをまわりながら上に登る軌道がはっきり見えます。なので、この登り坂は廃線跡とは無関係であることが分かります。


 道を高架下まで行き来しているうちに、民家の西側でも杭を見つけました。


 この杭には、「茨交」と書かれています。字体がやや新しいので、戦後に造られたものと思われます。


 西側をループしながら登っていた軌道跡は、草薮と私有地になっていて入るのも憚られましたので、ここは登り坂をストレートに進んで上の軌道跡に移動することにしました。


 登り坂の上には願入寺参道との交差点があります。上図右側にコスモスの群生が見えますが、そのあたりをループして登ってきた軌道跡が通っていたと聞きました。


 交差点のあたりには、かつて願入寺口の停車場があったそうです。右に見える料理店の位置が停車場の位置とされ、車道は現在よりも左寄りについていたそうです。その道を西にずらして拡張したのが現在の広い車道です。


 車道の東側には、御覧のような細長いスペースが続いています。一見して軌道跡かと思ってしまいますが、線路は道の西側を通っていたので、こちらのスペースは線路に沿って西側についていた旧道の名残りとみるべきでしょう。
 このあたりの道が広かったことは、戦後に米軍が撮影した航空写真でもはっきりと視認出来ます。


 その、米軍撮影の航空写真を、参考までに「国土変遷アーカイブ空中写真閲覧サービス」にて検索し引用させていただきました。海門橋がまだ再建されておらず、当時すでに休止となっていた水浜線の軌道がはっきりと見えます。現在の大洗ゴルフ場の敷地内にあたる範囲の軌道も見えますので、これを現在の地図と合わせることによって、軌道跡の正確なルートが把握出来ます。
 これで見ますと、天妃神社の丘の南側をぐるりと回って台地上にあがり、道路の西側に沿ってやや南南西に通り、東に曲がって道を横切る軌道の様子がよく分かります。今回の探索では、この写真の拡大コピーを持参して地図と照らし合わせながら進めました。


 願入寺への参道筋を見ました。寺への再訪もしてみたかったのですが、時間的余裕が無いので、明日にしようと考えました。


 かつての願入寺口の停車場跡付近です。奥に赤い平屋根の建物が見えますが、あの辺りへ軌道がカーブして下に降りていった形になります。


 道を南へ歩きました。軌道跡は右側の宅地内を通っていたのですが、遺物らしきものは見当たりませんでした。


 進むうちに、右手の宅地の地割が細長くなっているところが見えてきて、次の辻で右折してその地割の延長上に行ってみました。そこで、付近の住人らしき80歳ぐらいの老婆に出会ったので、水浜線のことを訊ねたところ、今立っている地面を指して、「ここから、あの小屋のところを線路が通ってずっと行って、左に曲がったら祝町の停車場だったよ」と教えて下さいました。

「ここの区間は、昭和20年に軍の命令で休止になったそうですね」
「まあ、そういうことになっとるがね、その前に海門橋が流されて電車が通れんようになってから、電車も願入寺口止まりで折り返してたし、本数もぐっと減ったから、廃止は時間の問題やったねえ。電車が来なくたってバスがあったんだから、そっちを使えば良かったわけだしねえ」
「バスが走ってたんですか」
「うん、大貫や磯浜を回って水戸まで行けたしね。いまのバス路線とあんまり変わってないよ」
「線路の方は休止した後もしばらく残ってたんですか」
「残ってたというか、最初は勝田町(現ひたちなか市)にあった軍需工場への鉄道に転用するんだとか、そういう話を聞いたことがあるんだけどね、海門橋だって軍隊が管轄してて再建もやるぞって話だったけど、敗戦になって全部なくなってしまったみたいだねえ」
「その軍隊というのは、どういうものだったんですか」
「陸軍でしたよ。那珂湊とか、勝田とかに防塞作るんだとかで工兵隊みたいなのも来てたらしいけど、大部分は勤労奉仕や挺身隊の方でしたねえ」
「敗戦後は、線路とかはどうなったのでしょうか」
「しばらくは残ってましたよ。でも電車が大洗で折り返すようになってから線路も無くなったと思うんだけど、よく覚えていないねえ」

 水浜線が大洗駅を終点としたのは昭和28年のことなので、その後に線路も撤去されて軌道跡は急速に消えていった、ということでしょうか。いずれにせよ、水浜線を記憶しておられる方に出会って話を聞くことが出来たのは幸運でした。


 今回の探索範囲を地図上にまとめました。戦時中に廃止同然になっていた区間だけに、古写真が全く知られないようで、当時の沿線の景色を知るのも困難です。米軍撮影の航空写真が無かったら、この範囲の軌道跡すら、よく把握出来ないままに終わってしまったのではないかと思います。 (続く)

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1 コメント

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Unknown (唐山)
2016-09-22 17:42:14
かんぽの宿から見下ろして軌道跡みたいなのがあるなあ、と思ったらぞうでしたか。
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